お泊りの夜
九月二十七日(金)
今、僕はとても混乱している。
今日はもう寝よう。ひどく疲れた。
(今現在、二十八日の深夜になってしまった。自室にて)
九月二十八日(土)
やっとお休みだ。
さて、何から書こうか。
昨日も今日も、本当に長かった。
長い長い二日間だった。
いろいろなことがありすぎて、どう筆を運ぶべきか、僕は今考えあぐねている。
いや、前置きはいい。ただ、起こった事実とその時の僕の思いだけを、書き綴っていこう。
まだ気持ちの整理はちっとも出来ていないけれど、これでもだいぶ落ち着いてきた方だと思う。
書く前からかなり長くなることが予想される。
心してかかることにする。
昨日(二十七日)、僕はエルトン君から避難するために、夕方からアシュレイ先輩の部屋にお邪魔した。
先輩は、たまたま授業が早く終わったみたいで、自室で僕を待ってくれていた。
先輩の部屋は、綺麗に教科書や家具が整理整頓されていて、さらに、甘いうっとりするような良い香りもした。
いつものように、おいしいお茶とお菓子を出してくれて、他愛もないお喋りをした。
先輩が専攻している研究の論文も見せてもらった。
僕には難しくてよくわからなかったけれど、先輩は用語の意味や切り口の論法など、僕にもわかるように丁寧に教えてくれて、本当に良い人だなあと思った。
優しくて頼りがいのある先輩のことが、本当に好きだなって、その時すごく実感した。
たぶん、このときの僕は、すごくドキドキしてた。
自分の気持ちを先輩に悟られたくなくて、だからわざと茶化すような感じで話していたと思う。
先輩はすごい。優しくてかっこいいし、頭も良いし、卒業したら女の子がほっとかないでしょうねって、あくまで冗談っぽく言ってみた。
先輩は照れくさそうに笑っていた。
先輩の笑顔は、百万個の宝石よりも価値がある。
先輩が好きだと思った。
父さんと母さんも好きだ。テリー君やニスとミシェルも好き。アップルパイも、ミルクティーも。
でも、先輩を好きな気持ちとは、どれも全部違うと思った。
「俺は君が思っているほど良いやつじゃないし、完璧な人間でもない。本当の俺は、もっと弱くて狡くて利己的なんだよ」
先輩がそう言ったのを覚えている。
あとは、なんだったかな。
「人に簡単に心を許しちゃいけない」「もっと疑った方がいい」「レトニーは、人の善意にも悪意にも素直に反応しすぎる」とか、いろいろ諭された気がする。
忠告は素直に受け止めるべきだなと思って、とりあえずお礼を言ったら、先輩はもう一度苦笑して、僕の頭を撫でた。
そして、僕の前髪を分けて、おでこにキス……をした。
先輩は、「困ったな……」って言った。
先輩の目は、本当に「困った」って感じだった。
僕は、「それはこっちの台詞だ」と思ったけれど、顔が熱くなって俯くしか出来なかった。
今思い返しても恥ずかしい。
こんなことを思い出して淡々と日記を書いている自分も、なんだか余計に恥ずかしい。
予感はとっくに出来ていた。
それなのに、あえて僕は動かなかったんだ。
先輩が、再び僕にキスをした。
今度は、おでこじゃなかった。
一度僕の顔を見て、僕と先輩の目が合って、僕が俯くと、今度は少し挑戦的に先輩が僕の顔を覗き込んできて、さらに、二回目。
それからは、もう何回キスをされたのか良く覚えていないけれど、全部優しかったことだけは記憶している。
なんせ、僕もこの時はいっぱいいっぱいだった。
ただ、恥ずかしくて仕方なかったけれど、今までのどんなことよりも、気持ちの良い行為だったのはたしかだ。
頭の芯から溶けていくような、麻薬めいた感覚で怖いとさえ思ったのに、この感覚に身をゆだねてずっと溺れていたいっていう矛盾。
自室に帰ったら、早急にこの快楽の原理を追求したい、なんて妙に真面目なことを考えた。
先輩が、「怖かったかい?」と聞いてきたので、正直に頷いたけれど、「でも、大丈夫です」とも言った。
そうしたら、先輩が抱きしめてきて、僕の耳元で「今日は泊まるんだよね? それでも大丈夫?」と言ってきたので、さすがに僕も全肯定するわけにもいかなくなった。
