秘密の仲間
十月八日(火)
今日は、精神の授業で「気分が落ち込むこと」について学んだ。
動物との違い……理性こそが人間の特性であるってよく言われているけれど、その理性や思考が、感情や気分の影響を受けるのもまた事実で、そうなると、人間は同時に感情の生き物でもあると認めざるをえない。
何を契機に落ち込むかは、人にもよるだろう。失敗、失恋、孤立、死別とか。
共通点は、「何か自分にとって大切なものを失ったとき」だと思う。
あとは、そういう外的要因とは別に、内的要因も。
月経、マタニティーブルーズ、マンデイブルーズは内的要因。
他の人のことはわからないけれど、自分の落ち込むポイントがあらかじめわかっていたら、ある程度の自分の抑うつには対処できるかもしれない。
でも、僕らはまだ若い。
人格だって、まだ形成段階だ。
自分の価値観を決めるための判断材料が少なすぎるし、いろんなことがまだ経験不足で、落ち込んだ時の対処法どころか、自分の落ち込むポイント・地雷ですらまだ把握できていない。
抗議の中でそう発言したら、「大人だって、そんなことを正確に把握できている人は少ないよ」と先生に笑われた。
そうか、そういうものなんだ。
大人も案外身近な存在かもしれない。
ちょっと安心した。
十月九日(水)
先週はとても忙しかったけれど、今週は特に行事もないし気が楽だ。
今日は、久しぶりに図書館にこもって好きなだけ本を読み漁った。
この大学の図書館は、僕にとってまさに天国だ。
明日も行こう。
十月十日(木)
今日も図書館にこもっていた。
知らないことを知るのは本当に楽しい。
時間を忘れて読んでいたら、学食も売店の時間も終わってしまって、「おなかがすいて死にそうだ」ってエルトン君にこぼしたら、板チョコを差し出された。
嬉しいよりも先にびっくりして、咄嗟のことでろくなお礼もできなかった気がする。
普段の彼の行動から考えて、何か企んでいるんじゃないか、後で何か要求されたりしないかっていろいろ勘ぐったせいもある。
けれどエルトン君は、それからすぐに何も言わずに寝てしまったから、彼なりの優しさだったんだってようやく気付いた。
いろいろ疑って悪かったな。
明日、起きたらちゃんとお礼を言おう。
あんなにおいしいチョコレートは初めて食べた。
追記
そういえば、少し前にミシェルが、「相談したいことがある」って言っていたのを忘れていた。
いつでもいいって言われたけれど、そんなことを改めて言ってくるって、結構深刻なんじゃないのかな。
話ならいつでも教室でできるもの。
明日、図書館に行く前にミシェルに聞いてみよう。
十月十一日(金)
大変なことを聞いてしまった。
僕は、今日大変な秘密を知ってしまった。
これを日記に書く以上、僕は絶対にこの日記を誰にも見られてはいけないし、お墓に持っていくつもりで、心してこれを記す。
結論から書く。
・ミシェルは僕と同じ。僕と同じ立場でこの大学に入っていた。
・僕のこともばれていた。(ミシェルにだけ)
・ミシェルとニスのこと(これは後から書く)
こんな身近なところにいたのに、気付かないものなんだなぁ。
僕が言うのもおかしいけれど。
言われてみれば、ミシェルはとても可愛い。
男の子にしては、声も高いし背も低い。体格も華奢だ。
「驚かないで聞いてほしい」からミシェルの話は始まったけれど、驚かないでいることは、まず無理だった。
「僕は入学してすぐに、レトニーもそうなんじゃないかって、薄々感じていたよ。レトニーは僕のことには気付いていないんだろうなっていうのも、わかっていた」
ミシェルは先日の遊園地でも、もちろんレナさんが僕だと気付いていたのだとか。
これは、ただただ恥ずかしかった。
僕の周りには鈍い人が多いから、最近は僕も油断していたのかもしれない。
よりいっそう、気を引き締めなくちゃいけない。本気で。
もっとも、ミシェルは自分が鋭いわけではなくて、単に同じ立場だからかぎ分けることができただけ、とも言っていたけれど。
驚きと興奮が少し醒めてきたところで、僕は、改めて同じ仲間がこの大学にいたことに(しかもこんなに近くに、友達に)、大きな喜びと安堵を感じた。
僕もミシェルも、お互いみんなを騙しているという後ろめたさを抱えて過ごしているのは、二人とも同じだった。
「共犯者」と言うと心苦しいけれど、入学前から僕たちは悪いことをしているという事実を前に、ある意味でもう開き直るしかなかったので、だからこそ誰にも頼れない気持ちが何より大きかった。
……本当は、悪いことをしているなんて、あまり思っていないのかもしれない。
女を大学に入れてくれないことの方がおかしい。
現に、学力面では入学水準を上回ることができた。
それなのに、女だからという理由だけで大学に入ることができないなんて、世の中の方が間違っている。
そんな批判をしたところで、僕たちみたいなちっぽけな存在が、大きな波に逆らうことなんてできないから、表立っては何も言えない。
でも、だからといって大人しくもしていられなかった。それだけだ。
ミシェルの家は、代々学者の家系らしい。
