オレたちは夢を諦めた
喫茶店『なつくさ』は、いつも夜明けの遥か前から営業を始めている。
特に何時から開店と決まってるワケでも無いらしい。とにかく、良馬が出勤前に寄る時間には必ず開いているのは確かだ。
その日、良馬が着席して1時間ほど経った時だ。
カチャ・・・と軽い音がして、良馬の前に新しい湯気が立ち上るコーヒーカップが置かれた。
「・・・え?あの、頼んで無いで無いですけど・・・・?」
困惑する良馬に、店の女店主が笑い掛ける。
「いいのよ、いつも来て貰ってるし。サービスしとくわ。それにアナタ、勉強熱心だからね」
早朝、ここで1杯のコーヒーを飲みながら出勤前の2時間を勉強に費やすのが、良馬の日課だった。
「そうか、兄チャン。勉強してんのか。社会人だろ?若いのにエラいな」
店の奥にいる常連と思しき男が、声をかける。
「ええ・・まぁ・・」
良馬は照れ笑いで返す。
『別に偉いワケではない』良馬は心が痛む気がした。
学校を卒業して就職しようとした昨年、彼は結局、望む会社に就職出来なかったのだ。結局、彼はアルバイトをしながら次の機会を狙うことにしたのだ。そのためには、とりあえず『価値のある資格』が欲しかった。
「兄チャン、夢があるのい?良いこったよ。若いウチだ、頑張りな」
さっきの男が励ましてくれる。
「・・・どうも」
良馬は軽く会釈する。
「夢か・・・・そう言えばワシにもそんな時期があったなぁ」
別の老人がため息をつく。
「夢・・っていうか、アンタ昔はカーレーサーを目指してたのぉ。アレ、何で辞めたんじゃった?」
その問いかけに、老人は懐かしそうな顔を見せた。
「何・・・自慢じゃぁ無いが、ワシは『早く走る』事にかけちゃぁ誰にも負けん自信があったわ。でもなぁ、この世界はそれだけじゃアカンのや」
「へぇー、そうなんか」
「そうや。大事なのは『どうすれば車がもっと早くなるか』をピットクルーに説明出来る能力なんや。『結果的に速かった』では、レース結果も『丁半博打』になるでのぉ」
「なるほどのぉ」
「ワシは『それ』がまったくアカンかった。一流どころはその辺が『あと1mm車高を下げろ』とか指示出来るんや」
老人はそれだけ語って、大きく溜息をついた。
「だったら、アンタはどうなんや。何かあったか?」
別の男に話が振られる。
「オレか?オレはまぁ・・・そんな大それたアレと違うけど『電気工事士』を諦めたなぁ・・・」
「電気工事屋?どないしたん?」
「どないっちゅうか・・・体力がなぁ。何しろこの世界は体力勝負だから。電線とか要するに銅の塊だから、無茶苦茶重たいんだよ。それに電気工事っちゅうのは『これから電気が来るところ』だから、エアコンもないし。この世界が長い連中の体力はバケモンだよ」
「工事屋っちゅうのも、大変なんやのぉ。そう言えば、アンタも昔は何か目指しとったんと違うか?」
今度は、女主人に振られた。
「え?アタシ?んー・・・まぁ・・・声優?とか目指してた時期があったけど・・・」
「なして諦めたん?アンタの美声は学校でも有名やったのに」
「そんな、有名なんて言いすぎよ。何というか・・実力はともかくとしてね・・・儲からないのよねえ・・・あの仕事は食べていけないのよ。一流どころですら、生活は大変なんだって聞いたから」
「食えへんか・・・それは難しいなぁ・・・・」
「食えないって言ったらオレもそうだったな」
また別の男が名乗りを上げる。
「オレは和太鼓奏者としてメシを食えるようになりたかったんだ。アレだよ?実力はあったと思ってるよ?何しろ全国大会で1位になった事もあるし。けど、それで『メシが食えるか』となるとなぁ・・・大きなホールを常に満席にできるほどの人気が無かったら、とても無理よ」
そういって、男は首を横に振る。
「芸術系は難しいとちゃうか?コネとか運とかもあるし?」
「いや、そうでも無い」
またまた、別のところから声が上がる。
