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吾輩に寄せて

作者: 情情

        吾輩に寄せて





 吾輩は猫である。名前はまだニャー、と云うことにステネコ。

 どこで生まれたか豚と犬と兎が鶴亀。にゃんでも昔から薄ぼんやりした人様のつむりのなかで、ニヤニヤわらいながら鳴いたりきえたりあらわれたりしていたように記憶している。

吾輩が初めて人間というものを見たのは、古代エジプト、ナイルのほとりということになる。というても、吾輩の出生が不分明なことはかわりない。吾輩は人類文明の発祥の目撃者となりえたが、吾輩出生の目撃者となった人間はいなかったのである。どうもその頃は、ヒトという種はおっても、人間という賊は発生していなかったようである。人間が書いた猫に関する本を読むと、よく「飼い猫の起源は、古代エジプトに溯る」とあるが、吾輩の感覚からすると、直截に「人間の起源は、…」と言い換えてしかるべきである。猫にことよせて自らの出自をぼかすのは、フェアではなかろうとおもう。飼い猫がどうのといった問題からすれば、それ以前にもわれわれ猫族はヒトのそばにずっとおったのである。

 尤もそれは、ヒのそばにおったと言う方が正しかろう。火はわれわれをおそれさせつつも大いなる力で魅き寄せる。人工の火は人類最大の発明物の一つであろう。なにより外敵から身を守るによく、その上ぬくもりがある。火のぬくもりでゆっくり安心して居眠りする心地よさは、至福のひとときである。人類がその火を家内に持ち込めば、山猫も家猫になるだけの話である。われわれにさしたる變化があるわけではない。飼い猫といっても、人間が「飼っている」という気分を味わっているだけで、われわれは一向に飼い馴らされているおぼえはない。たしかに今日、家猫と山猫は違うが、それは世間というものを形成した人間が、もはや有史以前のヒトと違うほどには違わない。

 ところで、人間のそばには火のほかにネズミがおった。このことは吾輩たちを人間にそれ以前よりずっと親近させることになった。古代エジプトにおいて築かれた初期のお互いの関係ほど友好的であった時代は、その後今日に至るまでない。吾輩たちは、人間たちが営々と貯えた黄金の倉庫を漁るネズミどもがこの上ない好物であったし、人間にとって吾輩たちがネズミを捕らえ、蛇を遠ざけてやることは、かれらの富と健康を保障する意味を持った。おかげで吾輩たちは神の列に加えられ、トキやタカ、ライオンなどとおなじように崇拝の対象となった。

 だが、この黄金時代は逆に後の暗黒時代の導火線にすぎなかった。エジプト人のゆきすぎた偶像崇拝は後に擡頭したキリスト教徒の最も憎むところだったのである。ひとたび一国の文明衰亡すれば、そこでまつり上げられていた神の値打ちなど一片の紙切れよりもなお軽い。まつろわぬ神は鬼か妖怪になりさがるよりないのだ。しかし、われわれに与えられた異教の刻印は、もっと具体的で陰惨であった。鬼や妖怪なら伝説のなかで退治されるだけか、実際に迫害がおよぶとしても一つ一つの個体に対してだが、われわれのように魔女の使い魔となると神の敵であり、殲滅せねばならぬというわけである。まさしく集団虐殺の対象である。かつてエジプトにおいて太陽神ラーの子ファラオによってわれわれが受けた何代もの慈しみを集積しても、おなじようにフランスで太陽王と呼ばれた男のたった一日の残虐行為を補償することはできない。

 人は神をつくるとともに必ず裏返しに魔物をつくる。外に見る悪魔は、実はおのれのうちなる魔物の投影にすぎない。かれらが善となし、真となしてつくる神は、必ず符号を逆転した反神を要請する。反神は決して抹殺されない。なぜならそれは神のもう一つの顔だからだ。神のエネルギーは波のエネルギーだ。そこに潜在力があるのは、振幅があるためだ。正の価値が山と高まり、神の顔をあらわすためには必ず、つぎの瞬間負の方向に移行し、谷におちるまがまがしい影の部分を持たねばならない。

しかし人間は、そのまがまがしい黒い影が自分の上におちるものだということを放念する。ひとになすりつけた罪の因果はおのれにめぐっておのれを討つ。おのれの魂の深淵にひそむ憎悪と妄念の影を勝手にわれわれのなかまに投影し、それを抹殺しようとした意味はどこにあったのだろうか。

 そのために、不潔なネズミたちが爆発的に増殖し、群れの過剰のなかで個体が衰弱し、不健康と狂気が悪疫の呼び水となった。そしてそれがさらにどういう結果を招いたか。かれら自身が自ら黒い死の影を身に纏うようになり、老いも若きも死との舞踏に否応なく引き込まれた。その舞踏は、パートナーの気まぐれによって不意に打ち切られる。きられるのは魂の緒であり、あとには見捨てられた淋しい残骸が横たわる。おなじ人形での遊びに飽きた傀儡師は、別の獲物に糸をつけ、魂の律動を弱めて反発力をうしなわせ、硬直しているがおもいどおりに制動できる人形を拵えあげようとする。

 ところが、そのようにして、三人に一人が餌食にされ、その影に斃されることになっても、かれらはかれらで、神の怒り、総ての禍の責めを転嫁できる木偶を探し、薪のように火にくべ、その犠牲のうえにおのれを浄化し、罪の穢れを祓おうとした。実にその後なお三百年の年月にわたって、真の原因は追究されることなく、ただ身代わりほしさに、われわれを名指して無意味で自然に反する虐殺の犠牲を神の名で求めたのである。くわばらくわばら。できることなら神とは無縁でありたいものだ。お釈迦様の涅槃図にくわえられなくとも、またノアの方舟の乗り組みのなかに、あるいはそれにかぎらずありがたい聖書のいずこにさえわれわれの名が見出だされなくとも、一向に構うまい。それよりも孔子様やマホメット様が個人的に懐に入れてかわいがってくれるほうが心底ずっとありがたい、ありがたい。

 実際のところ、われわれは好きで神にまつり上げられたわけではない。その辺のことを少しは話すべきかもしれない。といっても、あまり話は広げまい。吾輩が古代エジプトについて話ができることはいくらもあるし、ほとんど生のといっていい証言とも言えようが、今ここでそうしたことを話す気は些かもない。紙幅の加減ということに気を使う吾輩でもないが、何千年という歴史をここで語るというわけにもいくまい。それよりなにより、吾輩は実を申して人類諸姉兄の想像力に多大なる敬意を抱いているのである。特に、歴史の遠い昔のことに対する人間の想像力は非常に大したものと感服している。それを尊重するなら、たとえ事実を知るところであっても、細かいことにはなにもニャンせぬ方がよい。かれらの想像力を萎えさせることは、かれらの夜を貧しくする。夜の繁栄は、われわれが人間とつきあう場合には殊に重大となる要件である。昼間の群衆共同体の粗雑さから解放された優雅で気高い独立した個人しか、われわれの真の友となりえない。それゆえ吾輩は、ごくかぎられた、しかも誰にとってもどうでもいいほんの纔かな断片をここに記すにすぎない。まあ、人類がその想像力の極みともいえる時間機械を本当に発明する日が到来したなら、その時はおよばずながら水先案内をかってでてもよいと心得るが、今はまだはるかなる未来への梦を大事として、これをおかさぬようにしたいとおもうのである。

 さて、吾輩たちがエジプトにひきよせられたのは無論のこと、そのナイルの恵みを受けた潤い豊かな穀ぐらに大量に出没するネズミどもが最大のお目当てであったのだが、しかしそれだけが一切の生活目的、関心事になるという、極めて物質主義的な卑しく貧しい生き方は、誇り高き猫族のものではない。また、単に平安の火に身を摺り寄せ、安眠を享受すれば総て事足れりという、安穏第一の無気力主義もわれわれのものではないのである。戀があり、遊戯があり、冒険があってこそ、生は玉のごとく内部に充実せる煌々たるかがやきを宿す、というのがわれわれ猫族の譲りがたき信念である。嘘だとおもうなら、われわれの眼を見給え。人はそこに、信念の結晶まさに玉のごときを見てとるだろう。しかもその玉たるや、まことに戀心をうつすように、ゲームのなりゆきのように、變転つねなき様をあらわしているから、毫も疑いを入れぬ。ネズミ獲りは狩りである。狩りは労働というよりゲームである。われわれはネズミを獲ったあとも、食う前にこれとじゃれる。火を使うことは人様の専売特許かもしれぬが、われわれだってどう料理するかに気を遣う。なにも食欲だけが総てではない。食えぬものであっても、われわれの興味を惹くに足るものなら、懐広くこれを受け入れる。ただ、好奇心は猫にとってのネズミ捕りの罠であるのを、われわれは往々にわすれてしまうのだ。

 吾輩がかくのごとき身の上となったのも、実際その好奇心のわざわいである。

 ある時吾輩は人家の近くで奇妙なものを発見した。それがいわゆるガラガラというやつだったが、ガラガラ蛇についてはなじみがあっても、楽器などというものはその時はおよそなにも知る由がない。初め、こいつはどう見たって食えそうでないから相手にすまいと蹴飛ばしてやったくらいだ。すると急に鳴くものだから、たいそうびっくりして飛びのいた。なかになにかいるのであろう。これはまさしく袋のネズミだ。よし見ておれ、と四方八方からつついてなかのものを追い出してやろうとすると、なかのやつ、命をねらわれているわりに鳴き声が明るい。明るすぎるぐらいで、おまけに響きまである。これは頗る張り合いがない。いや、そればかりか、その鳴き声、その響きぐあいが、吾輩が気持ちのいいおりに喉を鳴らすごろごろという音と妙に調子が合うような感じなのである。獲物ではないとわりきると、なんだか仲間の形見を見付けたような不思議な感慨すらおぼえてくる。尤も感傷というのはわれわれの趣味でないから、早速じゃれつく。一旦じゃれつくと、相手は音を出して反応してくれるので、ついつい梦中になる。われをわすれると隙ができる。つまり、つけこまれる。世のなかには、ひとの楽しみを見るとこれを横取りせずにはいない卑しい習癖の種族がいるものである。これが読者諸姉兄とおなじ種族というのはまったく困った話である。といって、これはまた読者諸姉兄の美質とはまるで別問題なのであろうけれども‥‥。ともかく、連中は吾輩からガラガラを取り上げると、それを振りまわして好き放題音を出し、そのまわりでは数多(あまた)のうからやからことひとばらが矢鱈目鱈手を振り上げ、足を鳴らし、腰を動かし始めたわけである。

