第八への疑念
眼前に広がるのは資料棚の森。
長身なカブトの頭よりも高い棚が視界いっぱいに広がっているのだから壮観だ。
壮観すぎて目眩がする。
ここは彩篠宮図書館の地下。
広大な空間を余すことなく使って収納されているのは、これまでの霊災の資料だ。
被災地となった土地の詳細や、神霊災害の発生前後の状況、そして、最もこのスペースを圧迫しているのが犠牲者達のリスト。
「さって、八備さんは……」
「すまないな。折角の休日だというのに」
「どぉうわぁぁぁ! びっくりしたぁ! いきなり後ろに現れんでくださいよ!」
部屋の中程まで進んだ辺りで背後から声が掛けられた。
薄暗く仄かに冷たい資料室はどこか不気味で、恐る恐る歩いていた所でこれである。
むしろカブトの大声にこそ驚きそうな物だが、そこは流石、普段から魑魅魍魎の相手をしている翔人といった所か。
まるで動じないどころか、抱えていたファイルを平気な顔で差し出している。
困惑しながらも流れでそれを受け取とると、歩き始めた翔人の後ろに着いて行く。
「カガミとミナモには別の事を頼んでいてな。一人でやれない事もなかったのだが、流石にこの量だ……可能なら人手が欲しかったんだ」
「なら、ムラサキも呼べば良かったんじゃないっすか?」
「彼に関係する事を調べるのに、当人を呼べるわけがないだろう」
資料室のど真ん中、事務所机が無造作に置かれている。
その上にはいくつものファイルが積まれており、このままでは机がまともに使えない。
翔人はそれを乱雑に抱え、床に下ろす。
「そんなでいいんですか?」
「どうせ私しかここは見ん。文句を言うのはミナモくらいだ」
「文句は言われるんすね……」
置いてあったファイルにも持ってきたファイルにも第八の文字が書いてある。
神霊災害は本来、神祭と呼ばれる神降ろしの祭事であったことは以前聞かされた。
そして、第七の神祭にて降ろされたのが素戔嗚であり、その力を取り込んだのはハナカマキリという妖。
オオムラサキの関わる第九の神祭はいまだ全貌が見えず、降ろされた神も不明だ。
では、第八とは一体……。
「第八神祭では月読という神が降ろされた」
「それも、どっかの妖に力が寄っちまったんすよね」
「ああ、月読の力を得たのが奇異路鳳だな」
「しれっとすげぇ大切な事言いませんでした?」
ファイルの資料を捲りながら、翔人は淡々と第七神祭について語って行く。
しっかりと目を通せているのか不安になるほどの速度でページを捲って行く翔人とは違い、カブトは常識的な速度で資料に目を通していた。
指示されたのはただひとつ。
気になる名前があれば教えてくれということのみ。
ちなみに報酬は焼き肉食べ放題。
そこそこ良い所らしく、まあやることもない休日のお手伝いでそんなものを食べさせて貰えるならば願ったりだ。
それに、恩人であり友人でもあるオオムラサキには、少しでも力になってやりたい。
彼がこの先どう動くのかは分からないが、きっと無駄にはならないだろう。
「奇異路鳳は二つ目の神の力を狙っているのではないかと考えている」
「ムラサキが第九の神様を降ろすのに必要ってんなら、まあ分からなくもない話っすね」
「アゲハに限ってそれは無いと思うわ」
静かな声が聞こえた。
決して張った声でもないのに、入口の扉の前に立つ女から発せられた、その鈴の音のようでありながらあまりに平淡な声は、まるで耳元で話されたかのようにハッキリと聞き取れた。
死装束のような真っ白な着物を纏った長い黒髪の女は、裸足のままゆっくりとこちらへ近付いてくる。
よく見れば、その後ろにはミナモが立っていた。
「お久し振りね。八備翔人」
「ああ、久方振りだな。花々万斬」
「え、ハナカマキリって……」
流し目。
艶かしく細められたその菫色の瞳がカブトへ向けられる。
背筋に寒気が走った。
視線を合わせただけだというのに、まるで首元に刃物でも当てられたような。
「お名前は?」
「獅子……あ、いや。違うな。あんたが訊いてるのはそっちじゃねぇ。カブトだ」
「あら? ……ふふ、よろしくね? カブト」
袖で口許を隠しながら小さく笑うハナカマキリだが、その目は決して笑ってなどいない。
カブトムシの成虫はカマキリを天敵としない珍しい虫の一つでもある。
本来なら本能的な恐怖を覚える事もないのかもしれないが、目の前の女は、そして自身は虫ではなく、虫の名を持つ妖にすぎない。
昆虫のパワーバランスなど、参考にもならないと考えておくべきか。
「翔人。アゲハは力に執着があるようなタイプじゃないわ。あの子、きっと蝶の力と月読があれば十分なはずよ」
「では何故、桜斑咲君に……」
「アゲハの考えている事なんてさっぱり。でもそうね、道満の思惑を潰したいだけ……とかじゃないかしら」
蘆屋道満。
神霊災害の度に必ず姿を見せる怪人だ。
道満が現れたかどうかが、大規模霊災か神霊災害かを分ける基準とされているような事すら、翔人は言っていた。