「私は若い頃に設計事務所をしてまして。でも、バブルが崩壊してからサッパリ仕事がなくなったんで会社を畳んでしまいました。そこから先は慣れない営業職で定年を迎えましたよ」
「うーん、個人商店も浮き沈みあるし・・・」
「いえ・・・大きい組織でも難しいところはありますよ」
ガタイの良い男が手を挙げる。
「自分は昔、自衛官を目指してました。ですが、とても務まらず・・・」
「アンタ、体力ありそうやけど?」
「ええ・・・でも、求められるレベルの桁が違います。自分は1年間で3回も病院に救急搬送されました。で、3回目に『もうダメだ』と」
「ほえー・・・そんなに大変な世界なん?」
「色々あるもんですねぇ・・・私もありましたよ、そう言えば」
若い頃はさぞかし色男だったろう初老の男が語りだした。
「私ね、若い頃はホストをしてました。結構『高い』店だったんで実入りは良かったんだけど・・・」
「そりゃ初めて聞いたわ。したら、何で辞めたん?」
「肝臓がギブアップしましてね。それと、精神的にキツいものが」
「肝臓け・・そりゃ、酒飲むのは仕事じゃから仕方ないとして、精神的っちゅうのは?」
「70歳過ぎの『有閑マダム』ってのが店に来るんです。『アタクシ、今日が誕生日ですの』って。それで『誕生日記念にドンペリを下さる?』って」
「ドンペリ?名前くらいは聞くけども、高いヤツやろ?」
「1本で60万円とか、そんな感じですよ。無論、店内ホスト総出で『ご挨拶』ですわ。そしたら・・・その酒を。どうすると思います?」
「さて?ワシやったらそんな高い酒、コワくて飲めんけど」
「テーブルの上にこう・・・ドンと、片足を乗せるんです。それでスカートの裾を根本まで引き上げましてね」
「ゲゲっ!見たないなぁ・・・いくらオナゴでも70過ぎの太ももなんざ」
「いやいや、話はこれからですよ?それで、そのドンペリの封を切って『自分の足にドボドボと掛ける』んです」
「へ?!そんな勿体無い!」
「そして、言うんです。『さ、ホストさん。お舐めなさい』・・・って」
「ギャァァァァァ!」
店内一斉に悲鳴が上がる。
「いやぁ・・・その『足』を舐めろって?流石にそれは・・・・出来んやろ・・・」
「でも『やる』しか無いんです。何しろドンペリですから。あの世界ってそういうモンなんですよ?とても無理だと観念しました」
「厳しいなぁ・・・・」
「まぁ・・どんな仕事でも夢の裏側なんざ、そういうモンかも知れんけどな」
「オレ、思うけどね」
『和太鼓奏者を目指していた男』が口を挟む。
「よく、『一握りの成功者』って言うじゃないですか。アレ、ウソですよ。ホントは『一摘み』でしかないんですわ。一握りも居ませんもの、成功者なんて」
「そうだなぁ・・・オレもそう思うわ」
『カーレーサーを諦めた男』が同調する。
「ホント、いい思いするのは頂点の数人だけだよ。その他大勢は死屍累々さね」
「なるほどなぁ・・・『夢』ちゅうのは宝くじみたいなモンかのぉ?」
「かも知れませんね」
『自衛官を諦めた男』がウンウンと頷く。
「自分に『1億人に1人』とかの才能があれば別ですが。自衛隊に入ってそれは痛感しましたね。学校では体力測定で無敵だったんですが、『あそこ』は体力・知力を兼ね備えた化物の巣窟でしたから」
「じゃぁ、『夢』って何なんでしょうね」
女主人が独り言の様に言う。
「・・・追ったら不幸になるだけなのかしら」
「でものぉ」
最初の老人が女主人に向き直る。
「少なくとも『夢を追っている』間は、ワシらは幸せだったハズなんじゃ。じゃから、もしかすると大事なのは夢に到達することではなく、『夢を追う』という心の有り様なのかも知れんの」
良馬はすっくと、席を立った。
「・・・ご馳走様でした。お会計、此処に置いておきますから」
冬の遅い夜明けの光が、何時の間にか薄っすらと店の外を照らしていた。