 そしてこうして、音楽と踊りとが人間の世界に一気に広まっていった。尤も、音楽と踊りの起源は人間社会においてももっと溯るのかもしれぬが、しかし当時はどうも奴隷的苦役のうちにそれらをわすれてしまっていたようである。まあ、かれらも楽しみを取り戻して愉快なひとときを過ごす術を持つのは結構なことであり、御同慶のかぎりである。といって、吾輩にはかれらの娯楽につきあわねばならぬという義理はない。ところが人間というやつは、否が応でも義理をからませねば気が済まぬというところがあるから、始末がわるい。猫に対してどういう義理を感じるものかよくわからぬが、ともかくも吾輩は、あろうことか、音楽と踊りの神にしたてられてしまったのである。おまけに、余計なことにもバストという名前まで頂戴させられた。もちろんこれは勝手に他人様(ひとさま)からつけられたものであって、吾輩の名乗るところのものではない。自分達の楽しみなら自分達だけで存分に楽しくやればよい、一体誰の世話がいるだろう、とおもうのだが、人間というのはこの楽しみまでほかの誰かにとりしきってもらわないと安心できないたちなのだろうか。かれらの祭りにつきあわされ、その拍子を楽器片手にとってやらねばならぬ吾輩こそいい迷惑である。猫から自由を奪ってルーティンワークをおしつけるとは、生かしながらの虐殺行為にも等しい。

 一つ注意を喚起しておかねばならぬ点は、吾輩は無論音楽や踊りの発明者ではないということだ。吾輩が手を出したためにとんだ羽目におちいった当の物、後のシストラムというきちんとした楽器ではまだないにしてもともかくもガラガラという楽器様のものは、ほかの誰でもない、人間の誰かがつくったことにまちがいない。ところが、どうもかれはこの独創的な作品を人の目に堂々とさらすことはできなかったようである。たとえできたところで、まわりの同類はこの天才のわざをむしろ気味わるく遠ざけるにちがいない。そして、吾輩のようなどうでもよい者が、どうでもよいように扱って初めて、人々はその無害にして障りもない様に安心しつつ興味をそそられ、忽ちあっというまに流行する。だからといって、吾輩はその臆病な天才のかわりをさせられるのを承知するわけにはいかない。あるいはひょっとすると、かれらのなかに本当はそういう天才はいないのであって、総て神のしわざかもしれない。齷齪した人間達の救済に、神がこうした物を拵えてかれらの間にしのびこませたとしたら、それに手を出した吾輩こそいいスケープゴートだ。尤も、その神にしたって、過去にふとしたはずみで吾輩とおなじように神にしたてられたのかもしれず、とすれば、われらともども相憐れむべき間柄というわけであろうか。

 ところで、吾輩の履歴を語る上でどうしても触れておかねばならぬ重大事件がある。すなわち、吾輩がこうしてバストなる神としてエジプトの民の御機嫌をとっておる時代に、ギリシャという異邦のオリンポスの神神が巨人の一族ギガンテスに急襲されて驚倒震駭し、()()うの(てい)でわがエジプトの地まで逃げ来たるという椿事出来(しゅったい)があった。神神はなおギガンテスをおそれ、いずれも動物の姿になりをかえ、身を隠したのであったが、神といえども異国の地にくれば無論おのれの自由勝手というわけにはいかない。当地にくれば当地の神の許認可を受けねばなにごとも相済まぬ。動物もいうなれば神の意匠にかかるものなれば、無断借用は法に牴触する。神は法の埓外という論理にかりに乗るとしても、仁義に悖る行いは神でも厳に慎まねばならぬだろう。であるから、猫の姿を借りたいとおもう者は吾輩のもとへまかり越していただかねばならぬ。かかる次第で吾輩はアルテミスという女神と出会うことになった。

 アルテミスといえば周知のごとくゼウス大神の娘、遠矢を射るアポロンの妹、なかなかの格の神である。しかも狩猟を司り、森とその動物たちの守護神であるというのだから、吾輩もいっぱしの狩猟家としてその来訪を無下にはできない。無論その女神たってのねがいをききいれることも吝かではなかった。こうしてアルテミスは、いやアルテミスにかぎらず救難を求めここまで逃げのびたギリシアのどの神神も、エジプトの神神の快諾を受け、動物の姿になりおおせ身をひそめて、うまくギガンテスの目を遁れることができたのである。

 しかし、かれらを救ったことがこの件に関して吾輩が演じた主要な役割の筆頭では実はない。この神際的事件にはもっと宇宙的意味合いがあったのである。というのも、エジプトの民は吾輩にバストという名前を冠すると太陽の神としての聖性も付与して崇拝の対象としたのであるが、一方相手のアルテミスは月の女神ということで、ここでその申し出どおりかの女をわれわれとおなじ猫の姿と化身させることは、実に猫のからだに陰と陽の両精を魂入するというに等しかったからである。猫のからだを舞台に太陽と月の合体劇が演じられたのだから、たとえそれがかりそめのものとしても重大な意味がある。

 ところで、両精を具有するといっても、たとえばバストとアルテミスが合体した時の吾輩は一体何者であったろう。猫という答えはとりあえずおくとして、バストならバスト、アルテミスならアルテミス、であるにはまちがいないが、特にどちらとも相を特定せずにいる時は外からはどのように見えるのであろうか。やはりバストにはちがいないのか、いや、もう既にアルテミスの化身か、それとも両者が融合したまったく新しい存在か、(はた)また他の答えか。

 その答えはというと、見る者が決定する、といえようか。そして、想像力を豊かにそなえた者は両者とも見てとるであろう。尤も、同時に、というわけにはいくまいが。人類のなかでも昔からこの点を諒解していたのは、芸術家もしくは神秘家だけである。科学者が理解するようになるのは、20世紀の到来を待たねばならなかった。もっとも、吾輩におけるような目に見える世界でのかようなことは確率的にありえないとは、現在でも主張されることであろうが、神の世界は目に見える見えないを超越した根源的なレヴェルであれば、現代の量子論が光や電子など極微の根源的世界についていう波でもあり粒子でもある両性具有の二重性は、まさに神の本来的なあり方がうつし出されたものと逆に言い得るのである。

 また、このように考えればわかりがいいかもわからない。つまり、一枚のコインを考えてみる。コインには表裏の両面があるが、無論どちらが表、どちらが裏とははなからきまっているわけではない。どちらを表とし、どちらを裏とするかは、後で人間がきめていることである。そして人がコインをとりあげて正面に見る時、表裏を同時に見ることはできず、目にはいるのは当然そのどちらか一面しかない。

 かりに今、片面にバスト、他の面にアルテミスが肖像として描かれてあるコインが何枚か箱に入れてあるとする。バストの肖像のコインはエジプトで使え、アルテミスの肖像のコインはギリシアで使える。それぞれその肖像の面だけでそのコインは通用するとし、したがって両面にバストとアルテミスの肖像があるコインはそのどちらの国でも使えるものとする。

 ここにある古代ギリシア人がいて、箱からコインを一枚取り出してみる。かれはアルテミスの肖像のコインは知っているが、バストの肖像は知らない。無論バストの肖像を見て、それをギリシアのコインだとはおもわない。かれにすればおもちゃのコインである。さて、かれは取り上げたコインを見てそこにアルテミスの肖像を眼にするなら、たしかにこれはギリシアのコインだと判断するであろう。その時点でコインの判定は済んだのであり、かれはもう片面を見る必要はない。ギリシアのコインだから、かれはそれを手元に残す。つぎに別の一枚を取って、そこに見えたのがバストの面だったとすれば、かれはこれはおもちゃのコインだとおもうだろう。もはやアルテミスのコインとはおもわない。本物のコインとはおもわないから、かれはそれを捨てる。かれの常識からすれば、コインというのは通常、両面とも肖像になっているわけがないとおもっているのである。肖像が両面にあるというのは相矛盾することなのだ。だから初めからあらためて別の面を検証するということをかれはしない。こうしてコインは、かれの手の探り方によって表と裏の取り出され方が、またかれの脳によって本物かおもちゃかの決定がなされる。また、これがギリシア人ではなく、エジプト人ならおなじコインでも本物かおもちゃかの判定は逆になるだろう。そしてこれがまったく別の判断基準を持つ者なら、そのコインが何であるかの結論もまた異なってくるであろう。

 ところが、そのギリシア人が手にしたコインも捨てたコインもともにおなじコインなのである。それに気づかないかぎり、かれには通常半分のコインしか手にはいらない。かれは可能性の半分しか行使できないことになる。もし、かれがそういう常識に縛られていない人物だったなら、バストの肖像のコインを気まぐれに裏向けてそこにアルテミスの肖像を発見する可能性がある。もちろん可能性ということなら、偶然という可能性の扉は誰にも開かれるのだが、あまりに常識に縛られた人はその可能性を活用することができない。かれはたまたま一枚のコインにバストとアルテミスの肖像があるのを見てとったとしても、その矛盾を示すコインこそまがい物にちがいないとしか考えられないだろう。むしろなにも知らない子供なら、コインを不思議がっていろいろいじくったりひっくりかえしたりして両面に違う肖像が描かれていることに気づくだろう。もしその子供が美しいもの好きで根気もあって、取り出したコインを全部アルテミスの面に揃えてギリシア人のおとなの元に持って行くとするなら、コインの可能性は十全に活用されることだろう。もちろんその逆をしてバストの面に揃えた場合は、その可能性は潜在的なものにとどまってしまうことになるが、それでもおとながこれを捨てさえしなければ可能性がなくなることはないのである。ともかく、硬直した常識に縛られている者は可能性の半分を見捨ててしまっていると言えるかもしれない。反対に、どういう可能性も肯定的に考え、それを主体的に試みようとする想像力なり遊び心なりの豊かな持ち主こそ、表も裏も対等の肖像が描かれているという、一見すれば矛盾にみえる世界の二重性のありようにもおそれることなく近づくことができ、この世界に秘められた不思議をそのままに認め、そうして可能性の扉をおおきく開くにちがいないだろう。

