空亡
「わざわざ御足労頂き、感謝します」
「気にしないでよ。ボクの大事な部下だからね」
朝のカフェに、スーツの男が二人。
片方はどこか不機嫌そうな表情を崩さない、灰色の髪をオールバックに纏めた長身の男。
翔人だ。
相席するのは翔人よりも頭一つほど身長の低い、彼とは対照的に物腰の柔らかそうな黒髪の男。
何処か余裕を窺わせる柔和な笑みを絶やさず、若干猫背に軽食を口に運んでいた。
「ローストチキンとタマゴのホットサンド。うーん、美味しいね。これ、親子サンドとか言うのかな」
「防衛大臣」
「堅苦しいなぁ八備クン。今はプライベートなんだから、久慈桐さんで良いのに。それとも、蘆屋の方が呼びやすい?」
この男こそ久慈桐道摩。
現在の防衛大臣だ。
霊災対策室は防衛省の管轄であり、翔人としては唯一の直属の上司に当たる。
またの名を蘆屋道満とも。
「じゃあ久慈桐さん。貴方、今回の事についてどこまで知ってるんですか?」
「どこまで……かぁ」
怪訝そうな翔人の問いに、道摩はマイペースに布巾で口元を拭いながら、のんびりと視線を上げた。
両手の指を腹の上に組み、背もたれに体重を預けながら満足そうに嘆息する。
「青い蝶の羽が崩れた頃から、陰陽師、妖、そのどちらの力も満足に通じない怪物が暴れ始めた。八備クンはその対策を考えて素戔嗚と接触をしたのだけれども、その傍らで青い蝶は黄色い蝶に食われてしまいました……って所?」
「蛾蛇髑髏を妖とは呼ばないのですね」
「呼ばないねぇ。だってアレ、妖ともちょっと違うもん」
平日昼間の喫茶店。
周囲を見ても人影はまばらだ。
人に聞かれて困る話題ではないのだが、大勢に聞かれたい話題でもない。
とあれば、こういった空間は打ってつけだ。
翔人のカップにはコーヒーが注がれているが、それはもう湯気も上がらない。ちなみに道摩のカップは空っぽだ。
「八備クンが蛾蛇髑髏って呼んだアレね? 神様の失敗作なんだよ」
「…………」
「過去二回は八備クンと妖の乱入で失敗しちゃったから、今回ばかりはと思ったんだけどねぇ。いやはや、まさかまたも失敗しちゃうなんて」
「久慈桐さん、あれは……蛾蛇髑髏は一体何なんですか!」
「空亡」
声を荒げた翔人の耳に、極めて静かな、そして冷たい声が入ってきた。
満足そうな微笑を浮かべたままの道摩は、備え付けの角砂糖を一つ、そのまま口に運ぶ。
仕草は何処か艶かしく、道摩の整った顔立ちもあって極めて美しい。
しかし同時に気味が悪くもある。
現実離れした光景には、美醜問わず少なからず嫌悪を抱くものだ。
「バカな。有り得ない。空亡なんて実在するはずがない」
「そう。空亡は実在しない。してはならない。なにせアレは、人々の空想上に生まれた、最強の怪異だからね」
百鬼夜行絵巻には、あらゆる妖怪を逃げ帰らせる太陽という一幕がある。
この太陽を妖怪として定義した物が空亡。
概念として人々の間に根付く事になった経緯は極めて複雑ながら、それはかつての時代に天災や奇病が妖として広がった経緯に酷似しており、突如として現れた現代の怪異と言える。
空亡はあらゆる妖怪を討ち滅ぼす太陽としての側面を持ち、それ故にあらゆる妖怪は空亡には勝てないともされる。
そして、人の持つ術では存在しない物へ干渉する事はできない。
「絶対異能耐性。ボクはアレの力をそう呼ぶことにしたよ」
「妖の力も人の力も干渉できない存在……言い得て妙ですね」
「アレは本来ならば妖じゃない。だって、神祭によって下ろされ存在だからね」
道摩は貼り付いたような笑顔のまま、のうのうと言ってのける。
おかげさま蛾蛇髑髏については大方理解できた。
しかし、それでは桜斑咲は何者なのか。
第九神祭によって下ろされるはずだった空亡のなり損ないが蛾蛇髑髏だとするならば、時を同じくして発生したあの妖蝶は一体……。
「考え事?」
「こんな話を聞いて考え事の一つもしない方が、陰陽師としてどうかと思いますが」
大きな溜め息を吐いた後、翔人はようやく自分のカップに手を伸ばした。
香りの良かったコーヒーは、しかしすでに冷めきっている。
一息にそれを飲み干すと、彼は席を立った。
「会計は私が持ちます」
「え? いいよ。ボクの方が上司なんだし、まだもう一杯くらい頼--」
小さな発砲音。
翔人の手にはサプレッサーの取り付けられた黒い拳銃が握られ、銃口からは細い煙を立ち上らせていた。
道摩は額から血を流しながら、机に突っ伏すように倒れ込む。
「これで追加注文も無くなった。代金は【せんえんさつ】で構わないな?」
千円札。
せんえんさつ。
殲炎殺。
財布から取り出した紙幣は翔人の手を離れる、ひらりひらりと舞って道摩の遺体へと触れる。
刹那、彼の体から煌々とした炎が吹き上がり、瞬く間に燃やし、尽くし、消してしまった。
「久慈桐さん。貴方が神祭へどれだけ傾倒しようが気にしないつもりだったがね」
何事も無かったかのように無人となったテーブルから踵を返し、翔人は出口へ歩いて行く。
レジの前を通りすぎる際、店員にそっと手を翳せば、眩い光と共に店員の姿は消え、その手に人の形を模した一枚の札が握られていた。
「あんたは私の管理地である彩篠宮の人間に手を出した」
吐き捨てるような呟きは、しかし誰の耳に届くこともなく。
翔人が去った後の喫茶店は、嘘のように賑わっていた。




