悪役の美学
世界が色を失う瞬間を知った。
自分が築き上げてきたもの全てが無意味だったと、目の前に突き付けられた瞬間だった。
その少女は私よりもふたつ年下で、長い黒髪に黒に近い茶眼をした愛らしい子犬の様な子だった。
異世界から墜ちてきた少女―――ユキ・サワタリは、その小柄な体からは予想もつかない強大な魔力を持っており、教師役として国王陛下から魔法指南を命じられた私は、内心面倒に思いながらも彼女に初級魔法を教える事となった。
そしてその初日に私は思い知ることとなる。努力ではけして越えられない壁があることを。神に愛される存在の理不尽さを。そして私の全てをかけてきた夢が叶わずに終わることを。
異世界の少女が放った初級の火魔法は、ひとつの泉を干上がらせた。
彼女の唱えた癒しの魔法は欠損した手足を再生させた。
彼女が出した初級の守備の魔法は、私の全力を出した上級魔法を軽く防いだ。
私はその日のうちに、教師役を辞任した。
私の存在など無くてもあの少女は勝手に強くなるだろう。現にコツを教えてしまえば、後は自力で固有魔法さえも作り出していたのだから。
教師役を辞任し、それからのことはあまり覚えていない。あまりのショックに記憶が飛んでいるのだと思う。
睡眠時間も食事の時間もお風呂の時間も。全てを削って努力したとしても、神に愛されし本物の天才の足元にも及ばないのだ。
その事実がそれまでの私の存在を嘲笑いながら突き崩し、そして夢までも奪って行った。
幼馴染みで婚約者でもある、カーゼナン・ルスリアとの約束を。
それはカーゼナンが神剣の、私が神杖の継承者となり共に百年に一度復活する闇魔の王を打ち倒そうと言う誓いだった。
「アレイシア、君は僕の事が好きかい?」
「もちろんですわ、カーゼナン様。わたくし、お父様から伺いました。わたくし達の婚約が正式に整ったと」
8歳の誕生日に初めて対面したカーゼナンは、2年後には許嫁ではなく婚約者となっていた。
私は初めて会った時から彼の事が好きだった。見目のよさはもちろん、7歳まで平民の子供として育った彼は他の同じ年頃の少年達に比べてとてもキラキラとしており、私の知らない世界の話をたくさんしてくれる、私にとって間違いなく英雄だった。
同い歳だった私とゼナンは12歳になると適性試験を受けて学園へと通うことになった。
私は高い魔法の適性があり、ゼナンはその試験で『継承者』の適性を得たのだ。
神剣を扱う者の適性は、高い魔力と神剣を扱うに足りうる身体能力が必要なのだ。
両方がずば抜けていたゼナンは、その時点で唯一の継承者として認定された。
神杖の継承者は候補者だけが絞り込まれた。高い魔力を有していた私はその候補者の中に選ばれたのだ。
神杖の継承者の適性は只ひたすらに高い魔力。神剣の継承者の補助をして回復するための、たくさんの魔力量を問われるのだ。
「僕もアレイシアが好きだよ。やっと正式な婚約者になれたのに、ここにきて神剣の継承者に選ばれるなんてね……。よく聴いて、シア。僕と結婚したいのなら君も継承者に選ばれなければならない。でないと君は卒業と同時に違う男と結婚させられてしまう」
「わたくしはゼナン以外の殿方とは結婚したくはない!」
「僕もだよ、シア。だから必ず継承者に選ばれてほしい。大丈夫、君の一族は代々継承者を輩出してきた家系だ。君自身の能力も高い。このままいけば、間違いなく選ばれるはずだよ」
そう誇らしげに頷いてくれたのはゼナンだったのに。
その笑顔に誰よりも勇気付けられて頑張ってきたのに。
―――その約束はあっさりと裏切られてしまった。
卒業間近になっても、神杖の継承者は内定しなかった。私と後二人候補者がいて、結局魔力の器の成長が止まる20歳まで決定は先送りにされた。
けれど20歳を迎える前に事態は動いた。闇魔の王が百年の眠りから目覚め、災厄を振り撒くようになったのだ。