 実際、一枚のコインにはバストかアルテミスの二面しかないから、活用できる可能性はとりあえず二つのみではあるにしても、世界にはそうしたコインが何無量大数枚もあるとなれば、一枚ではたった二つの可能性も世界全体では無限におおきくなる。

 かりに、神が天地創造の際、律義なギリシア人に命じ、そうしたコインをきれいにテーブルの上にならべさせて世界をつくったとしよう。当然その時は、全部アルテミスの面が表向きに見えているはずだ。しかしそれでおちつくなら、バストという面は不要のはずである。言うまでもなくそこに時間がからんでくる。時間が経つときれいに整理されたものもくずれてくる。時間はいろんな變動要因を誘引する。いつかテーブルが揺れ、表と裏がひっくりかえらずにはいないだろうし、そのうちに誰かが故意に乱すかもしれない。すると表と裏はバラバラになって、なにがアルテミスやらバストやらわからない。今現在われわれの目に見える世界とは、実はこのような表と裏がバラバラになった無数のコインの世界だと言えるにちがいない。

 唯バラバラとはいっても、時間が経てば経つ程表と裏は半々に揃ってくる。一枚一枚のコインがどんな状態になっているかはますます言えなくなるが、全体でみるとアルテミスとバストはおよそ半々になる。全部アルテミスとか全部バストとかいう場合の数は一通りしかないが、双方半々という場合の数は無数に近くある。確率からいうと、一通りの場合の数しかない全部アルテミス(バスト)というのは無限にゼロに近く、双方半々というのが大体半々というのまで含めるとかなり一に近い確率になる。一見複雑なようだが、確率に従う世界というのは、法則に従う世界ということだから、人間にとってはむしろ予測がつきやすく、記述が容易な見慣れた世界というわけだ。逆にコイン一枚をつぶさに検証して、このコインがアルテミスとバストというまるで違う両方の面を持っているのをみてとると、真実は一つだときめこみがちな人間には一体どちらなのだとわけがわからなくなるだろう。もちろん大抵の人間はそんな精緻な検証などできるわけはないし、第一コイン一枚の世界にもおもいおよぶこともないから、相かわらず真実は一つと信じている。がしかし、その真実はコインの表裏についてはなにも教えてくれないのだ。むしろかれらは確率を信じるべきである。コインの表裏の二面性は、人間たちの好きな二元論でかたがつくものではなかろう。かれらの、特に近代をきずいてきた西洋の二元論は善悪とか敵味方とかいった二項対立を基調におくものだから、かなり見当違いにみえる。そこに止揚というしかけを用いて時間的発展の考えを持ち込めば、コインの表裏がバラバラに入り乱れた確率に従う現実世界に類似してくるはずであるが、実際はそういう運動発展の様子よりそれぞれの項の対立に論議がおよびがちであって、いよいよ世界のありようから遠くなる。

 真実は一つというのも、二項対立的二元論も、世界の記述に関する人間の大きな誤解である。神が万物創造のおり拵えた世界は、コインの表か裏かどちらかの相がきれいに揃った、ある意味できわめて単純なもの、つまり無(あるいは真空)と呼ぶべきものにすぎないだろう。唯、神はそこに時間というゆらぎの触媒をほうりこんだ。纔かにそれだけのことで十分だ。神はもはやなにも手をくだすことはない。時間が勝手にテーブルを叩き、コインの表を裏に、裏を表にひっくりかえす。無数の場合の数が生まれて世界の多様性がつくりだされる。但しもう二度とコインが表ばかり、あるいは裏ばかりに揃うことはない。即ち一旦時間が走り出した世界は、真実が一つに揃うことはなく、またすっかり逆の世界になるということもない。善悪いずれかがきまるとか、敵味方どちらかが永遠に勝利するとかいったことはなく、ますます表裏半々に両者融け合うばかりなのである。時計の針を逆戻りさせる術がない以上、われわれが唯一の真実を追い求めようとしてもまったく空しいわざであり、世界創造の日(?)から始まった神の一人遊びにわれわれもそれなりの余裕をもって付き合いたいものである。

 ところがである。神はサイコロ遊びが好きらしいと感づいた20世紀の人類はなにを見習ったか血迷ったか、世界大戦という大バクチに二度までも狂奔するという始末、いやとんだ不始末に出た。これにはさすがの吾輩も言葉がない。その後は多少おとなしくなったようだが、しかし神をダシに使ってまたまたなにをしでかすやら油断がならない。いや、もうかれらこそサイコロ遊びの餌食、サイコ患者ではないか。世界普くに跳梁する人類にとって、地球はきゅうくつな箱同様になってしまっている。そしてその箱のなかに、青酸カリよろしく核物質がある。遺伝子操作に環境汚染、生態系の破壊、人口爆発、あるいは血が血をよぶ報復の堂々巡りにおちいった地域対立、異民族排斥・殲滅思想、独裁専制権力による自由弾圧・思想狩り、富の偏在が齎す矛盾と精神的荒廃、隣人に対する無関心、愛の不毛やらもあって、温暖化の箱はますますヒートアップしそうだ。かれらは、おのれの狂気が今にもガイガーカウンターに火花を飛ばし、増幅して青酸カリの壜を割るかもしれぬことにどれだけ気づいているのだろうか。

 不確定性原理の大発見で終にラプラスのデーモンを駆逐して少しは知に対して謙虚になるものとおもったら、とんでもない神のサイコロ遊びの勘違いだ。われわれが人類のこの大原理の発見に際し、一つのパラドックスを提示して戒めておいたのをおもいだしてもらいたい。言うまでもない、「シュレディンガーの猫」だ。言葉の上でなら、半死半生だの、半猫半霊だの、なんとでも言えることだろうが、実際人が観察する以前の箱のなかにおいて、一個の貴重な生命はいかがな状態にあるのか、生き死ににかかわることなのだから、やはりはっきりしておいてもらわなければ困る。

 このパラドックスは言うまでもなくシュレディンガー博士の提出したものであるが、博士に暗示を与えたのは吾輩のなかまのアンゴラ猫である。かれの名はトマス・ベケット。なんと姓まで頂戴しているのをみても唯者の猫じゃないとわかる。その名からも知れるように、かれの命は非常に危うい状態にあるのである――あるいはそういう運命を負っている。

 実は、かれが博士の前に登場したのが瀕死の大怪我を負ってまさに半死半生のところであって、その姿はそのまま名前とともに、カンタベリのトマス・ベケット大司教の運命的な暗い影と結びついていた。博士のほうはまだ少年だった。だが、博士がこの事実を明らかにしたのは、それから半世紀以上も後のことで、しかも博士が死ぬ間際に書いた自伝においてなのである。死を前にした博士の脳裡に、はるか昔の遠い記憶、しかも一度眼にしたにすぎない唯の猫の想い出がよぎったというのはどうしたわけであろうか。いや、あの不思議な出会い以来ずっと、博士の頭のなかに半死半生猫が棲みついていたのである。量子力学に対する多大な貢献も、それに対する疑問も、またDNAモデルの世紀の発見に重大な示唆を与えた遺伝子の実体についてのささやかだが正鵠を射た芸術作品的予言的考察も、生命はネゲントロピーを食っていると喝破したりしたのも、皆わが同輩と博士の協働なのである。このあたりのことは、日本のはやしはじめという先生も短編で書いておられたなあ。

この「シュレディンガーの猫」、他人事とばかりおもっていると、人類こそ袋の鼠ならぬ箱のなかの猫となりかねない。生きているのだか死んでいるのだかよくわからない、ただわけもわからずゴドーを待つだけの生き方をいつのまにか選択してしまった人類にしても、確率的に生死の分布がきめられる不幸をわが身のものにしてしまってはならないだろう。果てに行き着くところは、このかぎられた地球という密室で遁れようのない狂気の放電での種の自滅ということになってしまうのだから。

 さて、話は途轍もない方向にそれてしまった。先程の合体の話で、處女神アルテミスの身の上が気にかかっておられる御仁もおられようから、ついでに言っておこう。女神の純潔は些かもおかされていないから、どうか御安心召されよ。

 というのも、バストという神の方も女神だからである。尤もそれはエジプトの民が勝手に名前と一緒に吾輩に付与した性で、吾輩の本性とかかわりがない。とはいえ、先述したように両性具有の者は、観察する者の見方がその性をきめるのであるから、真に女神の純潔を心配される方の期待は吾輩だって裏切れようがないわけである。ところが、逆におんな対おんなという図式になると、この合体劇、厄介にも倒錯という表沙汰にはできないはばかりごとのかたむきにはまってしまう。いずれにしても、なかなか祝福すべき体裁におさまってくれないが、但しそれは人間の世のなかのことだけであって、神となればむしろそういう世間で公認されるような俗な形式が綻びたところ、なにかあやしくなった非日常的渾沌の聖なるところにこそ、その神力御威光が無条件にありがたがられるわけで、まさにはばかりごとは昇華という手段の用いどころである。したがって、この件に関して人がどうこう考えてもはじまらない。

 なお蛇足を承知で、アルテミスの兄のアポロンについてだけ触れておくと、本来太陽神であり男神であるアポロンこそ、太陽の女神の相手に相応しいところであるが、處女神の妹が先に当のバストと通じてしまったために、誼みをかわすべき相手をなくし、あろうことかとうとうぬばたまの闇の烏ととり結んだとあっては、いかに渾沌といっても、どうにも格好がつかず戴けない。これでは聖の実現のための顛倒というけしきはない。ただあまりに身の危険差し迫り、狼狽の揚げ句の動転といったところだ。かりに日食になぞらえるにしても道具立てがわるすぎるようだ。