「なるほど、あくまで桜斑咲君を狙うのは手段を獲得するためであり、それその物が終着点ではない……と」
「ええ、アゲハってば道満の事を相当嫌ってたみたいだもの」
「私に言わせれば、神祭に関わったことのある者で、あの御老体を好いている者などいないと思うがね」
「当たり前よ」
有力者二人にここまでボロクソに言われる蘆屋道満とは一体どんな人物なのだろうか。
断じて会いたくはないが、少しだけ気になってしまう。
しかしまあ、神霊災害などという大事の引き金になっているような相手なのだから、恨まれるのも道理か。
「しかし驚いたよ。まさか、君が彩篠宮まで来ていたとは」
「餌があれば虫は集まるのが道理でしょ? 彩篠宮……妖の宮。良い名前じゃない。名前に惹かれるように、色々な妖がこの街には居るわ。そして、アゲハとオオムラサキも」
「……霊災への対策に当てられている公務員が私一人である以上、日本各地で事を起こされたのでは対応しきれない。だから、霊災の火種は一ヶ所に集まってくれる方が都合が良い」
「能力の使い方をよーく分かっているのね。先代の八備翔人の方が優秀なんてよく言うわ? 能力こそ低くとも、私は貴方以上の言霊使いが想像できないもの」
カブトはいまいち理解できない二人のやり取りを聞き流しながら資料のファイルを捲っていた。
まあ、目を通している資料の内容も流し見程度。
神霊災害ではないが、カブト自身も霊災の被害者であり、犠牲者の名前に痛める程度の心は持っている。
だがその程度だ。
心は痛むが、悔やんでやる事も、大きく感情が揺れる事もない。
全ては過ぎてしまった事なのだから。
「ねぇ翔人。変な妖に出会ったのだけれど、何か知らないかしら?」
「特徴を聞こう。変でない妖など、私の主観では居ないからな」
「失礼ね」
「失礼ですね」
「失礼な」
「なるほど、四面楚歌」
翔人に冷たい視線が送られたのも一瞬。
ハナカマキリが語り始めたのは、妖の力の一切が通じない蛇の事だった。
カブトとしてはピンと来ないが、話を聞く翔人は顎に手を当ててやや俯きがちに何やら考えている。
隣に立つミナモはどこか不安そうな視線を主へと向けていた。
どうやら、二人には覚えがあるらしい。
「……蛾蛇髑髏だな」
「ガジャドクロ?」
「本来なら餓者髑髏。巨大な人骨の妖怪で、大きな音を立てながら徘徊し、人を見付けては襲う怨霊の集まりだ」
「でも、私が見たのは人の形とは縁遠かったのだけれども」
「だから蛾蛇髑髏なんだ。虫の蛾に蛇と書いて蛾蛇。花々万斬、君が見たのは体の末端か何かだろう」
ハナカマキリの事はカブトも翔人からいくらか聞いている。
名前の通り花のように可憐でありながら、万の妖を斬って喰らう捕食者。
流石に話を盛りすぎなのではないかとも思ったが、なにせ真顔で話す翔人の隣でミナモが大人しくしているのだから、信じてしまいたくもなる。
神霊災害という名に縛られた最初の神祭である第七の際は、事実数えきれないほどの妖がその神の力を我が物にせんと集ったのだとか。
さながら百鬼夜行だ。
それらの内、少なくとも半分以上はハナカマキリに始末されたという記録も残っている。
他ならぬ、翔人が書いた物として。
「名前が見えるのは便利ね。私も言霊使いの修行でもしようかしら」
「やめておけ。君の場合、それが必要になる場面が少なすぎて時間の無駄だろう」
「それもそうね」
素直に引き下がる事にツッコミの一つでも入れたくなるが、いささか距離感を測り違えるのが怖すぎる。
妖の力の扱いにそこそこ慣れている上に、恐怖心すらもあまり表に出ないムラサキならともかく、妖となって日の浅いカブトならばなおのこと。
親しそうに見えて、まるで張り詰めたピアノ線のような危ういハナカマキリと翔人の会話を聞きながら、カブトは次の資料を開く。
聞いている限り、ハナカマキリの目的は蛾蛇髑髏と呼ばれた妖の情報収集。
翔人がそれに付き合う理由は分からないが、まあ口を出す事でもあるまい。
そして居心地が悪いからとこの場から離れるのも気が引けるならば、できることなど限られよう。
「……………………」
見ず知らず、二度と……いや、一度として会うこともない人々の名前が次から次へと視界を通って行く。
さて探したい名があるわけでもなし、そんな中でこれを見ていて何か成果があるのだろうか。
「ここでは上の応接室に移動しよう。ここでは飲み物の一つも出せやしない」
「あら、気が利くのね」
「奇異路鳳の事をよく知る客人を無下にはできん。すまないがミナモ、コーヒーを一つと紅茶を二つ。あと自分を好きに用意してもらえるか?」
「かしこまりました」
「あ、じゃあ俺ここらの資料いくつか持ってっていいっすか? 正直、八備さんとハナカマキリさんの話に割り込める気ぃしないんで」
本来ならここの資料の持ち出しは厳禁らしいが、翔人はすんなりと頷いた。
流石は管理責任者。
余人に見せたい物ではないが、見られて困るものでもないという事だろうか。
それから数刻経たずして、奇妙な一団は地下室を後にする事になった。