ミシェルは一人っ子だから、学者の血が絶えるのを両親はとても嘆いていて、ミシェル自身もそんな風に運命が決まることが許せなくて、悔しくて、性別を偽ってでも大学で勉強する道を選んだ。
今は無理でも、遠くない将来に、きっと女でも学者になれる日が来ると信じている、と話していた。
そのときのために、今から勉強しておきたいと。
素直にすごいと思った。
僕には、将来の目標なんて何もない。
そうしたら、ミシェルがこう言ってくれた。
「勉強したい、知らないことをもっと知りたいって思うことが大事なんじゃない? 人生は、きっとずっと一生勉強だよ。誰でも本当はそうなのに、学ぶことを放棄してしまう人もたくさんいる。学問だけが勉強ではないのにね。学びたいと自発的に思えるレトニーは、すごく素敵だと思うよ」
なんだかくすぐったかったけれど、嬉しかった。
そんなことを誰かに言われたのは初めてだ。
ありがとうって言おうと思ったら、ミシェルは何やらもじもじし始めた。
「他にも話したいことがある」と言って。
今思えば、さっきまでの話は壮大な前振りで、本題はこっちの方だったわけだ。
ミシェルが、今まで見せたことのない女の子の顔になっていたのが、とても印象的だった。
「実は、ニスと……その、ひと悶着ありまして……」
やっと出た一言がそれだったから、僕は最初、やっぱり女の子だってばれちゃったのかな? って思った。
そうしたら、そうじゃなくて、もっと数段上の出来事だと知って、思わず声をあげて驚いてしまった。
ええと……。人のことだと率直に書きづらいな。
どうやらミシェルは、数日前にニスと「男女の行為」に及んだ、らしい。
最後まではしていない。
でも、もし次にそういう雰囲気になったら、自分を制することができるか、自信がない、とミシェルは泣きそうな顔で言った。
「レトニー、僕に喝を入れてくれないか。お前は何しにこの大学に来たんだ馬鹿って。勉学に励むためだろう。女だと蔑む連中の誰よりも立派な学者になって、理不尽な決め事を覆してやるんじゃなかったのかって。思いっきり、罵倒してくれないか」
僕は何も言えなかった。
ニスはミシェルのルームメイトだし、ミシェルの秘密を早い段階で気付いていた。
そして、そのことをミシェル自身にも伝えていたという。
ニスはいつも淡々として無表情だけれど、人にあまり干渉しない分、何にでも寛容な懐深いところがある。
ミシェルにも、秘密を口外する気はないと言ってくれたらしい。
ミシェルは一度、「女が学問をすることに対してどう思うか」をニスに聞いたという。
「男と女はそんなに違うのか? 少なくとも、学問をする上では全く関係ない要素だ」と、ニスはあのいつもの淡々とした感じで返したそうな。
ミシェルは、ニスのような考え方の男の人には、初めて出会ったと言っていた。
「そのときからニスのことが好きなのかも」とミシェルは言った。
それからは、ルームメイトなので、二人はすぐにお互いに仲良くなって、どちらからともなく、徐々にスキンシップをする機会が増えていって、結果、数日前にはそういうことになってしまったらしい。
「もしかしたら、僕の方が、ニスのことをすごく好きですっていう雰囲気を出していたのかもしれない。だめだ。こんなの、情けなさすぎて、もう両親にも顔向けできないよ。しかも、どこにも逃げ場所がないからって、レトニーを半ば無理やり懺悔の相手にして、こんなことに付き合わせている」
ミシェルは結局泣いてしまった。
どうしていいかわからなくて、混乱している様子だった。
僕は正直、心の中でミシェルのことを、「弱いなぁ」と思っていた。
でも、それと同じくらい、ミシェルの気持ちが痛いほどにわかって、なんだか自分もミシェルの立場になってしまったみたいで、気付いたらミシェルを抱きしめていた。
好きな人に触れたいと思うのは当たり前だ。
もし、相手も自分のことを好きでいてくれたのだとしたら、それを知ってしまったら、なおさら触れ合いたいと思うだろう。
その先のことなんて考えられなくて、ただ触れたい、もっと近づきたいという気持ちが溢れてくる感覚には、覚えがあった。
でも、衝動のまま行動してしまった後の結果は、大抵良くないことになるって、冷静になって考えたら簡単にわかることなんだ。
本当に、考えるまでもないこと。
人間は、理性と感情の生き物、なんだっけ。
とりあえず、本当に切羽詰ったときには、僕の部屋においでと言っておいた。
きっとエルトン君がぶつぶつ文句を言ってくるだろうけれど、そんなものは無視だ。
ミシェルにはすごく感謝されて、その後に、「エルトンと気まずくなった時も、お互い様だよ」って言われた。
う~ん。
ご厚意はありがたいけれど。
正直、二人のラブラブな空間に入り込む勇気は、ないな。
そうするくらいなら、いっそ先輩の部屋に……と考えて、自分で自分を叩いて、ミシェルにびっくりされた。
僕はどこまで馬鹿なんだ。
ミシェルと別れる前に、とんでもない爆弾発言をされた。
「二年の先輩にも、もしかしたら、僕らと同じかもしれない人がいるんだ。確定じゃないけれど、たぶん、八割がたお仲間だよ。今度見かけたら、こっそり教えるね」
腰が抜けそうになった。
もしかして。
探せば他にも、もっと出てきたり……するのか?