 そこへいくと吾輩なぞは、無論立場の違いはあるにせよ、この機会をちゃっかり聖なる狂宴として新たな霊威を身につけるのに利用し、また生まれかわって更に成長をなしとげたわけで、まことに人間世界では神よりも英雄は逞しく、また動物の方がそつなく生き抜く知恵を持つ点において神に勝るというものだ。少なくとも神に進化発展はないのはたしかで、これは死すべきものの特権である。

 さて、ここで月との縁を深くした吾輩はその盈虚にならい、明暗に従い睛を伸縮させて時を計る術を開発したのであった。と同時に、以後エジプッシーとして、別天地に新たな生を探るべくこれを機に、住み慣れたアフリカの地から黎明のエウローパへと一大雄飛を敢行するのである。




 さあ、眼の玉ひんむいて、眉の根据えて、眼の底に焼き付けておくのじゃ――


 背後から低く力のある声音を受けて、吾輩はがっと眼を凝らした。というより、吾輩にしてみれば眼の眩みから漸く脱け出しておちつきかけたところであったから、これからあたりをうかがおうとすれば、たださえ眼に力を入れないわけにはいかなかったのである。                              

 実は、吾輩が凝らしたその眼には、いま響いた低い声音の主――大山猫(リュンケウス)の眼が嵌入されていた。余所様の眼を拝借したのは無論これが初めてである。借り物はやはり借り物だとはいえ、余所の眼にはこうまで世界が見えにくく、視野も狭くかぎられていようとは、まことにもって意想外のことだった。当初しばらくは、われと異なる眼を装着した違和感からくる眩みかとおもい、不慣れなうちはこんなものだろうとも感じたが、それがおちついてからさえどうもなじみがわるい。いま漸く、眼は本来見るためにあるものだという自覚がもどってきて、意思の力が眼にとどくようになってきた。そこで、それでは、と、がっと刮目してみる。ところがどんなに力を入れようが、一向に見えるべき世界が判然と視界に整ってこない。第一、色が抜けおちてしまった。あたりがなんだか暗い影ばかりである。こんなにも光と仲がわるい眼があるものだろうか。お天道様が急にお隠れになったみたいだ。いや、本当にお隠れになったのだとしたら――まさか……吾輩はおもわず空を見上げた。

 ――この馬鹿者めが! どこを見ておる!

 眼がきかないところに声だけは近く鋭く響いてくるので、それは何倍もの圧迫力を伴って吾輩を威圧する。竦める肩は猫にはないが、ともかくいっそう猫背になって力を入れ、眼の玉をひんむく。しかし、内心では同時に疑問におもわずにはいなかった。眼に焼き付けろったって、この眼がそもそもから焼き付いていて真っ黒じゃないか。

 あっ!

 腹を立て、文句をつけさせるのも、意外な効能が期待できる有益な一法であるのかもしれない。相手の不当を指摘するはずの文句が、その点こそ相手が暗にしかけていた眼目だということを発見させる。今の吾輩にとっては、文字どおり盲点のようだった。

 光が黒いなら、陰は白い。奇妙な眼だが、それでも光と陰の区別がつくなら、眼の役目は足りるだろう。第一、自分の見ている色が余所の眼にもまったくおなじ色で見えているかどうか。おなじ色はおなじ色として、ちがう色はそれぞれちがって見えるなら、色によるものの識別はみな異なることがない。光の波長の相違を見分けることができれば、色彩の諧調はそれで整うわけで、あとそれをどのように染めつけようと他の者の与かり知るところではない。たまたまいま吾輩が余所の眼を拝借したからその異様に気をとられるまでで、かれにはかれとしてこれが当たり前なのにちがいない。

 しかし……その程度ならなぜ、わざわざ吾輩が自分の眼にかえてかれの眼をこの眼窩に装着せねばならないのか。だが、それを考える前に、また、文句をつける前に、まず見てみぬことには話にならぬかもしれぬ。

 たしかに、まったく真っ暗でなにも見えないわけではない。白っぽく見えるものがある。ただし、相かわらず色はない。いまはもうおちつきをとりもどして、しっかり見ているつもりだが。よく天然色というが、森羅万象天然自然のものにはみな色がある。その色がどこまではっきり識別されるかは、おのおの生物種によって異なろうが、あるいはおなじ種の生物であっても、多少の機能の違いはあろうし、おなじ機能を持っていたとしても、たとえば虹の色が何色であるかということになれば、5色といったり、7色といったり、9色といったりするのは、これはすでに眼の働きではなく、意識の問題である――色そのものをどうとらえるかはたいへん複雑な問題ではあるけれども、しかし少なくとも、自然はわれわれに無盡蔵の色を提供し、われわれはそうした色の豊かさを、それぞれの生物種の要求におうじたそれなりの諧調に整理し、これを享受する。こうしたわれわれと自然とのかかわりあいこそ、この世界を生きていくことの意味にちがいない。それが、この眼ときてはどうしたというのだ。これはやはり吾輩とはまるで種類の違う眼だ。一体なんのための眼だろう。こんな眼でなにを焼き付けろというのか。

 とはいえ、いくら不審におもってもしようがない。ともかく見なくては話にならないのだ。眼がきかぬという時は、耳と鼻を十分に機能させねばなるまい。それで情報を補えば、眼だって多少は焦点の整え方がわかってくるにちがいない。

 すると、吾輩の耳に、ちゃぽん、という音がきこえた。そして連続的に、水がはね、おち、波立ち、はずむ音がつぎつぎ耳にとどいた。

 同時に、吾輩の鼻は、草と花の蜜と虫と、そして水と人間のにおいを近くにとらえていた。

 おもいだした。さっきまで吾輩と大山猫は、泉のほとりの茂みから人間のおんなの水浴をのぞき見ていたのだ。唯吾輩にすれば、人間観察など厭きるほどおこなってきたから人間のおんなをまたここで見てみようなどという気はさらさらない。それよりもいま出会ったばかりの大山猫こそ、そのむくつけき風体と更におどろくべき透視力と霊能とによって、よくよく注意観察する必要のある相手におもって、専らそちらにばかり気を奪われていた、という次第で、いまの今までほとんど放念されていたのである。

 ともかくそこまで情報が整理できれば、いま連続的に水の音がする方向に眼の焦点をあわせるとそこに見えるものの意味が判然としてくる。

 おどろいたことにそれは――人間の骸骨であった。

吾輩が最初に識別したのは、胸骨から左右に張り出してまた奥中央の脊椎にかえっていく数本の肋骨であった。すると、その上に鎖骨、肩甲骨、頸椎といったものが見え、髑髏が見えた。その髑髏は、眼だけ丸く所定の場所に納まって、そして髪の毛らしい影が頭の上から背後をつつんでいた。また、徐々に肋骨の下方も見えてきはじめた――骨盤や大腿骨などが黒光りする水面から上がってき、こうして骸骨の全容にお目にかかることになった。

骨だけではない。全体が動き、角度もかわっていくが、袋や管のような内臓も大小いくつか見える――肝、胃の腑、それにうねうね屈曲して蜒蜒と続く腸、また肋骨をとおして肺腑、心の臓……。漸く肉の朦朧とした輪郭も見分けがつくようになった。

 なんとこの眼は、肉を透かし破ってからだの内側を直接看取ってしまうではないか。

 おんなは泉から上がってきたところだった。まもなく別の何人かの者――その者たちは衣装を纏っているらしく、さすがに衣装を透かしてまでは見えない、しかし顔は――おもに横顔がおおいが――、これも髑髏に眼だけ異様に大きく丸いのが納まって、また、髪の毛らしいものがそれらの背後をつつんでいる――がなにやらからだを拭う大きな布でそのおんなのからだをおおったが、それに遮断されるまでの纔かな時間でもおんなのからだの内部を看て取るには十分だった。しかも胃の奇態なくびれの様子や腸の蠕動までまことになまなましい。吾輩も生肉を食うから、皮や肉を食い破り、臓物も引き出して好んで食うが、いま眼にしている光景はまるで勝手がちがう。獲物は歯を立てた瞬間から、もはや生体ではなく、食い物にすぎない。食えるものならどんなかたちをしていようが関係はない。第一よく観察し眼を楽しませて食うわけではない。しかるに、こうして吾輩にとって食う対象でもない物が、しかもピンピン生きている物が、恰も皮や肉を食い破られた残骸を想起させるようなからだをさらすのを目のあたりにするのは、いかに吾輩でもおぞましい。

 おもわず閉口して口をへの字に歪めると、

 ――どうだ。よく見えたようだな。

 すかさず大山猫がえらそうに声をかけてきた。

 ――よく見えるもなにもない。なんだね、これは。

 早速吾輩は抗議した。相手が凄みをもった大山猫だろうと構うものじゃない。

 その時吾輩はおもわず背後の大山猫のほうを振り向いたのだが、次の瞬間、今度は大山猫の姿も人間のおんなとおなじように、肉の半透明なゼリーにつつまれたかのような骨やはらわたのあまりになまなましいありさまを眼にしないわけにいかないのではないかと気がついた。もうこれ以上不愉快なものを眼にするのは御免だとおもったが、時すでにおそかった。吾輩の眼にはもう大山猫の姿が飛び込んでいた。

 だが、吾輩の眼にとらえられたものは猫の髑髏ではなかった。相手も猫だから眼は丸くて大きいが――いや、ようく考えてみればそれは吾輩の眼だ、れっきとした猫のまんまるい魅惑的な眼だ、おなじように丸くてもさっき見た人間の髑髏に嵌まった眼球とはまるでちがう――、ちゃんとした猫の顔だ。無論、色は相かわらずほとんど抜け落ちた感じだが、体毛が織りなしている模様ははっきり眼に映っている。このほうがずっと正常なのだが、しかし予期したのとちがうとまともなことでも気味がわるい。相手が得体のしれない大山猫ならなおさらで、困惑しながら同時に身の竦むのもおぼえずにいなかった。