そこで、僕は初めて気付いた。
先輩は、僕を男だと思っているはずなのに、僕にキスをした……ということに。
「やっぱり気持ち悪い? 男にこんなことをされて」
先輩が少し悲しそうに言ったので、僕は慌てて否定した。
まったくそんな風には思っていなかった。
先輩が、思った通りの優しい人だってことがわかったから、嬉しかったと伝えた。
これは本心からそう思ったからだ。こんなに他人を優しく抱きしめることのできる人だったんだって。
それが、今思えば良くなかったのかもしれない。
先輩の変なスイッチが入っちゃったみたいで、またキスをされた。今度は、前よりも少し、激しかった。
そのまま、なし崩しにベッドに押し倒された。
びっくりして抵抗したけれど、その度に唇や頬や耳、首筋にキスをされて、僕は馬鹿みたいに全身の力が抜けてしまった。
本当に、あの時の自分は馬鹿だった。
自分がこんなにも、流されやすい人間だったなんて。
何度でも言おう。僕は大馬鹿者だ。
先輩に可愛がられて、惚けていた。
酔っ払いみたいに、夢見心地だったんだから。
先輩が、僕の胸を触って、ものすごく驚かれるまでは。
先輩のぎょっとした反応に気付いて、僕は慌ててベッドから飛び退いた。
天国から、一気に現実へ。
もう寝るだけだと油断して、さらしで押さえつけてくるのをすっかり忘れていた。
全然大きくはないけれど、これで男ですと言うには割と無理がある程度の、僕の胸。
先輩から胸のことを指摘されて、僕はしどろもどろになった。
どう言い訳を考えても、破滅の道しか思い浮かばない。
そう。そんな時に、彼が来たんだった。
こんな絶好の(?)タイミングで。
「レトニーから離れろ、この変態野郎」
そう言って、エルトン君は颯爽と現れた。(いつから部屋に居たのかはわからない)
彼が先輩の部屋で喚き散らしたことを要約すると。
・先輩のルームメイトが、今日実習で留守にしているというのは嘘。先輩が今夜僕と二人きりになるために、レポート一個で買収して、ルームメイトを実家に帰省させていた。
・その手口は、もともと先輩の常套手段。
・先輩は優しい振りをして、自分好みの後輩や同級生を攻略しては、次々に食い荒らす男色家。
・この部屋に漂う甘い香りは、先輩が研究している催淫剤の一種。
などなど。
僕はまさか、と思った。
先輩も「誤解だ」と言っていた。
それでも、エルトン君だけが何故か圧倒的自信を振りかざして、鼻を鳴らしていた。
うろたえる先輩。ふんぞり返るエルトン君。
僕はエルトン君の言ったことなんて信じたくなかったけれど、真っ向から彼に言い返さない(言い返せない?)先輩に、少しずつ不信感を持った。
エルトン君が、この時先輩に向かって言った言葉。
「レトニーを脅そうとしても無駄だ。そっちがそう出るなら、今までお前が醜い恋愛絡みで起こした公になっていない問題を、引き合いに出すまでだ」
そこで先輩の顔色が変わった。
先輩にまだ話したいことがたくさんあったのに、エルトン君が僕を引きずって、強制退去。
結局、僕らの部屋に連れ戻されてしまった。
部屋に戻ってから、エルトン君は急激に不機嫌になった。
きっと、僕がエルトン君にお礼も言わずに、ずっと先輩のことを気にかけたり、エルトン君を非難したりしたからだ。
「あんな情報どこで仕入れたの? 本当のことなの? もし間違っていたら、洒落にならないくらい先輩を侮辱したことになるんだよ」とか、今考えると、結構ひどいことを言ったかもしれない。
仮にもエルトン君は、僕のことを助けてくれたのに。
ここは、自分でも猛省するべきところだ。
「黙れ、愚か者のレトニー」から始まったエルトン君のお説教は、例によってむちゃくちゃ長かった。
覚えていることだけを書く。
・どうして俺から逃げた、馬鹿。
・そもそも、俺はこの大学の中でレトニーの唯一にして最大の味方だと、何故わからないんだ、馬鹿。
・だいたい、たった一回のキスくらいで逃げるなんて、精神面が弱すぎる。(←?)
