紫黄衝突
咄嗟に無事な片羽を広げ、その影に身を収めるように防御姿勢を取った。
弛められ呪縛のせいでいつものように機械の如く冷静とは行かなかったが、それでも適切な対処を選べたのは誇っても良いかもしれない。
もっとも、今のところそんな余裕は微塵も無いが。
まるで世界各地の兵器が格納されているのではないかとすら思わせる砲弾の雨は、しかし世の理とは逆に地から天へと降り注ぐ。
黒鉄の羽を広げた妖蝶の髪は砲風に激しく靡き、ロングコートと黒淵のメガネのせいか戦地の将校のようにも見える。
防戦一方とはまさにこの事か。
いや、アゲハは戦闘とも思っていないかもしれない。
カラスアゲハモードとやらに弾切れがあるのかも不明だが、ムラサキにできることはただこの雨が止むのを願い、耐えるばかりだ。
「堅いわねぇ」
何発凌いだかなど考えるのもバカらしいが、ムラサキにはダメージはほとんど通っていない。
カブトの一件と今回の事で確信したが、どうやらこの羽は異常なまでに堅牢らしい。
人間の火器程度の威力では、傷付ける事すら難しい。
絶対防御……では些か言い過ぎだろうが、そんな言葉すらも脳裏に過る。
「--ッ!」
何かに気付いたアゲハが、砲撃を止めた。
展開されていた部分が重い音と共に閉じ、羽は再び鮮やかな黄色の光を纏う。
そして彼女は軽く地面を蹴り、後方へ飛び退いた。
刹那、つい先程までアゲハが立っていた場所を黒曜蝶が襲撃する。
「アタシの攻撃を防ぎながら裏で飛ばしてたなんてねぇ」
「今の……」
ただそれだけ。
時間にして十秒にも満たないそれだけの動作に、ムラサキは違和感を覚える。
正体もわからないような本当に小さな違和感。
しかしそれをゆっくり探る余裕などは無い。
妖の力を使うことを禁止された翌日に、よもやこんな大物を相手にしなくてはならないなんて。
「二つとも羽があったなら勝負になったかもしれないけどぉ。怪我する前に諦めた方がいいわよぉ?」
「散々撃ちまくった後に言う台詞でもないね」
「あらぁ? あららぁ? それもそうねぇ?」
腕を組みながら人差し指だけピンと伸ばして顎に当てているアゲハはどこまでもマイペースに。
雰囲気に呑まれてはいけない。
この女、のんびりしているようで恐ろしく狡猾だ。
弄ぶような言動で相手のペースを乱し、冷静さを欠かさせる。
そうしてできた精神的な死角に潜り、致命的な一撃を刺す。
直感的にではあるが、ムラサキはアゲハの動きをそう分析した。
「さぁてぇ? こうも抵抗されちゃあ困っちゃうわねぇ」
わざとらしく間延びした喋り方で、しかし口元の笑みは隠しきれていない。
黄色の、あるいは黄金色の光の羽を広げたまま、タイトスカートから覗く脚で公園の敷地をゆっくりと歩く。
この隙に逃げるという手もあったが、上手く行くとも思えない。
ムラサキに取れるのは、どうにかアゲハを無力化した上で退路を確保する一手のみだろう。
問題なのは、おそらくアゲハもそれに気付いている事。
そして、彼女が本気で行動を起こした場合、恐らく凌ぐことすら今のムラサキにはできない事だろう。
つまり、遊んでくれている内に手を打つしかない。
「…………」
「何を考えているのかしらねぇ?」
アゲハの羽が一瞬強く輝いた。
光の鱗粉を残像のように残し、目にも留まらぬ速度でムラサキの懐へと踏み込み、上段を狙っての回し蹴りを放つ。
徒手による防御はなんとか間に合うが、羽と違って衝撃までは受け止めてくれない。
骨の軋む鈍い音が体の内側から聞こえ、続いて後方へと飛ばされる。
再び光の残像を置いてアゲハは姿を消し、ムラサキを追い越して背後へと回り込む。
「1、2……」
下段から上体を捻るようにして脚を振り上げ、ムラサキの背へと打ち込む。
光の片羽で防御し、直撃だけはなんとか凌ぐ。
再び宙へと投げ出されたムラサキだが、今度はカラスアゲハモードでの攻撃は構えられない。
代わりに同様、宙へと跳んだアゲハが先の二撃をも遥かに超える超高速で蹴撃を連続して放ってきた。
「22ィ! 23!」
アゲハの声すら遅れて聞こえてくる程の猛攻。
奇跡的なんて言葉で片付けて良いのかは分からないが、その全てに間一髪で防御が間に合っている。
「50ゥ!」
腕で、膝で、拳で、羽で、脚で……対応できる部位を全て使い、全身の神経をただアゲハの攻撃へと反応するためだけに動員する。
「88ィ! 89ゥ!」
視界を黄色の残影が線のように伸びて埋め尽くし、それはいまだに増えて行く。
「99!」
脳天からの踵落としを両腕をクロスさせてガードし、打撃の勢いに任せて地面へと叩き落とされた。
アゲハはその先へ回り込み体を捻って構える。
「これでぇ……100!」
重い一撃で三度空へと投げ出されたムラサキだったが、アゲハからの攻撃はここで一度止まった。
そう、一度だけ。
地上からムラサキを見上げるアゲハは、コートのポケットに両手を入れ、レンズの奥の瞳を不敵に歪ませる。
「その羽はぁ、全方位からの攻撃も防げるのかしらぁ?」