 ――どうだ、おい。おかしな顔するねえ。なにも不思議がることはねえやなあ。おれさまの眼は、草むらに潜むネズミやジネズミどもを容易にみつけることができるんだぜ。

 吾輩に大きな顔を近づけながら、大山猫が自慢げに言った。

 慥かにそりゃそうかもしれない。肉の奥を見てとるくらいだから、ちょっとした草の蔭くらい容易に透かしてしまうだろう。

 それにしても、大山猫の顔はいよいよ吾輩に近づいているのに、一向に透いて見えるところがない。顔の模様も外形もはっきりしている。なぜ、かれだけ肉の奥が透けてみえないのだ。やはりこいつは化け物なのか。ますます気味わるい感じがからだのまわりをとりまく。

 ――だが、まだどうもわかっちゃいねえ様子だな、その顔は。ようく考えてみな、なぜおれさまがてめえの眼と貴様のとをとりかえっこするよう提案したのか。単に酔狂程度なら、なにもこんなにおめえさんをわずらわせるようなまねはしねえや。第一、おれだって結構不自由だぜ、ヨソ様の眼じゃな。

 なるほど、たしかに魂胆はあるはずである。吾輩だってそれは知りたい。だが、吾輩はそれをわからせてもらうより前に、先に教えてもらいたいことがあるのだ。この大山猫大先生は、自分の眼を吾輩につけさせる時、おもしれえものが見えるからまあつけてみな、と宣わったのだ。おもしれえものとはなんだ。まずそれをはっきりさせてほしいものだ。なるほど、この眼は奇妙という点ではたしかに奇妙にちがいないが、だからといっておもしろいとはとても言えたものじゃない。むしろ奇態と言ったほうがいいくらい自分をまごつかせる。いや、見てはいけないものを無理矢理見せつけるだけなのだ、この眼は。そうだ、この眼は、吾輩の美意識に対する叛乱を仕掛けている。あるいは、寄生だ――寄生眼だ。眼から吾輩の頭脳にあるものを悉く蝕もうとしているのではないか。このままではおもしれえものに乗っかかった好奇心が宙づりだという不満を愬えるどころじゃない、一刻も早くこの眼を厄介払いしないでは、わが身にかかわることになるやもしれぬ。

吾輩は耐えきれず叫んだ。

 ――もうどうだっていいから、ともかく眼をもとどおりにしてくれ給え。

吾輩には余裕はなかった。なにも構わず、ただおそろしいような予感と不愉快さにわれをわすれて叫ぶよりなかったのである。ところが、相手の大山猫のほうは、多少残念そうな口調ではあったが、まったくおちついた調子であった。

 ――そうかい。そりゃそうしてやってもいいが、だけど眼をそむけてなにも見もしねえでなにがわかるっていうんでえ。あくまで見て判断するのはてめえの頭であって、断じて眼じゃねえ。眼でなにをとらえたって、頭は眼の言いなりになるわけじゃあんめえ。まずは眼をよく働かせねえでは、頭も動かしようがねえぜ。まるで、よくできた手下を持ちながら、手下から上がる情報をなにも耳に入れねえっていう寸法はねえはなあ。そこまで臆病になっちまっちゃあな。まあ、しかたねえ、おめえさんには初手から無理だったかもしんねえ。まずは眼をもとどおりにしてやらあ。話はそれからだ。

そう言うと、大山猫はその大きな手でもって吾輩の顔を強い力でなでてからだごと押し倒すと、そのまま大きな手のひらを吾輩の顔の上におおった。吾輩が軽い麻酔をかけられたようにこころよい微睡みにおちこんでいるうちに事は総て終わった。

 これで漸く吾輩は自分の眼をとりもどしたのだが、それでもやはり、確かに自分の眼にもどったというのに、眼をあけて外を見るというのは怖かった。こういうことなら大山猫の眼をつけていてもあまりかわらない。ただ自分の臆病さをおもいしるばかりだ。逆に、初めは図体と腕っ節ばかりだとおもっていた大山猫が、精神の上でも存外逞しい、ともすると吾輩より数段上かもしれないようにもおもえてきた。

 今になって、かれの懐の大きさを感じる。吾輩の一種の反抗的言辞も鷹揚にうけながしたことといい、眼をとりかえるにあたっての神業のような手際といい、まことに端倪すべからざるところがある。かれの眼が吾輩にはほとんど機能せず、ただ混乱ばかり招いたというのも、そもそもかれのほうが吾輩より高等で、その眼も普通ではない不思議で勝れた力を有しており、そのレヴェルにおいつかない吾輩には到底使いこなしようがない代物だということなのかもしれない。尤も、その考えは俄には肯んじがたい、というか頗る抵抗がある。大抵の動物にも特別に発達した特殊な機能の器官があるものである。偏見かもしれないが、かれの武骨な口の利き方や妙に凄んでみせる表情や身振りなど鑑みると、どうもまだ吾輩のほうが道理を心得ているようにおもう。だが、外見から判断するよりはずっと猫格ができていることは認めねばなるまい。少なくとも、自分の臆病さをおもいしらされた吾輩に、かれを見くびる資格はない。

 ――どうだ、これでやっとおれさまの話がきけるようになったか、おい。

 そら、これだ、すぐ「おれさま」とくるものだから、敬意を抱こうにも無理を感じずにいられない。といっても、それは本質的な問題ではない。あるいは、一種の韜晦かもしれぬ。

――おれさまがさっきからおめえさんに施そうとおもっていたのは、早く言やあ、人間てえものの剥き出しの正体ってやつを見せたかったのよ。さっき気味わるそうな顔をしたところを見ると、どうやらちゃんと見えたらしいな。

 いよいよ大山猫がその魂胆の一端をかたりはじめた。

 ――尤も、おめえさんも多少くれえは、人間てえやつが珍妙な風体を持つ輩だと普段からおもっていなかったわけでもあんめえ。え、どうでえ。

 慥かに吾輩も、人間の風体については妙だという感じを未だに否めないでいるので、日常の観察からおもっていることを述べた。

 ――それはきみの言うとおりだ。吾輩も長年人間につきあい、これを見慣れてきたつもりだけれども、あのまるで薬罐のようなつるつるした顔だけは未だによくなじめない。それにあの顔はまだそのうえに、まんなかが異様に突起してもいるし、眼の上は墨をつけたように横一文字に毛がはえている。おまけに口と言えば、内側の黏膜が捲れ上がって常時赤く腫れ上がったようになっているのだから、おそれいる。

 ――ところが、その唇というのがかれらにはとても魅力があるものらしい。

大山猫は、吾輩が同調したのに満足したらしい様子でさらに続けた。

――その唇にかぎらずだ、かれらが魅力を感じるところというのはどれも妙なものばかりだ。特に人間のおんなの胸と尻。いまもあそこにそうしたおんながいるが、人間のおんなの胸の膨らみようはいってえなんだ。よく見ると、あれは自分の尻に似てさえいるって観察した者もあるようだが、なるほど、人間のを見りゃ、どっちも山二つ張り出したようだ。胴体の前面にまで尻に類似した形態を持つやつがくっついているのも奇態だが、それが一番男をひきつけるんだから、まったく理解にくるしむじゃねえか。やつらにゃあ自然な本能が壊れているのは承知しているが、しかしあまりに倒錯ってえもんだ。それだけ胸を発達させていながら、肝腎の乳首の数ときたら二つきりしかねえ。無論、尻とかたちを合わせるためにゃあ二つでなきゃあぐええわるいってえわけだろうが、それにしても三つ子が生まれた日にゃあどうするってんだ。人間てえ生き物だけは、生きる目的ってえもんがまるっきりちがうところにあるってぇわけかね。

 ――きみはまったくよく観察しているもんだね。

 吾輩はさも感心した調子で合いの手を入れた。慥かに感心する、あんな眼でよくものが見えてこれだけ言えるもんだ。

――おう。だが、そのくらいなら誰だってわかるもんだぜ。なにもあらためて、てめえに講釈することもねえ。まったく誰の眼でも見てとれることなんだが、肝腎の御当人たちだけがわかっちゃいないっていう寸法だ。

 そう言い終わった時、大山猫は大きく眼を見開き、眼光が鋭くなったように見えた。

 ――それにしてもなぜ、胸が尻みてえなかたちになっていなくちゃならねえんだ。人間観察の要点はここだぜ、おめえさん。やつらは後ろ脚二本で立ち上がった。するとおれたちにとっちゃ文字どおり日陰の部分にすぎねえ胸や腹が前面にあらわれて目立ってくる。胸や腹っていうもんは、おれたちでも体毛での装飾はおろそかになっているが、これはもともと日陰の部位だからむしろ当然てえところだが、立ち上がってそれらを真正面に見せるようになった人間にとっちゃそうはいくめえ。

 ――だからかれらは、衣服なるものを装って身をかざるんだね。

 吾輩も時々は見解を披瀝しておかねば頭脳の衛生上ぐあいがわるい。

 ――そうさ。だが、すぐさまそこに飛躍しちゃ話のかなめが飛んでしまう。まあ、黙ってききな。

 黙ってきけと言われればしかたがない。窘められていい気はしないが、暫く口を噤んで御意見拝聴とまいろう。

 ――人間が纏っている衣服なるもの、ありゃあなんだ。あれはまさに、人間の傲慢と横暴非道の証しだ。おのれの体毛の貧弱なる、いや不毛なる埋め合わせを、ほかの生物の美事なる毛皮を命ごと剥ぎとってやってしまうんだから、まったく非道(ひで)えやつらだ。そもそも不毛なる体毛、これこそかれらの醜悪かつ自然への不適応の根本原因じゃあねえか。貴様が言った薬罐のようなつるつるした平板な体表は、顔だけじゃなく、胴体にも手足にも総て全身におよんでおる。おまけに、かれらは二本足で立ち上がって、表か裏かしかないからだになり、眼も平坦な顔の正面に位置する関係上、なおのことからだへの興味は表の面にしか向かわねえ。そこがつるつるでなんとも愛想のねえ様子じゃ、お粗末すぎる。特に異性の気を惹こうとおもったらな。一旦うしなってしまった体毛はとりもどすことができねえから、もう優雅な装飾はかなわねえ。そこで、人間どもにとっちゃ肉体の一部を改造するより方法がねえところだろうが、そのやりくちがいかにも性的に直截的で露骨だ。本来は赤ん坊のためにだけありゃあいい乳房を、数を犠牲にしてまで大きく膨らませ、尻に似せる、これなんざ美できわだって魅力をつけようというよりもともかく性的にオスを引き寄せりゃいいってえのがありありだ。また、唇を舌べろみたく、或いは熟れた果実みたく、赤く味覚を誘導するような形態にしたりするのも、性を食欲に近似させ、相手の気をそそろうっていうみてえだ。しかし、やつらのやってるこたあともかく、性的な肉体部分を前にもいっぱいくっつけりゃいいってえぐええなんだから、全然なっちゃあいねえ。まったく畸形もいいところだ。われわれが体毛でもってかざるからだの模様は自然の美しさに恵まれているが、やつらの方向性はまるっきり逆だ。とってつけたようないかがわしさで、自然を冒涜し、壊乱する。え、貴様はどうおもうねえ。