・だいたい、自分が危うい立場だという自覚が皆無すぎて、心底馬鹿だ(これは……ごもっとも)
・今後この大学に居続けたいなら、もっと頭を使え。近づいてくるやつは警戒しろ。もっと俺を頼れ。その代わり俺を敬え。
・あと、あいつ(先輩)に何をされた?(あまりにしつこいので、ぼかしつつやんわり話したら、寮母さんが部屋に注意しにくるレベルで奇声をあげはじめたので、心底後悔した)
だいたいこんな内容だったと思う。
実際の半分以上は、途中から聞いていなかった。(限界)
先輩のことで、まだ頭の中がぐちゃぐちゃして混乱もしていたけれど、エルトン君の勢いに圧倒されて、なんだかんだ救われた部分もあるのかもしれない。
いや、実際すごく感謝している。
彼の言うとおり、エルトン君は、一応僕の味方でいてくれるらしい。
大きな貸しを作るぞ、とその意地悪な目が物語っていたけれど、今の弱った僕にとっては、この上なくありがたい申し出だった。
僕は、エルトン君が苦手だ。
それは今でも変わらない。
最初からずっとそうだった。
彼の瞳は、まっすぐでぶれない。
エルトン君は、僕が彼から目を逸らしても、無遠慮に僕の顔をじろじろ見てくるような、そんな人だから。
だからこそ、心強い味方になってくれるような気がした。
ひとまずお礼を言うと、エルトン君はすぐに機嫌が良くなった。深夜なのに、その後もすごく元気だった。何でだ。
「一緒に寝てやろうか」と言うエルトン君を無視して、僕は布団の中でいつの間にか爆睡してしまった。
とにかく疲れた。
そして、二十八日。朝を迎えた。
エルトン君と朝食を食べに行った。
彼とは何げに、初めて一緒に食事をした。
今までずっと避けられていたから。
それから、二人で部屋で課題をしていたら、アシュレイ先輩が訪ねてきた。
騒ぐエルトン君を無視して、僕は先輩を部屋へ招き入れた。
もちろん、エルトン君がそばにいてくれていなかったら、こんな大胆な行動はしない。
何にせよ、遅かれ早かれ、先輩とは話さなければいけないことがたくさんあったから。
先輩も僕と同じ考えだったらしく、話は早かった。
エルトン君は、いつの間にか、諦めて何も言わなくなっていた。
ものすごく不機嫌そうだったけれど。
先輩は、僕が口を開くより先に、僕が気になっていたことを全て話してくれた。
・先輩が男の人を好きなのは本当。今まで好きになった人は、全員男の人。
・恋愛関係で、ちょっとしたいざこざがあったことも事実。でも、全て双方合意の上でのこと。
・先輩は、性別の壁を超えて、自らの愛を貫く覚悟でいるけれど、いつも相手がその重さに耐えられなくなって、大学を去っていくということが何度かあったらしい。
・催淫剤を使ったのは悪かった。でも、言い訳をすると、あれには理性が飛ぶほどの強制力はない。一般的には、少し気分が高揚するくらいの作用。ただ、体質やその時の体調・ホルモンバランスなどによって、効き目に個人差はあるかもしれない。副作用など身体に害はないので、安心していい。
……という内容だった。
そして、最後にこう言われた。
「初めは、レトニーが後輩として可愛かった。でも、俺を頼って慕ってくる君自身がだんだん可愛く思えてきて、気がついたら好きになっていた。そして、君が女性だと知った。驚いたよ。まさか、自分が女性を好きになっていたなんてね。でも、もっと驚いたのは、今でも君が好きだってことだ。初めてなんだよ、今まで生きてきて、女性を好きになったのは。俺は、昨日からずっと考えていた。もう、今後自分の人生の中で、レトニーのような子は二度と現れないかもしれない。こんな俺だ。将来結婚をして、子どもを持つというありふれた夢も諦めていた。でも君となら、それが難なく叶えられるってことに、気付いたんだ。君と俺との出会いは、まさに運命だよ。これからは、卑怯なやり口は抜きにして、正々堂々と君を口説こうと思う。俺は女性は苦手だけれど、レトニーが言ったように、女性には一応もてるんだ。覚悟しておいて」
先輩が爽やかに去っていった後のドアに、エルトン君が枕を思い切り投げつけた。
ありふれた言葉で表現するとしたら、これを前途多難と言うのかもしれない。
手が疲れた。




