鏡狐
暗い雑居ビル。
暗い受付。暗い階段。
あれからはまだ一週間しか経っていない。
羽を失う前はもっと長い間ここを訪れない事もあったのに、何故だか懐かしさに似た感覚すら覚える。
扉を開け、オレンジ色の明かりが照らす部屋へと入る。
「これはこれは、ようこそいらっしゃいました。桜斑咲様」
幾度も聞いた言葉と共に、ムラサキの来訪を歓迎してくれたのはカガミだった。
しかし、いつもとは少し雰囲気が違う。
装いが普段のメイド服ではなく、ホットパンツと若葉色の薄手のシャツに半袖上着を合わせた極めて動きやすそうな格好だ。
もう一つ違和感があるとすれば、ムラサキを迎えてくれた言葉が彼女一人から発せられていた事か。
いつもならミナモと二人で交互に掛けられる言葉が、途切れる事なく言われたのが気になった。
「今日はオフ」
と、いう事らしい。
言葉使いや言葉選び、翔人への態度を見る限り、従者らしく振る舞うミナモとは対照的に、カガミはまるでそんな風には見えない。
一応、メイド服を纏っていて翔人を主様と呼ぶのと、一緒に話すミナモがクールながら忠誠心に厚そうな様子で居るために目立たないが。
だからだろうか。
今の格好……おそらく彼女の私服はとても似合って見えた。
「翔人さんは?」
「桜斑咲様。私服の女の子を前にして開口一番で野郎の話題はどうかと思う」
「僕は主人を野郎と言う方がどうかと思う」
「ほら、可愛いとかなんとか言ったらどう? 可愛いとかなんとか」
「可愛いですね」
「あんまり気のない相手にそんな事言うもんじゃないよ」
「翔人さんは留守みたいですね。僕はこれで」
「ごめんなさい調子に乗りました。謝るから待って。帰らないで」
ムラサキが言えたことではないが、無感情というかどこか淡々としてるカガミは半目のまま涙目になってすがり付くという非常に器用な真似をしている。
促されるまま対策室の椅子へと腰掛けたものの、二人の間には沈黙が流れるばかり。
感情が縛られているムラサキと元から無表情なカガミが二人だけで顔を合わせていればこうなるのは、言ってしまえば当然の帰結だろう。
話題がない。
……いやある。
空気に飲まれてすっかり忘れる所だった。
「カガミさん。第九神霊災害について、何か知りませんか?」
「知ってるよ」
即答だった。
主人である翔人がムラサキに語らなかった事だというのに、こうもあっさり頷かれるとは思ってもいなかった。
なんなら、この無表情な狐メイドの僅かな表情の機微から真実を振り当てるつもりまであったというのに。
「あの日の事が聞きたいんだ。僕が……桜斑咲が生まれた日の事を」
「桜斑咲様」
背筋を伸ばし、姿勢よく座るカガミが彼の名を呼んだ。
続く言葉は無いが、向けられる薄灰色の視線には百の声よりも強い何かが宿っているように感じられた。
覚悟はいいのか?
己を知る恐怖を失念していないか?
知ることは一方通行だぞ?
脳裏にそんな言葉が過る。
「僕は……」
そんな彼の視界に、黄色の蝶が舞った。
いや、実際その場に蝶は居なかったのだろう。
なにせ、それを目で追おうとした時には既に姿が無かったのだから。
まるであの女が嘲笑っているかのように。
一度瞼を下ろし、ゆっくりと開けて薄灰色の瞳に視線を返す。
覚悟はできている。
「分かったよ。でも、一つだけ知っておいてほしい」
「何?」
「これ話したらカガミは確実に主様に怒られる」
「なんかごめん」
でも聞く。
というか、それが嫌なら少しくらいしらばっくれてもよかったのではないか。
半目と言うのかジト目と言うのか、ともあれどことなく眠そうなカガミは、翔人に叱られるなどと言う割には気にしている様子もない。
むしろ……いや、やめておこう。
人と極めて近い場所で生活こそしているが、カガミとミナモの二人もハナカマキリ同様に人ではない。
ムラサキの物差しで推し測ろうというのがそもそも間違いだ。
「まずは神霊災害が何なのかって所から話さないといけないね」
「知ってるよ」
言葉によって縛られた神祭。
あの車内で、あるがままの形であれないその言葉に、どこか自分を重ねながら、アゲハからその話を聞いた。
神を下ろす儀式。あるいはその力を。
言葉は読み方一つですら意味が変わる。
きっと、それ故に人々の認識から受ける影響は絶大であり、だからこそ名前を縛る術を用いたのだろう。
ムラサキは、自分が知った事を可能な限り詳細に、しかし簡潔にカガミへと伝えた。
彼女は途中から瞳を伏せ、ムラサキが話し終わるとゆっくりと目を開く。
普段なら冗談なのかそうでないのか分からない様子で、寝てたとでも言いそうなものだが、今日はそういう気分でもないらしい。
「じゃあ、仮称第九神霊災害。長い。第九がなんで仮称なんて呼ばれるか分かる?」
「それは--」
「ただの一人しか犠牲者が出なかったからだよ」
ムラサキの言葉を待たずにカガミは続けた。
終始疑問文と言うのだったか。いや、それともまた違うのかもしれない。