 吾輩としては、なるほどそんな見方もあるものかと、ただ感心するばかりであった。

 ――うん、なかなかおもしろい見方だとおもう。慥かに人間くらい、生存本来の目的と乖離した形態を発達させた生物はなかろうね。

 ――そうさな。さすがにやつらもそんなからだで堂々としちゃいられねえ。ほかの生物から命ごと横取りしてでも、衣服という細工を身に施さねばならなくなったし、おのれの裸体に対して「はずかしい」という、実に不思議な感覚を養わねばならねえはめさ。

 ――ところが、またその一方で、人間にとって最も美しいものの鑑賞の対象と言えば、そのつるつるしてなんの装飾もない、ただしかるべき部位が豊満に発達した裸体だっていうんだからねえ。

 ――そう、まったくやつらときたら、相矛盾することを同居させて一向平気ってえ手合いだから世話ねえや。だが、人間の剥き出しの裸がきれえってえことがあるもんか。やつらの眼にゃ、おもいこみの雲か霞がかかってるだけだ。おれさまの眼と大違い、出来がまるで違う。貴様の眼もおれさまほどじゃねえ。だからあんまりピンときた風じゃねえ。てめえ自身はわかってるふうでも、それほどにはわかってねえんだ、おれさまの眼では一目瞭然のことがなあ。

――それをわからせるために、きみは吾輩にその眼を嵌めさせたんだな。

 ――左様、左様。

 さも得たり、という顔で大山猫が言った。もうここまできたら、その眼目やらの見当はついているが、縱えそれが尤もなことであっても、吾輩が被ったのは災難であったことはかわるまい。

 ――貴様はおれさまの眼を嵌め込んでしっかり見たはずだ。人間のおんなの骸骨と内臓の透けた様を。それでもあのおんなは、人間世界では高貴な家の娘、いわゆる貴族の令嬢というぜ。しかも評判の美人としてきこえていて、近在は言うにおよばずはるか海山を隔てた遠くの国からも、求婚者がひきもきらねえてえいうじゃないか。おれさまのように本当に眼がきく者がいたとすりゃあ、あんな汚物袋、誰ひとり寄り付きゃあしねえだろうに。ところが一方、おなじ眼をおれさまやてめえのからだに向けた時はなにも透いて見えなかったろう。そりゃそうさ、人間以外のものにゃあちゃんと体毛が身をつつんでいるから、からだが透けて見える心配はない。蜥蜴や虫けらにしたって、毛がなくとも鱗か殻で身をおおう嗜みがある。おれさまだってなにも好んで、表の装飾を剥ぎとり肉のなかのおぞましいところを見透かすわけはねえ。どんなに特別な視力をそなえたところで、ちゃんと自然の与え給うた美しさには敬意を払っているんだぜ。貴様の顔だって、毛が装飾しているからちっとも醜くはねえ、まったく自然の美しさがあるからな。まあ、蛙、井守のたぐいと蚯蚓くれえさ、皮膚があらわなままで、そんななかみが透けて見える様をさらしているのは。尤も、蛙や井守は水中をおもな棲み處としておるし、蚯蚓は土に潜る。始終地上でそんな惨めな様をさらすわけではない。そうさ、およそ地上でくらす者は、みんなお天道様の恩恵を感謝して、それなりの装いで応えている。一方、人間はどうだい、お天道様を前にして、恥もしねえで剥き出しのからだのまんま平然としているなんざ、おそれをしらねえってもんよ。さすがにそのままではいられなくて、衣服なるものを纏っておのれのみっともねえからだを隠そうとしているけれども、そんなものはつくりものの小細工にすぎねえし、第一、のっぺりした顔はそのまんまだ。そういうざまで傍若無人に振る舞うのだからおそれいるぜ。ちったぁ蚯蚓のしおらしさを見習うがいいとはおもわねえか。

 ――ああ、まったくそうだね。

相手の調子からして、ここは同調しておくにしくはなし、ということだ。それにしてもなぜこうまで人間をこきおろすのだろうか。

 ――まったくのところ御説御尤もなんだけれども、きみ、それにしてもどうしてそこまで人間の醜悪ぶりを強調するのかね。

 吾輩としてはなるだけやんわりと疑問をなげかけたつもりだったが、大山猫は語気を荒げた。

 ――なんだと。てめえは普段から人間に馴化して、眼がなまっちまっているんだ。おれさまみてえな鋭い眼光をもってものを射貫けば、たちまちに、うわべだけは繕っても本質は自然に反するものの偽りの醜さが見えるのだ。なにも殊更に強調して話を大きくしているわけじゃねえ。そんな不自然をおれさまが好むわけがあるめえが。それにしても、年ごとに人間どもの跳梁ぶりは目に余ってくるとはおもわねえか。ほんに最近は、このギリシアの野や杜からレオ様の姿を見かけなくなっちまった。まだアフリカにゃあ健在であるらしいが、それでも沙漠のはるか南に追いやられてしまっているときく。百獣の王の名を(ほしいまま)にする、われら猫族一統の誇りたるライオンでさえ、やつらの跋扈に太刀打ちできねえ。まったく人間たあどうにも食えねえ代物よ。

 そこで大山猫は嘆息すると、また続けて言った。

 ――おい、貴様、おなじ動物でありながら、どうして人間だけこんなにも自然とかけはなれた醜悪な異物になってしまったか、その抑もの起こりを知っているか。

 ――いや、是非きかせてもらいたいものだね。

 ――おめえもまだ青くせえから無理ねえやな。じゃ、話してきかせようじゃねえか……

 そして、かれがはじめた話はこんなぐあいであった。

 かれによると、それはそれは昔、どこもかしこもあばれ放題、山はあばれる、野はあばれる、河はあばれる、もちろんどんな動物もあばれ放題だったころ、それはそれで皆が生き生きとして生命の喜びに溢れていた時代があったのだそうだ。ところが、そこへ人間というのが登場して、なにもかもぶちこわしにしたのだというのだ。

 かれが言うには、人間の最初で最大の悪業というのが火を盗んだことだというのである。火はそもそも、神が天地創造のおり自然に仕込んだ持続とリヴォルーションの秘鑰だった。普段はあばれの生命を養う源泉のごとく、おのおののうちに奥深く秘められて姿を出さないが、あばれの絶頂にはおのずからあらわれて総てを焼き盡くし、時のかなたの永遠にとぶらい導いてやる。そして、かわって新しきあばれの息吹を大地に吹き込むのだ。ところが人間は、この火をたくみに盗みだし、おのれのものとした。かれらは、これをドラゴン退治と称し、あばれ放題の自然の暴虐をみごと制圧し、この世界に秩序を齎したとしているが、実のところ、かれらが退治したはずの兇悪邪猾なドラゴンはこれを機会にかれら自身の心のなかに住みつくようになったのだ。その瞬間から、かれらのからだは容易に火に焦げてしまうような体毛の装飾がなくなり、いまのような醜い姿をさらすようになりもしたのである。もともと体毛による装飾はお天道様に対する生きるものの喜びの表現なので、お天道様にかわる火を手に入れてしまった人間にとっては、そういうものは邪魔なものでしかなくなったのだ。尤も、かれら自身もこれを一種の堕落と気づいていないわけではない。しかし、意気地のないことに、かれらはその非の総てをおのれで引き請けようとはしない。たとえば、人間を誘惑し貶める悪玉を拵えて、それに罪を着せようとする。だが、かれらが悪の権化に見立てた蛇の身に一番似ているのは無毛なかれら自身であって、体毛喪失のトラウマが蛇に投影され、それに不吉なものを見ないわけにいかなくなっているまでなのだ。一方でドラゴン退治と気勢をあげてはいても、他方では邪悪な蛇に誑かされたと自ら弁護せざるを得ない、この人間のあばれの自然に対する離反および独立は、虚勢の背後に負い目をかかえこんだ錯綜とした人類史の原点となったのだ。だから、かれらが折角勝ちとった火も、早速その時から、夜でも容赦なく、かれらの剥き出しの姿をあからさまにしだしたということ、夜の恐怖を排除してくれる火が同時に夜の慰安も奪い取るというアンビバレンスを、否が応でもおもいしらされざるをえなかった。そして終にかれらも、おのが姿を恥じないわけにいかない感情が形成されるようになった。けれども、一旦うしなった体毛はもうとりもどすことがかなわないから、ほかの生き物から剥ぎ取ってでもなにか衣服を身に纏わなくてはいられない生活になった。

 しかし、火は――あるいはドラゴンの心は、そのほかの点ではかれらを得意にしたのである。火をもってかれらが第一にしたことは、このあばれ放題の自然を去勢し、その豊饒な生殖力を管理することだった。かれらは火による魔術を心得て、自然を幻惑し傀儡に變えた。山に社を建ててこれをなだめ、野は開墾し耕してこれをなだめ、河は堤を築いてこれをなだめた。なだめられた大地は豊かな稔りで人間たちに奉仕したが、風景は一變し、時に収奪され盡くした曠野はかつてない沙漠の死の世界を現出させた。かれらは夜の闇を減じ、それを昼の一部に組み込んで、時間を増殖させ、こうした活動を促進していくのだった。もはや時日は、無限の円環の循環をかたどるものではなく、時間の矢印が進歩という方向に向かって示される直線上を回転して進む車輪となったのである。人間はこの車輪を駆って、自然の一部を變造し、いくつかの動物に対しては自然が行う幾数倍もの速さで、新しい品種を生みださせさえした。野生の動物もおのれの生活のうちに囲い込んでこれをなだめてしまったのだ。情けなくもこうして、犬も馬も牛も、あるいは友という名で、あるいは僕となって、あるいは工場に仕立てられて、人間に仕えるはめになった。人間の支配を肯んじなかった者たちは、ライオンの例にあるように、はるか辺境に追いやられるか、種の絶滅の憂き目に遭遇させられる。そんななかにあって、どこへ行こうがわがもの顔という矜持を保つのは纔かにわれらのみ。

