僕のはじまり
九月二日(月)
今日は待ちに待った大学の入学式だった。
広くて綺麗なホールで式典なんて初めてだったから緊張したけど、聖歌隊の歌やオルガン演奏が素晴らしくて、とても感動した。
憧れのアカデミックガウンも着て、なんだか身の引き締まる思いだった。
当然だけれど、周りは男子だらけ。
今、僕の後ろで寝ているルームメイトのエルトン君も、もちろん男子だ。
エルトン君は、全校生徒の前で新入生代表の挨拶をしていた。入学試験で首席だったってことだ。すごいな。
まだあまり話してないけれど、これからぜひとも仲良くなりたい。
僕はこの大学で、勉強も日常生活も、きっと上手くやっていく。
ひとまず、これからは日記の中でも意識して、一人称を「僕」にしていこうと思う。
明日からは授業が始まる。もう寝よう。
九月三日(火)
楽しい。大学ってこんなに楽しいところなんだ。今日の生物学の授業はとても興味深かった。
人間は、六十兆個もの細胞からできていて、毎日三千億個の細胞が死んで、日々新しいものに変わっているんだとか。
つまり、単純計算で、六十兆÷三千億=二百日で、体中の全細胞が入れ替わっているってことになる。
今日から二百日後の僕は、もう、今ここにいる僕じゃないってことだ。すごいことだよ、これは。
九月四日(水)
今日は新入生歓迎会があった。
すごく疲れた。先輩たちへの挨拶回りが大変だった。
一年先に生まれたっていうだけで、どうしてああも偉そうにされるんだろう。
先輩に「お前、女みたいな顔をしているな」って言われて、内心ドキリとした。
どうやったら男らしく振る舞えるのかな。
とりあえず、筋トレでもしよう。
九月五日(木)
今日は散々だった。
お昼はあんなに晴れていたのに、帰りに急に雨が降ってきて、寮に着くまでにびしょ濡れになってしまった。
制服もカバンも、教科書までびしょ濡れだ。泣いた。
九月六日(金)
僕は、エルトン君に嫌われているんだろうか。
昨日、授業で使うプリントが雨に濡れてダメになってしまったので、一緒に見せてほしいと頼んだ。
彼は一応見せてくれはしたものの、とてもよそよそしかった。
話しかけても目も合わせてくれないし、たまたま僕とエルトン君の手が触れてしまったときなんか、もうどん引き。
まるで僕がばい菌かのような扱いだ。
僕は、何か彼の気に障るようなことをしてしまったのかな。
思い当たる節は全くないけれど。
以後、気を付けよう。
九月七日(土)
今日は大学はお休み。
食堂にエルトン君がいたから話しかけてみたけれど、完全に無視された。
もういい。
僕が何をしたっていうんだ。
あんなやつ嫌いだ。
九月八日(日)
今日は一年生だけで、バーベキュー交流会をやった。
お肉がすごく美味しくて、たくさん食べてしまった。
同じ学科の友達も何人かできたし、これから皆と仲良くできるといいな。
バーベキューの後、ドッヂボールをやった。
エルトン君がとんでもなく運動音痴なことがわかった。
奇声をあげて逃げ回っていたけれど、結局お尻に当てられていた。
いい気味だ。
でもその後に、外野から禍々しい殺気を放って、敵に妙なプレッシャーをかけていた。
かわいそうに、エルトン君にボールを当てた他学科の人はびびりまくりだ。
精神攻撃じゃなくて、正々堂々、ボールで勝負すればいいのに。
九月九日(月)
エルトン君と同じ部屋で息が詰まる。
九月十日(火)
日記を読み返してみたら、エルトン君のことばかり書いていた。
最低だ。もっと楽しいことを書こう。反省。
九月十一日(水)
今日は嬉しいことがあった。
同じ学部のアシュレイ先輩からレポートの添削をしてもらって、テストの過去問プリントももらえた。
地学の先生は毎年変な問題をテストに出すので有名で、過去問なしでの対策は厳しいってもっぱらの噂だ。
同期の子たちも欲しがっていたから、皆で共有しよう。
アシュレイ先輩は、他の偉そうにしている先輩たちとは違って、後輩の僕たちにも親切にしてくれる。