口に出さないとはいえ聞き齧った程度の知識で物事を考えるのは良くない。後日改めて勉強しよう。
「普通、神降ろしなんて物はたくさんの生け贄を用意して行うんだよ。用意って言っても誘拐して連れてくる訳じゃなくて、儀式を行う場所に選ばれた土地の人達を、許可もなく神様が連れていくんだけど」
「大規模な霊災が神霊災害だって信じられている所以だね。ゾッとする話だけど」
「そう。だから、神祭を執り行ったのに犠牲者が一人なんて事が、そもそもおかしいんだ」
カガミは一度席を立つ。
扉を開け、奥へと入って数秒。あるいは十数秒。
戻ってきた彼女の手には紫色の液体が入ったペットボトルと二つのコップ。
アレには覚えがある。
ムラサキコーラだ。
「飲む?」
「…………」
しばし悩む。
毒々しい色と記憶にある不思議な味。
決して美味であった記憶はなく、好んで飲みたいかと言われると首を縦には振らないであろう物が目の前にある。
あれよりも紅茶かコーヒーを頼みたい。
なにせ、対策室で出してもらえる物は美味いのだ。
だが、好奇心と言うだろうか。
美味かった記憶は無いのに、あの不思議な味をもう一度味わってみたくもある。
いつの間にか頷いていたのか、目の前にはあの液体が注がれたコップが置いてあった。
「その被害者っていうのが僕か」
「うん。まあそこはあまり重要じゃないかと思って、言わなかったんだけど」
カガミはまるで、分かりきった事だろうとだも言いたげだ。
神霊災害の犠牲者というのは、あの日に人ではなくなった者を指すのだろう。
通常、そんな事態になるのは死亡時なのだろうが、ムラサキやカブトのように文字通り「人ではなくなった」だけの場合もあるのだと身を以て知っている。
「あの日の犠牲者は桜斑咲様一人であろうとも、他の幾人であろうとも関係ない。関係があるのは、あの場に道満が居たこと」
「道満?」
「聞いたこともない? 蘆屋道満。もしくは道摩法師。小僧……じゃなかった。安倍晴明のライバルとしてたまにお話に出てくる奴」
安倍晴明の名前は知っているが道満という人物は初めて聞く。
知っている前提で話をしてくる以上、きっとその道では有名なのだろうが、知識の中にはその名前は無かった。
いや、きっとムラサキがその名を知っているかも今は気にする事では無いのだろう。
大事なのは、その道満という人物が居合わせたというただそれだけの理由で、あの日の出来事が神霊災害と認識されている事だ。
「あいつはね、神祭の度に姿を目撃されているんだ。それも、第一からね」
近くにアゲハの気配も無いのに、感情を縛られているはずのムラサキはその朝焼け色の瞳を僅か見開いた。
その名の真実へ近付く度に心臓を直接掴まれるような痛みと不快感が胸中へ渦巻く。
本能的に理解できてしまうのだろう。
ソレは天敵だ。
ハナカマキリが命を脅かす者だとすれば、その蘆屋道満という相手は魂をすら脅かす相手か。
「そして、あの日からこの町に妙な妖が現れるようになった」
「カガミさんがそんな回りくどい言い方をするのも珍しいね」
「だって、それしか言いようがないから。見た目は白骨した蛇の群。カガミやミナモの……ううん。主様のすら、あらゆる術を無効化する化け物だよ」
「そいつが、第九神霊災害で降ろされた神って事?」
「主様はそう考えているし、カガミもそう思う。けどね。そうなると、じゃあ桜斑咲様は何者なのか。そして奇異路鳳はなんで呪縛を掛けたのかって疑問に行き当たるんだ」
いつの間にか空になっていたコップに再び飲み物を注ぎ、彼女は淵に親指と人差し指を添えて目の高さにまで持ち上げた。
彼女の瞳には、紫色のコーラと朝焼け色の、いや、黄色の瞳が映っている。
それが、カガミが……鏡が写す彼女の見る世界。
そして、第九の神祭、その真実へと至る鍵である二匹の妖蝶だ。
「それを知りたくて僕は今の話を聞きに来たんだ」
「助けになった?」
「手掛かりはあった」
両膝に手を突き、ムラサキは重そうにその椅子から立つ。
今の一言を聞いて、彼女の知ることは大方話してもらったのだと理解した。
キイロアゲハ。
蘆屋道満。
そして、骨蛇の妖。
いずれにせよ危険ではあるが、真実を知る為には踏み込まなくてはならないという事だろう。
「桜斑咲様」
「ありがとう、コーラも御馳走様。カガミさん達によろしく言っておいて」
◆
ムラサキが去った対策室、彼女は肩をすくめて嘆息していた。
無機質、無表情ないつもの様子からは一変し、その口許には小さな笑みを浮かべ、呆れたように目を細めている。
「やれやれ、分かっておるのならば下手な芝居を打つでないわ戯けが」
聞こえてはいない事も分かっているが、思わず不満を漏らす。
対策室の中央デスク、翔人の椅子に深く腰を下ろし、極めて丈の短いズボンから伸びる白い脚を艶かしく組む。
手摺に肘を置き、手の甲で頬杖を突くと彼女はクツクツと嗤う。
「さあさ、主様? 蝶の小僧、そなたが思うておる以上の大仮生やもしれぬぞ? くふ。それこそ、妾のようにな?」