 ――そういう意味でわれらひとり歩く猫は、あくまで孤高を貫き、人間の妖術に幻惑されたり懐柔されたりせぬよう、とりわけ眼を鋭く光らせにゃあならねえってわけさ。

 ここで少し間があいたので、吾輩は適当に相手の御機嫌をうかがった、なにしろ相手は、眼だけじゃない、舌鋒もますます鋭さを増してきているところなので。

 ――本当にきみの眼にかかっちゃ、人間もなんとも情けない姿になりさがっちまうからね。まさにかたなしというところさ。

 ――おめえは相当に単純だな。きっと木天蓼(またたび)なんざを仕組まれると、ころりとまいっちまうクチだろうよ。おめでてえや。人間てえやつは、そうかんたんにわりきれるほど単純なもんじゃねえ。全体が獰悪狡猾でふてえ輩ばかりだというと、かえって話は早えてえもんよ。いずれやつらが撒き散らす毒がおのれの身にもまわって自滅するその日を、こちとらは気長に待ってやりゃいいんだからな。やつらあ醜悪だ、慥かにそのからだはな。だから、いくらでも見透かせる。しかし、見えねえところだってある。尤も、大抵のやつの心はとても騒々しくて、自分の存在を誇示するためにそういう部分もおおっぴらにあらわしちまう。その見えねえはずの心を醜悪にさらけだすんだからわけはねえ。名は体をあらわす、ってえところだな。そのように相場がきまってくれりゃあ、むしろ御し易いようにおもえるもんだが、そんな人間のなかにも、おのれの存在を秘めるように内なる魂に身を合わせ、その静かな心を美しく保っている者もいる。人間てえのは不思議だ。なんてわけのわからねえこみいった存在なんだ。ともかく、そういうやつになると、今度はからだのほうまでかわってくる。さっきの反対だ、静かな心の持ち主は、おのれの存在を秘めるようにしているためか、からだまでその醜さが隠れてしまう。まったくだ、実際、おれさまの透視力にもとおらないからだを持った者さえ慥かにいるのだ。

 ――え、なんだって。

 先程まで随分強気で気勢を上げていただけに、ここで大山猫が嘆息気味に吐いた言葉には、まったく意外の念を感じずにはいられない。

 ――一体そりゃ何者なんだい。随分じゃあないか、きみの透徹した眼力もやりすごすことができるなんて。

 ――奇妙なことをきく。おのれの存在を秘めている者が、どうして世間に伝わるなまえを持っているものか。尤も、一つだけ、既に名が広くしれわたっていたおんなのことで、その如実な例にでくわしたことがある。ある時おれは、くらい洞窟のなかで愛の神に毎夜奉仕しているおんなのあることを知った。どういうおんなか、ちょっと好奇心をくすぐられたが、如何せん、暗闇のなかじゃあいくらこのおれでも眼がきかねえや。やがて、そのおんなが、かつてアプロディーテーをもおびやかす美女と評判をとったことのあるプシューケーだとわかった。人間はすぐわかいおんなの美を称揚しておおげさにふれまわるが、おれさまの眼からすりゃ、どいつもこいつも髑髏面の汚物袋にすぎねえ。そのころのプシューケーも、まったくそれにちげえなかったぜ。なまじ名がとおっているだけに余計醜さが浮き彫りになる。本人はおとなしくてもまわりがほうっておいてくれねえからしかたねえ。そんなおんなが、自分の美を誉めそやす世間から身を隠して、ずっと暗闇のなかでくらしているってえいうのは、どういう発心を起こしたものかとおもいながらも、ともかく感心しておった。そんな健気なプシューケーもいっとき魔が差すのは免れなかったようだ。つい慢心を起こして、その暗闇の洞窟に火を持ち込んだという。それがために、愛の神をきずつけ、とうとうこれをうしなってしまった。その話をきいた時ゃ、つくづく人間のさがとはあわれむべきものかなとおもわずにいなかった。その後あわれなプシューケーは洞窟にも居場所をなくして、苦難の日々をおくったというが、それから大分経って、おれさまの眼の前をまるで舞うような自由な足どりで行き過ぎる者に出会った。プシューケーにまちげえなかった。ところが、おれの眼前を行くかの女は髑髏面でも汚物袋でもなかった。おれさまの眼はいつものようにかの女のからだを透かしていたが、その時はかの女の薄い衣装をさえ透かしていたのだが、かの女のからだはどこまでも透明で、きれいに澄んでさえいて、内部の醜いものなどどこにもあらわしはしなかったのだ。これが人間だろうかと、なんともいえねえおどろきに見舞われたが、同時に、これも人間なのだと認めぬわけにもいかなかった。醜いものを知悉しているからこそ、美しいものもよくわかる。それは素直にうけとめなくてはならん。とはいえ、これは謎だ。

 大山猫はすっかり感嘆したように「謎」という言葉を吐いた。かれの人間を語る調子は、先程までの攻撃的口調とはちょっとちがってきているのは明らかだった。

 ――こうした謎があるからこそ、人間はかぎりなく破滅に近づきながらも未だ破滅を免れ、時に美しいものをつくりだしてさえいるのかもしれねえ。その謎はわけのわからねえ力でおれをひきつける。おれがこうして人間のように言葉をあやつっているというのも、実を言やあ、人間にあるそうした謎の部分に心惹かれ、少しでもあやかれはしねえかとかおもうからさ。そうでなきゃあ、苟くもおれさまが、人間なんぞに見習って、所詮おおかたが徒口にすぎねえっていうのに、息以外に言葉というものまで吐くわきゃねえ。おれなんざ、見ることに徹していたほうがどれだけ気が楽で、おまけに身のためかしれねえ。しかし、ひとり歩く猫としちゃあ、神秘に出会ってそれをやりすごすっていう怠慢はできねえところだからな。ひとり歩くということ、そうして自由を希求するということは、はるかなる梦に一歩でも自力で近づこうとすることだが、それは結局、神秘と出会うということだ、とおれはおもっている。まあ、人間がもっているまことに不思議な謎が、そういう神秘と結びつくのかどうかは疑問だが、だがなかなか美しい謎じゃねえかとも感じるからなあ。

 ここまで言うと、大山猫は興味深そうに吾輩のほうをうかがった。そして、首を下げておおきな顔を少し吾輩のほうに近づけながら言葉を続けた。

 ――時に、貴様も言葉をものしているが、それはいってえどういうわけなんでえ。それもやはり人間となんらかのかかわりがねえわけではあんめえ。

なんだか調子がかわってきたので、吾輩も余裕をとりもどしてきた。吾輩は暫くのあいだなにも答えず、ただほほえみをかえすだけでいた。大山猫が、「おい、どうしたんでえ。なんだ、そのつらあ」と怪訝と苛立ちをまじえた口ぶりで言ったが、吾輩は無言のままやりすごした。かれには吾輩の表情の持つ曖昧さのかげんがもうひとつわからなかったのだろう。そして、かれがいかにも不思議そうな表情を顔にあらわしたのを見計らって、吾輩は漸く口を開いた。

 ――きみは、わらいというものがわかるかね。

 その時吾輩は、大山猫の口が不器用に歪むのを見てとった。

 ――わらい? おう、人間の言葉をおぼえるようになって、わらいというしぐさもわかるようになってきたぜ。それまでは巫山戯て愉快な気分を味わうことはしても、わらいにまでもっていくってことはなかったものな。いろいろ言葉という徒口を吐いているうちに、口のあたりに遊びができて、ようようわらいっていうものもつくれるようになってきたんじゃねえかともおもうが、だがよ、やっぱり一苦労だぜ。なかなか人間のようにはわらえねえよ。ものを食ったり敵を威嚇したり、とにかく命をかけてする場合じゃねえのに、顔一面であんな無駄なエネルギーの消費をこなすってえのは、御大層な身分だぜ。自然のきびしい掟から超脱してるわけだからな。おれたちもあんなふうにわらえたらさぞいい気分だろうともおもうが、残念なことにおれたちゃ腹をかかえるってことがそうかんたんにはできねえもんな。それにしてもなぜ人間たちゃ、わらいってえのを気分だけじゃなく、しぐさにまでして外にあらわさなくちゃならねえんだろ。

 ――ともかく、きみもわらえるってのは御同慶の至りだよ。

 ――そういうおめえさんはどれだけわらえるんでえ。

 ――まだまだ修行中さ。だけど、猫が本当におおきな口を開いてわらうことができるとしたら、相当に大したこともやってのけられることだろうね。

 ――そうかもな、その大したことってえのが一体どういうことなのか楽しみだな。

 大山猫はうれしそうに舌なめずりをして言った。顔にはわらいの表情とおぼしきものがうかんでいたが、もちろん人間のそれとは隔たりがあった。

 吾輩はそうした相手の表情にほほえみでかえした。ほほえむかぎり無駄な言葉はしゃべらないですむ。まったく言葉は9割9分までつきあいの産物だ。創造の用を果たすのは、纔か一分もないかもしれない。纔か一分のために9割9分の徒口をたたくのは、時につかれの気分におとしこむ。自分自身とのつきあいでまったく自由な徒口をきくならまだしもだが。円満な交流をはかるなら、ほほえみで大抵用が足りるだろう。わらいには言葉を省く効用がある。わらいを生むのは言葉、または状況を解釈する観念言語だが、わらいはそれを吹き飛ばしたり、あるいは隠したりする、言ってみれば言葉の鬼子だ。