その上、成績も良くて、将来は大学に残って研究員として博士課程に進むかもしれないんだって。
もしそうなったらとても名誉なことで、国から助成金を支給されながら、大学で研究ができる。
羨ましいな。僕も心の底からそうなりたいんだけれど。
さすがに無理だろうな。
学力的な理由ももちろんあるけれど。
いつまでも男の振りはできない。
九月十二日(木)
今日は山ほど課題が出た。
日記を書いている場合じゃない。徹夜しても終わるかどうか。
何でエルトン君は、もう終わらせて寝ているんだろう。
意味がわからない。人間じゃない。
九月十三日(金)
徹夜でやったけれど、課題が結局終わらなくて、適当にやったところが荒削りすぎて、案の定授業で先生にかなり突っ込まれた。
皆も似たようなレベルだったけれど、その中でもちらほら素晴らしい完成度の人たちも何人かいて、頭の出来が違うなって、思い知らされた。
なんだか悔しかった。
中でもエルトン君はすごく褒められていて、皆から注目の的だった。
「俺が優秀なのは当たり前でしょう、先生。わかりきっていることを言われても困ります」
この一言がなければ、素直に尊敬できた。
九月十四日(土)
今日は、アシュレイ先輩の部屋で、皆でアップルパイを食べた。
先輩の実家はりんご農園で、お母さんが大量のアップルパイを焼いて送ってくれたらしい。
とても美味しかった。
同じ学部の子はほとんど来ていたけれど、エルトン君は誘われても来なかった。
彼は食べ物の好き嫌いも激しいし、友達や先輩との付き合いも悪い。どうでもいい。
九月十五日(日)
久しぶりに、実家に手紙を書いた。友達もできたし、勉強は大変だけれど、とても楽しいって書いた。
母さんも父さんも、きっと僕のことを心配しているはずだから、少しでも安心してもらえれば良いなと思う。
手紙を書いている最中に、エルトン君が後ろから覗き込んできたから、慌てて隠した。
僕がこの日記を書いているときも、時々ふと彼の視線を感じることがある。
僕も気を付けてはいるけれど、単純に気持ち悪い。
九月十六日(月)
今日は授業中に、居眠りをしてしまった。
案の定先生に当てられて、答えられなくて恥ずかしかった。
その後にエルトン君が代わりに当てられて、何の苦も無くすらすらと答えた。
もう絶対寝るもんか。
九月二十一日(土)
ここ数日、日記を書くのを失念していた。
今日はやっとお休みだ。
最近、グループワークでの課題がすごく忙しい。
同じ班になったメンバーは、テリー君とニスとミシェルで、皆協調性も抜群だし、とても進めやすい。
ただ、メンバーにエルトン君がいて、彼一人のせいでその輪が簡単に引っ掻き回される。
エルトン君は、自分が気になったことはとことん追求したいタイプで、良く言えば根っからの研究者、悪く言えば、皆の足並みを乱すこの上ない問題児。
平気で人のことをけなしたりするし。
物事を突き詰めていくことは大事だと思うけれど、この課題は自分一人でやっているわけじゃないから……。
進捗状況を考えつつ、深めるところは深めていくのが、すごく難しい。
結局、ヒートアップしたエルトン君を諌めるのは、ルームメイトの僕という役回り。
これが毎日すごく疲れる。
九月二十二日(日)
寮の廊下で、偶然アシュレイ先輩に会った。
今のグループワークについての相談をしたら、去年の先輩たちも結構揉めたみたいで、どうやら大変だったらしい。
先生もすぐには認可しないみたいだし、毎年恒例の、一年生の通過儀礼のようなものだとか。
ただ、この課題が終わったあとは、自然と皆、以前よりも打ち解け合えたんだって。
この課題を乗り越えて、仲間としての絆を深めていくのが、裏の目的でもあるって、先輩は話していた。
それを聞いて少し安心した。
だから頑張るんだよって、先輩はお菓子をくれた。
すごく癒された。
明日も負けない。
九月二十三日(月)
