とある執事の回想
影となり、忘れていたものがたくさんあることに気づかされたのが、彼との出会いだった。
雨音が聞こえる夜更け、ふとジャックは思い出す。
今日の仕事は終わり、早めにオーランドの屋敷にある侍従の部屋に戻って、窓から見える闇と雨を眺めていた――。
「おい。そんなところで寝ていると、くたばるぞ」
声変わりしたての不安定な幼い掠れ声。
とある雨の日、仕事でやらかして、根城に帰る気力すらなくして道端に倒れてい男を、黒い傘を差した十代前半、いや、十二、三歳ぐらいの子供が覗き込んでいた。体を起こすのもおっくうで視線だけ向けた男が、すっと目を細めた。
子供ながら壊滅的に目つきが悪くまったくかわいげがない茶髪の背の高い、黒いコートをまとった少年。
オーランドだった。
ちょうど、十三年前。
まだ、オーランドは軍学校に入らずに体裁を気にした父につけられた家庭教師の相手をしながら、カレンと会い、そこら辺を闊歩していた。
「おい」
返事をしない赤茶けた髪の若い男を泥のはねた革靴の爪先でつついて覗き込み、痛みにピクリと震えた体にひどくめんどくさそうにため息をつくと傘をぽい、と捨てて、品のいいコートを雨ざらしにして、うつ伏せていた、成人男性の体を仰向かせた。
「……失血がひどいな。体温の低下もある。切創が三か所。深い」
そうつぶやきながら手際よく傷の状態を診ては持っていたらしいカバンの中身でできる手当てを行って、最後に男を背負い始めた。
「……ガキ」
「なんだ。死んでなかったのか」
さすがに声をかけるとそんな残念そうな声が聞こえて男は文句を言おうとした声を失った。
「そこまで後ろ暗い奴じゃなさそうだから別邸に連れてってやる。そこで生きるも死ぬもお前の勝手だ」
成長仕掛けの若木のようにひょろりと長い手足で重たそうに男を背負って、ゆっくりと歩いて行く。
「いい。歩く」
「立てるのか?」
「ほうっといてくれ」
「屋敷の土地で怪しい奴が死んでちゃ家名に関わるから手当てしてやったんだ。死にてえならよそで死ね」
そう憎まれ口をたたきながらも、重たかったらしく素直に男を下したオーランドは、体を折りながらも立った男を支えるように背中に腕を回した。
「あんた。名は?」
彼が、当たり前のようにそういうのに、男は雨に打たれ痛む傷に顔をしかめ、息を呑む。
「おい。死んでないなら答えられるだろう。名はなんという?」
「……ジャック」
彼に聞かれるまで、忘れていた、親につけられた名がかすれた声に紡がれたのを、ジャックは他人事のように聞いていた。
「平凡な名前だな」
「どうせただの庶民だ。名付けてもらっただけ。ありがたいと思わねばならん」
肩をすくめ、傷の痛みに息をつめ、そして、くらりと揺れる視界にたたらを踏む。
「そこを曲がってすぐにある。もう少しの辛抱だ」
意外に真摯な声で励ますようにいうオーランドにうなずいて、本当にすぐそこにあった小さな別邸の玄関に足を踏み入れた瞬間に、ジャックの意識はぷつりととぎれた。