アゲハの言葉に周囲を見渡せば、彼女の残した残影がまるで蝶の如く羽ばたきながらムラサキを取り囲んでいた。
そして理解する。
先の百発、蹴りの応酬は前座でしかなかったのだと。
「百火繚乱……」
右手をポケットから取り出し、親指と中指を重ねる。
アゲハの言葉をトリガーに残影は炎を纏い、いっそう激しく彼の周りを旋回し始めた。
逃げ場は無い。
防御もしきれない。
そんなことを考える間もなく理解できてしまう。
「火蝶封月」
パチン、と指を鳴らす。
刹那、怒濤の勢いで取り囲んでいた火の蝶がムラサキへ殺到した。
◆
黄と赤を通り越して白く輝く蝶は球状に収束し、それはさながら太陽か、あるいは月の如く輝く。
火の蝶で月に封ず。
なるほど、名前の通りだ。
羽の防御が至らなかった左腕と左背中から煙を上げ、ムラサキは地面に落ちた。
しばらくその場からムラサキを観察していたアゲハだが、やがてゆっくりと彼に近付き始める。
墜落の際に青い光の羽も崩れるように姿を消し、人気の無い公園に横たわるのはただの白髪の青年だった。
辛うじての呼吸は確認できるが、無言のまま近寄るアゲハに反応すら示さない。
「あららぁ……まあ、こんなものかしらねぇ」
先程までの喋り方とは少し様子が違う。
嘲るような様子も、口許の笑みもなく、アゲハは面倒臭そうに倒れるムラサキの前にしゃがみ込んだ。
「悪いけど、羽はもらうわ」
「お断りだね」
「な!?」
ムラサキに向かって伸ばしたアゲハの手を、彼が突如掴んだのだ。
慌てて引き戻そうとするももう遅い。
彼の背には再び青い片羽が浮かび上がり、朝焼け色の瞳でしっかりと眼前、もう一羽の妖蝶を見据えていた。
「死なないように加減はしたけどぉ、まさか意識も手放さないなんて……!」
嘲る語調に戻ってはいるものの、その声色からは明確に焦りが読み取れる。
大技を凌いだ上に、こうまで接近を成功したのだから当たり前だろうが。
ようやく手のひらの上から転がり落ちてやることができた。
「羽に水の印を纏って後方へ突破したんだよ。包囲されるのなら、薄い箇所から飛び出てやろうって」
「水印纏い……? 陰陽師の業を妖が使うなんて」
「アンタなら知ってるだろう? 僕が、完全に人として終わってないって事くらい」
「でもぉ、それならなんでそんな火傷を……」
「焼いたんだ。アンタの火蝶封月に押し当てて」
「君ぃ……少しおかしいんじゃないのぉ?」
「アンタに言われたくないよ」
いまだ焼けた臭いと煙を上げる左腕を後方へ引く。
指を揃えて手刀の形を作り、アゲハへとしっかり狙いを定めた。
「なんでか知らないけど、アンタは僅かな傷をすら負うことを避けていた。なら、多分そこに勝機がある」
「……っ!」
「この状態なら、避けられないはずだ」
引き絞った弓を射るように。
ムラサキは手刀を突き出した。
逃げ場はない。
防御も間に合わない。
必中必至の一撃はまっすぐにアゲハの肩へと向かう。
……だが。
「すり抜けた……?」
「正直、かぁなりぃ焦ったわぁ? まさか手負いの君に月夜見まで使わせられるなんてねぇ……」
手刀はアゲハをすり抜け、彼女を掴んでいたはずの手も空を握る。
姿はそこにあるのに、瞬時に実体を失ったかのように。
姿勢が崩れ、ムラサキは前のめりに地面へと転がった。
「アタシのかぁち」
倒れたムラサキにアゲハは手を伸ばす。
ぼろぼろの片羽と、美しい青い光を放つ片羽が揺らめくその背へと。
恐らく、羽を奪うために。
「いいや、アンタの負けだよ」
「!?」
二人の周囲、四方の地面に青白い光が浮かび上がる。
光は線を放ち、四点が四角の形を作り出す。
アゲハはムラサキに伸ばしていた手を止め、お手上げと言わんばかりに両手を翻した。
どうやら、何が起きているのかを理解したらしい。
「ざぁんねん。ここまでしっかり詰められちゃあ、悪足掻きする方がカッコ悪いわぁ」
光の正体は結界だ。
彩篠校へと張られている物をムラサキが独自に解析し、見よう見まねで再現した物。
発動媒介には、黒曜蝶の骸を用いている。
本業である翔人や五行の扱いに長けるミナモ、カガミと比べられてしまえば児戯にも等しいお粗末な物ではあるものの、時間稼ぎとしてなら十分だ。
まして、妖と人の力を無理矢理合わせて発動させた結界。
正規の方法で解除する事を考えるならば、下手すると本業の物よりも厄介かもしれない。
「オオムラサキくん」
青い光の壁に隔てられ、諦めたように肩をすくめたアゲハは彼の名前を呼ぶ。
その語調は極めて穏やかだ。
「何ですか」
「八備翔人には気を付けなさい」
まるで諭すように、ただそれだけを告げると彼女は光の向こうで手を振る。
もう用はないからさっさとこの場を去れ。
まるでそう告げるかのように。
呪縛の事を始め、食い下がりたいことはいくらでもあるムラサキだったが、この結界を抜けられたら次こそは打つ手が無いことも理解していた。
我ながら律儀だとも思いつつ、怨敵に頭を一度だけ頭を下げてその場を後にした。