そしてさらにユキ・サワタリがこの世界に墜ちてきたのだ。彼女はまるで狙ったかのように、王城の庭に現れたらしい。さらに彼女を見付けたのが私の婚約者であり、神剣の継承者でもあったカーゼナンだったのは神々の思惑を感じずにはいられない。
私にとって彼女の存在は闇魔の王よりも理不尽で恐ろしく、絶望そのものだった。
血の滲むような努力を、私が賭けてきた時間の全てを嘲笑う、神から与えられたと言う『チート』とかいう能力。
彼女が現れてから夜熟睡することがなくなった。何度も何度も同じ夢を見て飛び起きるのだ。
神剣を持つゼナンの隣で、神杖を持ち微笑み寄り添うユキ・サワタリの姿を。そして、彼女に跪き愛を囁く婚約者の姿を、何度も繰り返し夢を見た。
けれどそれが只の悪夢では終わらないことを私は何となく感じ取り、少しずつ諦めを胸に抱くようになっていったと思う。
そして王家主催の夜会が開かれた日に、その発表はなされた。
異世界からの客人であるユキ・サワタリを神杖の継承者と認め、闇魔の王討伐隊に編入させ、それにより彼女には『聖女』の称号を与える―――。
私は会場の端からその様子を見ていた。
神殿から持ち出された神杖は白い鉱石で出来ており、翠の輝石がたゆたうような光を放っていた。大きさはちょうど少女の背丈ほどで、神剣と見比べれば一対になっているのがよくわかる。
壇上の二人が微笑み合う様を見詰めながら、それでも私が立っていられたのは最後の拠り所があったからだ。
神杖の継承者にはなれなくても、まだカーゼナンの婚約者という立場が残っていたから。
だから私は崩れることなく二人の継承者に、奥歯をきつく噛みながらも拍手を送ることができたのだ。
けれどそれも、泡のごとく儚い拠り所であったと、この後すぐに思い知らされる事となる。
今思えば。前兆はあったのだ。
ゼナンは神剣を早くから手にして何度も実戦を繰り返していた。最初は弱い魔物を倒し、どんどん魔物が強くなるにつれて私への苛立ちを見せるようになった。
遠回しに継承者への道を断念するように言ってきたり、実力不足を軽く責めてきたり。その度に私はさらに努力をしたけれど、なぜかさらにゼナンの態度は硬化していった。
そしてユキ・サワタリが現れてからだいぶ日が経ったある日、はっきりと言われたのだ。
「シア。私は君に神杖の継承者になってほしくない。候補から外れてほしい」
それが最終通告だったのだろう、この言葉を言われた三日後に夜会が開かれそこで神杖の継承者が発表された。
なけなしの、最後の伯爵令嬢としてのプライドをかき集め、二人に祝福と前途が明るくあるようにとの祈りを伝えるため、庭園で二人の姿を探していてそこで見てしまったのだ。
月明かりの下、佇むユキ・サワタリの前に跪き、その指先に敬愛のキスを贈るゼナンの姿を。
呆然と見守る中、彼がゆっくりと顔を上げて少女に笑みを見せた。ゾッとするほど綺麗で見惚れずにはいられない笑顔だった。
「ユキ、私の半身よ。どうか共に闇魔の王と戦い、この世に安寧と平和を取り戻してほしい」
「当たり前じゃない、ゼナン。私、貴方と一緒なら何処へだって着いていくわ。その代わり……私を守ってくれる?」
「それこそ当たり前だよ。何があろうともどんな敵が出てこようとも、君のことは必ず守る。だから私に着いてきてくれ」
毒々しいまでに甘い笑みを浮かべてゼナンは再び指先に唇を落とす。それを不服そうに異世界の少女は見下ろした。
「……いつも指先なのね」
「……君の世界では指先にしないのかい?」
「しないわよ。キスと言えばほっぺとか、その、唇に……」
私は鳥肌がたちそうな嫌悪感に一歩後退した。
そんな私の目の前でゼナンが立ち上がり少女の肩に手を置いたのがわかった。
「君のいた世界ではそれが当たり前かもしれないが、ここではそれははしたないことなんだよ? 婚前は指先のキスがここでの常識だ」
「えー、なにそれ、つまんない。ハグも駄目なの?」