 吾輩は先程の眼の一件ですっかりつかれはてた。人間を剥き出しにすれば、非常に危うい髑髏の図が透けて見えた。それを見てとった大山猫の眼には、世界の色が脱落していた。装いの過剰の裏に皮一枚の身をさらす人間は、ますます虚飾と技巧に走りながら、言葉だけ必死に「健全なる精神の宿る健全なる肉体」を追い求めている。過度の透視力で対象の内部を剔抉する大山猫の天眼通も、色彩の豊饒な世界の楽しみを損ない、場合によってはうつくしい魂まで殺しかねない懸念がある。自然界ではいっとき過剰なものがうみだされても次第に調節され、再び平衡をとりもどすものであるが、ここではそれらの過剰は自然の統制をはなれてしまっている。それらはともに、見る見られる視覚に絡んでいるが、しかしそのおおもとには言葉があって、それが総てに作用しているにちがいない。視覚は言葉と結びついて、対象をはなれても映像が生き残り、幻想として養われる。幻想という過剰は、自然の世界とは別の二重世界であり、もはや自然では調節されない。幻想の世界を維持していくために、人間はますます視覚を尊び、視覚をおそれる。一方で皮一枚のからだに装いを凝らし、他方で皮一枚の顔を仮面で鎧う。そこでは、他人のまなざしでのみ自己を意義づけられ、それによらないではおのれのありかたをたしかめることができなくなっているのだ。もはやかれはそうした共同幻想の世界で生きるほかない。

 視覚への信仰という点では、大山猫もかわりあるまい。自然の色を殺ぎおとしてまでも、透視の威力を追求してやまない。このままつきつめて行けば、バシリスクスやコカトリスのように一視必殺のおそるべき眼に行き着いて、終に見ることすら不自由極まるということになろうが、しかしかれとしてもどこまで統制できるものであろう。いまでも吾輩は、大山猫の視線には生命的脅威を感じるし、少なくとも人間のように毛皮もない裸の状態では数秒と浴びたくないとおもうくらいである。

 これら言葉と視覚のうみだした過剰を調節し、その暴走を抑止するものこそ、そうした過剰を薄っぺらな軽いものにして吹き飛ばし、もしくは渦巻きのようにして呑みこんでしまうわらいであり、あるいは対象と遊び戯れ、時につくりかえるアルス、そしてこれを楽しむ心なのだ。言葉の毒素はわらいをもって腹の底から徹底的に吐き出さなければならない。大山猫もほほえみをもって眼の力を抜けば、見る世界に色がもどってくるのではないか。尤も、かれもわらいについては目下修行中のようであるから、遠からずそうなる日がくるかもしれない。その時に、おのれの透視力がおとろえ、かわりに色が復活していることに気がついたら、かれはどういうおもいを懐くであろうか。吾輩としては、かれのわらえる猫の仲間入りを諸手を挙げて歓迎したいところであるが、まだまだ今のかれは、おのれの力に酔い、眼を過信し、言葉が過ぎるようである。

 もう議論にはおよびたくない。而うして吾輩はほほえむ。然るにきみはそれを毫も理解せん。きみは白か黒かの世界しか眼中にない御仁であるから、ほほえみのような中途半端に見える曖昧なものは性にあわんと、またその意味を問うだろう。それに答えてはほほえみの意味も半減だから、もっと手っ取り早く鳧をつける方法を探らねばならない。こうなりゃ口を噤むより眼を瞑るにしかずだ。大山猫には言葉を絶つのも視覚を絶つのもおなじことだ。というても、いきなりでは相手に義理をかくから、最後に数言つけくわえておかねばならぬのもやむを得まい。

 ――まあ、人間がとんでもないことをしでかしてしまわないうちに、その大したことをやってしまいたいものだね。それはともかく、きみの眼の威力にはおそれいった。ちょっと装着させていただいただけで、吾輩なぞもうくたくただ。特に眼は限界だね。まるっきり力が抜けて、眼をあけているだけで精一杯なんだ。ここは一寝入り、御免蒙らせてくれないものだろうかね。

 ――なんでえ、情けねえ。昼寝のつもりか。おれなんざ、眼が冴えかえってるから、瞼すらおろさねえぜ。

 なるほど。でも、自慢にゃなるまい。あの眼なら、皮一枚の瞼などいやでも透かしてしまうのだから。それなら大山猫はどうやってねむるのだろうか。ちょっと興味があるが、問いかけてまたぞろ講釈をきかされるのも堪らないから、止しにした。おおかた手袋のような手で眼をおさえるか、丸くなって毛皮に眼をおしつけてそれで塞ぐのだろう。

 ――まあ、勝手にしな。おれにライオンのまねができねえように、おめえにもおれさまのまねは無理ってえいうのは、まあ道理だろうよ。おれさまもそうそうおめえにつきあってるわけにもいかねえしな。それじゃこれでおさらばするぜ。また会ったらよろしくな。ちったあおもしれえ話でも仕入れといてくれ。おめえには体力は期待しねえから、その分気の利いた話を頼むぜ。じゃあな、あばよ。元気でな。

 そう言うと大山猫は、吾輩のかえしの挨拶も待たずに一跳躍で茂みのなかにきえた。

 かれが立ち去って吾輩はいっそうつかれをおぼえた。もうくたくたで、眼にもまるっきり力がはいらないというのも、実際嘘佯りない事実なのである。

 眼を瞑る――これは言葉をものするものには非常に大切な衛生法である。幻想のおおくは、おのれが眼を開いている時、他人のまなざしを受け、その合図を読み取って培われてゆくものであるから、その言葉はどれもすっかり古びて澱んでいる。が、そうした言葉も、眼を閉じてひとり静かにおのれに向き合う時には、まるで宝玉の原石のような天然のかがやきに、とても鮮やかな、それでいてたいへん奥深い感動をおぼえることが少なからずある。あるいは解放された梦の世界の大空を行く自由自在不羈奔放な風のそよぎ、広野いちめんいのちの喜びと愛にあふれる花の調べといったものが感じられる時もある。それらの言葉は、眼を瞑っているのでなにも見えるわけではないが、きっと、滾々とわく創造の泉の水脈が緑の導火線をつたってつぎつぎ爆発し燃え咲いたうつくしい花炎であって、われわれはそれを直接の視覚に頼らないからこそより鮮明に、そのかがやきを、そのにおいを、うつりを、ひびきを、心から感じとれるのだ。

 それは、他人のまなざしにふれようものなら、忽ちにその熱線にやられ、風化し、形骸化するだろう。したがって、他人のまなざしのなかで無理にかたろうとするなら、「カッコ」つきの見た目の体裁を整えねばならず、それに相手との交易、世の中での流通に耐えることも必要だから、花は蝋でかたちづくり、そこににおいだけつけて、細工物の言葉を拵えあげる。見た目とにおいさえあればりっぱな花だ、れっきとした言葉だ、と言わんばかりだ。蝋細工の言葉は、創造の泉の水脈とは無縁だ。時を選ばずいくらでもつくることができる。また、誰がつくってもおなじだ。総じて安っぽく、型ばっかりはまって、見せかけだけで実がない。それでも、においだけはついているから、そんなものでもひとは酔うことができる。ともかくつくりものだから、幻想でおぎなわなければ本来言葉にそなわるはずの力が見えてこないのだ。それだけでなく、かたられる「言葉」には、かたるにともなう響きが、そうした酔いや幻想を増幅する作用をおこなう。「言葉」の網目は、われわれをおきざりにしながらいよいよ増殖する一方となり、おのれは網目の穴に埋没する。

 この網目がますます隙なく細かく世界をおおいつくし、われわれの手足を縛り胸も締めつけて自由な呼吸を奪う前に――われわれは知っている、わらいによって網目の関節をはずし、あるいは溶融してばらばらにできることを、また、天を志向して垂直的に弥高くきずかれるアルスによって、水平的な「言葉」の網目が切り裂かれ、おおきな風穴があけられるのを、よく知っている。だが、そう力まずとも、ただ眼を瞑り、静かにおのれに向きあうだけでよい。いくら眼を瞑ったからといって純粋な静寂を得るものではないから、そうそう珠玉にも似た言葉の花が咲き匂ってくれるわけはないが、自ら視覚を絶ってともに他人のまなざしにもわずらわされない境地に遊ぶだけでも効用が十分あるというものだ。

 そうこう言っているうちにこれはいよいよねむくなってきた。吾輩は顔を懐にうずめながら全身を丸くした。ねむる時はこの姿勢にかぎる。人間は仰向いて大の字になって――尤も、ギリシアではそういう言い方はしないが――ねるのを得意げにしているが、吾輩から見れば干乾しになった蜥蜴か蛙のようで、なんともぶざまな印象を禁じ得ない。折角ゆっくりねむるのだ、母の子宮にいた時にかえって、あるいはもっと昔たまごに溯って、誕生以前の太平楽を味わってみるのが最上等ではないか。そこでは雄も雌も、魚もけものも、王も乞食も、一切の区別、対立がない、総て液状に溶けあい、その球体のなかを循環する。始まりも終わりも、天も地も、神も悪魔も……死ぬ時は、日月を切り落とし、天地を粉韲して不可思議の太平に入ると言うが、それでは話が終わる。第一、猫は九生を賜っているから、そのたんびに九泉にかえっていたら百にあまること幾重も地の底をめぐらねばならぬ。それよりも頭を足につけ、たまご宇宙をかたどってそのうちに籠もれば、生まれる前にかえって、楽にその境地を得るのである。尤も、この芸当は人間にはむつかしかろう。まあ、人間諸君はかえって苦行するほうがありがたい心持ちになるのだそうだから、精々ヨガでもするか座禅でも組んでおじゃれ。吾輩はねむる。ねむって胎児の平安に憩う。吾輩がねむりの世界にひっこむのと入れ替えに、隠れ處よりあらわれガサゴソ活動を開始するネズミどもがいるだろう。一つの歴史が終われば別の歴史が始まる。それが世のならい、勝手にさせておくさ。吾輩が目覚めれば、今度はかれらが眼を閉じるというわけだ。なんともありがたくできあがっているものだ。まことに安心、安心。では、おやすみ、諸君。引き続きネズミどもの他愛のないおしゃべりにつきあってやるのも御心のまま、どうぞ御随意に。



―終わり―


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