「君はきっと肩こりとは無縁の人生だろうな。だって、すごく軽そうだもの、その頭」
誰かエルトン君の眼鏡を踏んでくれ。
九月二十六日(木)
大変なことが起きた。
昨日と一昨日の日記を書き忘れた。いや、そんなことはどうでもいい。
二日分の出来事も、今ここに記す。
どうしよう、どうしよう。
僕のことがエルトン君にばれてしまった。
男子じゃないって、ばれてしまった。
最悪だ。
どこでばれたんだろう。全然わからない。油断した。
僕のバカ。
それに輪をかけて、さらに一大事な出来事があった。
いや、厳密に言えば、二つとも同じ事象か。
エルトン君にキスされた。
ありえない。
不意打ちだった。
僕が夜ベッドで寝ているときに、僕に何の断りもなく、突然。
なんか息苦しい、気持ち悪いと思って起きたら、目の前にはキス顔のエルトン君だ。
びっくりしすぎて、軽くパニックになった。
あの時の戦慄は、いまだに鮮明に思い出せる。
そのときに、エルトン君が言った意味不明な弁明を要約すると、こうだ。
「レトニーが女だってことを俺は知っている。誤魔化しても無駄だ」
「君が毎晩無防備に寝ているのがいけないんだ」
「君のことが気になって気になって、最近勉強が手につかない。深刻な状況だ。学年首位の俺の成績が下がったら、君は責任がとれるのか」
「というか、実際責任をとるべきだ。だからキスした。これは不可抗力だ」
エルトン君て、実はアホなんじゃないのか。
僕は泣きながら部屋を飛び出した。
ひとまず校舎裏のベンチで夜を明かした。
夜の学校ってめちゃくちゃ怖い。
そうしたら風邪をひいてしまって、それが昨日の出来事。
授業も無断で欠席してしまった。
エルトン君が部屋を出るくらいの時間を見計らって、僕は自室に帰って、そこでようやく眠ることができた。
それよりも、僕はこれからのことを考えなければいけない。
女は学問なんてするべきじゃないって言われているけれど、僕はどうしても勉強がしたかった。
自分の我がままを通しているのは、十分わかっているつもりだ。
無茶を承知で性別を偽って試験を受けたら、見事に合格できた。
嬉しかった。
女でも、学ぶことで知識を身につけられるってことを、証明したかった。
いや、単純に、いろんなことをもっと知りたかったから。
でも、僕の秘密がばれたら、もう大学にはいられない。
エルトン君が皆にばらしたら、すぐに身辺調査が入るだろう。
彼の性格なら、もうすでにばらしていてもおかしくはない。
もしくは、僕の弱みを握ったことで、それをネタに、今後僕を脅してくるかもしれない。
黙っている代わりに金をよこせ、エッチなことをさせろ、とか。
それは死んでも嫌だ。
とにかく、エルトン君とは一度ちゃんと話をしなければならない。
でも、情けないけれど、僕は彼のことがまだ怖い。
考えに考えた挙句、アシュレイ先輩に相談してみた。
「グループワークでエルトン君と盛大に揉めて、一緒の部屋で過ごすのが気まずいんです」と話すと、先輩はなんと一泊させてくれると言った。
こちらが驚くくらい親切だった。
アシュレイ先輩は神様だ。
タイミング良く、先輩のルームメイトは、ちょうど施設に泊まり込みの実習に行っているらしく、今夜部屋には先輩一人だけだから、空いているベッドを使っても良いと言ってくれた。
ルームメイトの人には後で話しておくから、と。
感謝してもし足りない。
というわけで、エルトン君が帰ってくる前に、先輩の部屋に行こうと思う。
冷静に考えてみると、僕は結構大胆な行動をとっているのかもしれない。
でも、他に方法が思いつかない。
事情がややこしいだけに、クラスの誰かに相談するのも返って気が引ける。
アシュレイ先輩からすれば、後輩がちょっと遊びに来るっていうだけで、気にも留めない出来事なんだろう。
だから、僕が意識しすぎたりしなければ、事はつつがなく運ぶはずだ。
意識するって何だ。
とにかく、早くこの部屋を出よう。
この日記帳の引き出しに、鍵をかけるのも忘れずに。