「……そうだ。わかってくれないか? 君が大事だから君を大切にしたいんだ」
ズタズタに引き裂かれた心の欠片を抱き締めながら、その場を離れて共に来ていた父と家へ戻った。
その日から、私は家の自室に閉じ籠ったまま日々を過ごした。何度かゼナンが訪ねてきたらしいが、私自身が人に会える状態ではなかったため追い返されたらしい。
時折様子を見に来た兄が教えてくれた。たくさんの見舞いの品と花束を預かって。
私はベッドの中からそれらをぼんやりと眺めながらなぜだろうと考えた。
私は只の性欲解消の相手だったのだろうに。最後の一線は守ってくれたけど、ゼナンが私に触れなかった場所はない。そして彼の手と舌で快楽を教え込まれたし、私も体を使って彼を高みへと何度も導いたのだ。
『君が大事だから君を大切にしたいんだ』
涙が止まらない。
私の身も心もボロボロだった。
初めての挫折を味わい夢を砕かれ愛を奪われた。ただ一人の少女に。私はあろうことか、神を呪い己の愚かさが許せず何度も自死しようとした。
沼の底を這うような日々を閉めきった部屋で過ごすうちにその報せはきた。一週間後、闇魔の王討伐隊が王都を発つと。その瞬間、私の脳裏に甦ったのはあの日の二人だった。
光と祝福に満たされた宗教画のような二人。未来を約束されたあの二人が光ならば、きっと私は影なのだろう。
そう、理解した瞬間―――私の中に僅かに燻っていた最後のプライドが定まった。
「なぜ、こんなことをしたんだ、シア」
抑え込んでいるのは愛する者を傷付けられた怒りだろうか、それとも婚約者への憐憫の情だろうか。
私はクスッと笑い顔をあげようとしてけれど、衛兵によって警棒で肩を叩かれた。
「止めろ! 彼女に手を出すな!!」
こんな時まで優しくしようとする婚約者に、俯いた顔を僅かに歪めた。
「なぜ、ですって? 決まっているではありませんか、カーゼナン様。神杖の継承者はわたくしですのよ? どこぞの馬の骨とも知れない小娘に奪われそうになったのです、正統な持ち主であるわたくしが盗人を罰しようとするのは当たり前ではありませんか」
何を馬鹿なことを、と言わんばかりの声音で主張する。
ここでぶれては駄目だ。
私は二人が輝くための影ならば悪役に徹しなければならない。最後に悪役らしく二人の間に少しでも歪みを遺すのだ。
それが、私が見付けたのが最後のプライド。
「だからと言って毒を混入させるなど―――! ユキに万が一の事があればどうするつもりだ! 最悪君が討伐隊に駆り出されるのだぞ!」
「あら、その方が貴方にとってはよかったのではなくて? 大事で大切な半身でしょう? ああ、そうだわ。何もユキ・サワタリがわざわざ討伐隊に入る必要はないのよ、わたくしが継承者になれば、大事で大切なあの娘を安全な王都に置いておけてよ? わたくしならば、喪ったところで惜しくはないでしょう。それともあれかしら、たとえ危険な旅だとわかっていても側から離したくはないのかしら?」
少しだけ頑張って身を起こせば、青い顔で強張った表情のゼナンが見えた。
―――ああ、こんな時だと言うのに。なんて素敵な方なんだろう。私が彼の隣に並べたのはそれだけでも幸福なことなのかもしれない。
「なぜ――そのセリフを……」
「ねえ、カーゼナン様? わたくし、貴方に伝えたいことがございますの。わたくしの、今まで誰にも語らなかった本心を、聞いてくださいます?」
私にもこんな甘い声が出せたんだな、と冷静な部分が囁いた。
返事が無いことを了承ととらえて私は話し出す。
「わたくしの幼い頃からの夢は神杖の継承者になることでした。両親からも期待され、友人たちからも応援を受け、婚約者からは誇らしいとまで言われました。皆の期待に答えるために、神杖の継承者になるためだけにわたくしの十代はあったのです。けれど、その全てをなんの努力もしていない小娘に、片手間に奪われたのです。この悔しさが、この怨みが、この絶望が貴方にわかりまして?」
