そして、執事は暗躍す。
人々が寝静まった夜の街。疾駆する二つの影があった。
「っく」
足元を時折狙う針と、肉薄する気配。
「チェックメイト」
ぽつりとした声に振り向いた、その瞬間だった。
追われていた影の体はふわりと投げ飛ばされて、次に気がついた瞬間には石畳の地面に背中から叩きつけられていた。
「っぐ」
したたか打った背中と、頭と、全身の痛みに、影の意識はぶつ、と音を立てるようにして消えた。
そして、起きた時には、どこかの地下にしばりつけられていた。
「やあ、気が付きましたか?」
暗鬱なこの場には似つかわしくない快活な声に目だけでその声の主を見た彼は、目を見開いた。
「お……まえは……っ!」
赤茶色の髪を清潔感があるように切り整え、執事服を身にまとって柔和に笑う、三十代ぐらいの男。
「まさか、あなたが生き残っていたなんてね」
うっすらと笑って、執事服のポケットから何かを抜いたようだった。だが、それは目に見えない。
「これを隠し持つなんて、また、悪趣味だこと」
そういって彼は、ジャックはこつこつと足音を立てて縛り拘束した男の目の前に立った。
「おい、待て。話そう。俺の主はかなりはぶりがいい。あんたが味方につけば……っ!」
「あいにく、主には困っていない」
ぴしゃりと跳ねのけて手に持った何かをふるって肩口に突き刺した。
「ぐあっ」
のけぞる男に目を細めて、そのまま貫通させたジャックがすぐにその刃を抜いた。
血に濡れた刃の部分だけが赤く浮き上がっているのが不気味だった。
「切れ味は良いみたいですね。道具を大事にするのは良い心掛けです」
「あんた、……っく、死んだはずじゃっ」
痛みにのどをひきつらせて、そういう男に、ジャックは奇妙に優しげな顔をして刃の背の部分で男の顎を上げさせた。
「影なんだから死ぬも死なないもあるわけないじゃないですか。姿は消しましたが、それは影として当然のことだと思いますよ」
のどを皮膚一枚切ってもう一度、同じところをひっかいていく。
「痛い!」
「あなたがよくやっていたことでしょう? どんな気分ですか? 自分でもこうされる気分は」
「くそったれ!」
唾を吐きかける男にジャックは汚れてしまった執事服に表情をゆがめた。
「あーあ。なんてことしてくれちゃってんですか。このまま仕事にいけないじゃないですか」
「仕事だと!?」
「ええ。昼の仕事をしてから、今日はあなたの主のところにお邪魔しに行っちゃいます。ああ、そうじゃなくても、今日のお昼に軍部のほうに、あなたの主さんは連れていかれていってしまいますから、無駄ですね。勧誘も」
くつくつと笑いながら、ジャックはひらりと刃を持った手を翻した。逆手に持ってそのまま薙ぎ払えば仕事は完了する。
「やめ、やめてくれ! 頼む!」
「貴方が、バルシュテイン伯爵の持ち物に手を出したとき、この運命は決まった。運が悪かったと地獄で後悔するように」
「貴様、今……っ」
「では、ごきげんよう」
何かを言いかけた彼の喉をためらいなく真一文字に薙いで、血しぶきを浴びる前に後ろに退避する。
「始末しました」
そして、誰ともなくつぶやくと、部屋の隅に複数の黒づくめの男たちが現れた。
「さすが、一線を退いたとはいえ、見事な腕前です。ルトレット」
「隠居だなんて、結構な呼び方をしてくれますね」
「違いないじゃないですか」
力なく天井を光を失った目で見上げる死体を前に軽い応酬をして、ジャックはそっとため息をついた。
「では、後の始末よろしくお願いします。ああ、これでなにか食べてくださいね」
「いいんですかい?」
「隠居からのお小遣いです」
そうやって先輩にもらっていたことを思い出しながらポケットにある小袋を渡して、鞘にしまった見えないナイフを渡す。
「これは危険なものですからね。……魔視が必要です」
「魔視をすれば見える」
「ええ。……これを扱っていたのは俺と、あと、彼だけでした。言い伝えではもうひと振りあるはずですが、それは……」
「見つけられていないんですか?」
「手を尽くしたのですがね。……そこら辺はあなたの主のほうがお詳しいでしょう。さすが、ラルム、いえ、ノエル公の遺産だ。いつになっても切れ味は落ちない」
「……今もお持ちになっているのですか?」
「……ええ。そこらへんもあなたの主に判断をお願いしますよ。返納せよというのであれば、お返しいたします。しかし、若干俺に合わせて魔術をいじくったので、そこらへんをどうにかできるのであれば」
「いじくった?」
「落としても鞘に帰ってくるように縁を結びました」
ほら、落としても気づかないじゃないですか、と笑ったジャックに若干呆れた顔をした、現役の影の一人は主に伝えておきます。とだけ言って、小袋と、始末した男が持っていた見えない魔法の短剣を受け取ってしっかりとカバンにしまった。
そして、用意されていた馬車に乗って、着替えをした、ジャックは、ひっそりとオーランドの屋敷に戻った。まだ、夜明け前。それなのに、オーランドの書斎の明かりはついていた。
また、徹夜でもしているのか、とため息をついて、夜食を差し入れがてら報告を持っていく。
「旦那様?」
部屋に入りこんで、かりかりとつまらなそうにサインを書いているオーランドの傍らに差し入れのつまめるものを置いて、正面に立つ。
「やってきたか」
「ええ。抜かりなく」
「そうか。ご苦労」
目を合わせずにそういうオーランドにジャックは一礼してその場を立ち去ろうとした。その背に、オーランドは声をかけていた。
「お前はどうする?」
「どうするとは?」
間髪入れない返事に、オーランドが驚いたようだった。
いずれ問いかけられるだろうと、思っていたことだった。
「シャナの輿入れの件だ。どこに嫁ぐかは、お前、正確に理解しているだろ」
そこでようやくペンを置いて肩に入った力を抜くように伸びをしたオーランドが、傍らに置いてあった酒を飲んで、ジャックが持ってきたつまみをほおばる。
「ええ。そうですね。この屋敷では、誰よりも理解しているつもりです」
「そのうえで聞く。俺のそばにいるか、シャナのそばにいるか」
静かな声に、ジャックはうっすらと笑った。
「今の主は優しいですね」
「俺が優しいと?」
「命令をすればいいじゃないですか。シャナを守れと」
「しても意味がない」
静かな声に、ジャックがそっとため息をついた。
「そういうところ、貴方は本当に人を見る方だ」
「ほとんど一生付き合わせるんだ。当たり前だろう」
そういったオーランドが、ジャックを見やる。
苦笑をかみ殺した顔をしている彼に、オーランドはふっと笑ってうなずいた。
「行きたいなら行って来い。引き継ぎはキチンとしてな」
「当たり前です。……では」
「ああ」
部屋を辞したジャックは深くため息をついて、明けはじめた空を窓越しに見て、深くため息をつくと、通常の屋敷の仕事へと、戻るのだった。
いつも通りの、日常へと。
勉強会の準備がてら見直してたらそういえば、シャナをさらった影についてさっぱり触れてなかったことに気付いたんだ。うん。すっかり忘れてた←
その結果、万能執事ジャックさんがおいしく回収しました。