一夜の幕間
それは、ムラサキが片羽を失った日、つまり昨日の夜にまで遡る。
対策室を出てカブトと別れた後、ムラサキはとある飲食店の前に立っていた。
あの青紫の上着を着て、待ち合わせでもするように壁に背を預けている。
ふと、夜風とは違う刃物じみた冷たさを頬に感じ、顔を上げれば白い着物の女が見えた。
陽炎揺らめくように、手を伸ばしても掴めずすり抜けてしまいそうな彼女も、ムラサキを見ると優しく微笑む。
そして、数刻としない内に目の前へとやってきた。
「こんばんは、ハナカマキリさん」
「ええ、こんばんは。オオムラサキ」
逢い引きの合図……という訳ではないが、この店の前であの上着を纏う事はムラサキが自らハナカマキリへとコンタクトを取る唯一無二の手段だ。
短い挨拶だけを交わし、二人は店の中へと入って行く。
テーブルに座り、注文を出し、ドリンクバーからそれぞれ飲み物を取ってきた辺りでようやく落ち着けた。
「さて、昨日のお返事って事でいいのかしら?」
「はい。許可は取ってきました」
服装がスーツ等であったのならば、あるいは企業の取り引きのようにも見える光景。
互いに淡々と、粛々と、金属のような声色で言葉を交わす。
「でも霊災対策室の室長、八備翔人さんについて、僕が知っている事は多くないですよ」
「…………ええ、構わないわ。元々、霊災対策なんてしてる人間が妖にそこまで手の内を明かすと思ってないもの」
翔人の名前を聞いたハナカマキリは、僅かに表情を曇らせたように見えた。
だがそれもほんの刹那。
人によっては気付く事すらできない程に小さな変化だ。
どうしてかムラサキはそれが気になった。
だが、彼女に聞きたいのは翔人の事ではない。
まだ姿も知らぬはずの黄の妖が、蝶の姿となって脳裏を過った。
「……ありがとう。大体知りたいことは知れたわ」
本当にこんなもので良かったのだろうかというほどあっさりと、彼女はムラサキの話を区切る。
なんと言うか、今話した内容の殆どは既に知っていたかのような。
確証の無い事を話すべきか悩む、と、翔人は言ったことがあるがハナカマキリと八備翔人の間に面識があるのだろうという事は、確信にも近い形でムラサキは推測していた。
まあ、そこにどんな関係があろうとも気にすべき事ではないのだろうが。
「さてオオムラサキ。今度は君の番ね」
「その言い回し、普通逆じゃないですか? 僕が話したんだから、次はハナカマキリさんの番ですよ」
「結構細かいのね」
「そうですか?」
「ええそうよ」
端から聞けば決して楽しそうには思えない無機質な言葉のやり取り。
しかし、ムラサキは内心この時間がとても楽しかった。
相手がハナカマキリだからではない。
先ほどのカブトや翔人との時間も、普段の華火との時間も、誰かと会話するというただそれだけの事が楽しくてならない。
きっと、そんな事は誰にも伝わらないのだろうが。
「しかし随分急いだのね。数日は空いてから呼ばれるかと思ったのに」
「僕も本当はそのつもりだったんです。ただ……」
「ただ?」
言葉を返す代わりに、ムラサキは羽を広げた。
ハナカマキリはその青く美しい、そして今や痛々しく崩れた光の羽を表情一つも変えず、小さく首をかしげながら見詰めている。
菫色の瞳は青光の羽を写してタンザナイトの如く輝いていた。
「少し下手をして片羽を失ってしまいまして……それで、もしも自分が狙われるのなら今なのかなって思ったんです」
「なるほどねつまり君は」
「はい」
羽を消して机に置いた手を軽く組むと、ムラサキはその朝焼け色の瞳をハナカマキリへと向ける。
普段は無機質極まるその視線には、どこか熱がこもっていたようにも思える。
そしてゆっくりと告げた。
「キイロアゲハ……。そいつの能力を教えてください。知る限り、全てを」
ハナカマキリは動じもしない。
運ばれてきたパフェを食べながら、小さく頷いた。
「いいわよ。もともとそういう約束だもの。でも、食べ終わってからでいいかしら」
「溶けちゃいますもんね」
「うん」
そこからのペースは早かった。
決して下品な食べ方ではないものの、黙々と小さなスプーンにクリームを救っては口に運ぶ動作を繰り返す。
瞬く間にグラスのパフェは姿を消して行く。
その速度たるや、先程入れてきたドリンクバーのコーヒーが湯気を立てなくなるよりも早く、800円前後の物が亡くなるほど。
「アゲハの能力はいくつかあるけど、知っていないと必ず絡め取られる物が一つあるの」
そして何事もなかったかのように、手持ち無沙汰なのかスプーン教鞭のように握ったまま彼女は本題について話し始めた。
「それがツクヨミ」
曰く、キイロアゲハの持つ絶対回避の力。
本来存在できない、存在しない座標に自分の存在を一時的に移動させるのだとか。
その場に姿はあるのに、触れることも触れられることもできない状態になってしまう力。
どのような拘束も意味を成さず、あらゆる事象は目に見えるだけの表側をすり抜けてしまう。
「道化のような言動も相まってさながらトリックスターね。私、力押しの通らない相手って嫌いなの」
「嫌いって言う割には詳しいですね」
「そうね。大嫌いな親友よ」
手にしていたスプーンを上に弾き上げ、小気味良い金属音を響かせながら空のパフェグラスに放り込まれる。
テーブルの上に置かれたカップに手を伸ばし、湯気も立たなくなったお茶を静かに飲む。
「でも、ツクヨミにも弱点があるわ」
「弱点ですか」
「そ。あれ、とても集中力使うらしくって、本当に予期してない事態とか、あまりに長時間の発動になると、使った後にしばらく使えない時間ができるみたいなの」
「それもキイロアゲハが教えてくれたんですか?」
「いいえ?」
コトン、と、小さな音を立ててテーブルにカップが置かれる。
夕飯時な事もあって店内はそれなりに賑わっているが、相変わらず異様な取り合わせである二人を気にする者はいない。
体験するのは二度目だが、この擬態という能力に慣れるのはまだまだ先になりそうだ。
「何度か殺そうとして導き出した結論よ」
「物騒な」
「仕方ないじゃない。アゲハったら、私が短気なの知っててからかってくるのだもの」
すっかり忘れそうになっていたが、目の前にいるのが人間では無い事を改めて認識する。
倫理観が根本的に壊れているのだ。
返礼は斬るか喰らう。
とんでもない話ではあるが、それを罷り通すだけの力が彼女にはあるのだろう。
そうでないのなら、こんな価値観で今の今まで生きては来られないはずだ。
「さて、話を続けましょう? 力を失った君が、あの怪物を退けられる程度に、全部教えてあげる」