私はさらに身を起こした。肩に食い込む警棒の感触に涙が滲む。けれどここでは泣かない。ただ強く真っ直ぐに愛しい人を見詰める。
「わたくしはあの小娘が嫌いです。けれどそれ以上に許せないのは貴方ですわ、カーゼナン様。わたくしは貴方の事が―――大っ嫌いでしたのよ」
負の感情の全てを込めて、全てを叩き付けた。
夢を砕かれた怒りも愛を奪われた怒りも。さらに絶望も嫉妬も怨みも全部。
けれど一番大きかった感情は―――悲しみだろう。
折れそうになる心を必死に保ちゼナンを睨み付けていた私は、そこで意識を失ってしまった。約2週間、ほとんど飲まず食わずでいたのに、こんな大芝居を打ったのだ。
体力が持たなかったのだろう。
見苦しいほどに痩せ細った体に顔色の悪さを誤魔化すような濃い化粧は、まさしく悪役に相応しかっただろうと満足する。
次に目覚めた時、討伐隊は発った後だった。
「なぜこんなことをしたんだ」
「申し訳ありませんでした」
「なぜ、カーゼナン殿を信じなかった」
「……他の女性の手を取って、君が大事なんだと言う方の、何を信じろと言うのでしょう、お父様」
疲れたような父の姿に涙が出た。
「……それなら、せめて私達に相談してくれていたら」
「ごめん、なさい」
深い溜め息を吐いた父の手を取り、その甲に額を当てた。悪役に徹したことに後悔はない。けれどそれが原因で家族に迷惑をかけると思うと、申し訳なさで居たたまれなかった。
「お前が寝ている間に、陛下から沙汰があった。今回は未遂だった事と、カーゼナン殿が必死に取りなしてくれたことで一週間の謹慎と罰金で済んだが。―――アレイシア、これからどうするつもりだ? 王都にはもう、居られまい」
「ごめんなさい、お父様。わたくしのせいで家族に迷惑を……!」
「いや、もういい。アレイシア、お前が謝ったところで何も変わらないよ。それに、私達も悪かった。お前の負担に気付かなかったんだからな」
本人には何の罪も無くても、家族の誰かが問題を起こせばそれは家族の汚点になるのだ。
その事がよくわかっていた私は弱く微笑んだ。
汚点を本人だけのものとし、家族を守る方法がひとつだけある。
「わたくし、神殿に参ります」
あれから半年が経った。
神殿にいると世情に疎くなるせいか、闇魔の王討伐が終わったのかどうかもわからなかったが、神殿入りして一カ月経った頃、神剣と神杖が神殿に戻ってきたので無事に討伐出来たのだと思う。
私は出家し巫女になると、ここでもやはり魔力の高さを買われ特別な仕事を任されることになった。
それは神剣と神杖の世話役だ。
あれほど輝いていた神剣と神杖が、戻ってきた時にはただの石の塊になっていたのだ。これには驚いた。
巫女長の話によると、闇魔の王を討伐する際に魔力を使いきってしまうと、このように石に変わってしまうらしい。
これから毎日この石を魔力で磨き元の姿に戻すのが私の役目なのだそうだ。
「貴女は魔力が多いから、おそらく元の常態に戻すのに30年はかからないでしょう」
そうにこやかに言われた時には、思わず頬がひきつってしまった。
私はここで生きていくのだ。毎日決まった時間に起き、決まった仕事をし、質素な食事に感謝しながら、神に祈るために生きていく。
そう思っていたのに。
「……どうして、貴方がここに居るの?」
炎の中で彼が笑う。
半年暮らした私の終生の住みかとなるはずだった神殿が。
炎に飲まれて崩れていく。
「どうしてって。迎えに来たんじゃないか、シア」
ゼナンがゆったりとした足取りで歩いてくる。その瞳が映し出すのは明らかな喜びだ。
「まさか、神殿に居るとはね。神なんぞにくれてやるかと頑張って来たのに、なぜ自分から神の元へ来たんだい? シア。ああ、いや。みなまで言わなくてもわかるよ。寂しかったんだね? 君を守るためにはあの女を利用するのが一番簡単だったんだよ。さあ、おいで。もう全ては終わったんだ。これからはずっと一緒だよ」