第三羽:ロザリア・D・ロンバルド
「おはよう、こんにちわ、こんばんわ」
と彼女は言った。彼女は本を読んでいた。分厚い洋書みたいな本だ。黒い革製のブックカヴァーをしているので本のタイトルはわからない。
僕が何も言わないでいると、
「ロザリア」
「『D』」
「ロンバルト」
と彼女は小さくつぶやいた。
………………。
…………。
……。
しばしの間。
「ロザリア」「『D』」「ロンバルド」。
この言葉が彼女の名前であることを理解するのに少し時間がかかった。とうのも彼女のしゃべり方はなんだか詩の朗読のような、不思議な、歌うような、幾分投げやりな、音楽的な抑揚をしていて、彼女の何でもない言葉の一つ一つがまるで聞きなれない魔法の合言葉のように聞こえるのだ。
僕は彼女の『D』という言葉の一片に警戒した。
『D』。
魔王の血族はみな名前に『D』が入る。魔王の真名はアメン・『D』・ホテプであり、彼の妻はクイーン・『D』・ハトシェプスト、息子はトゥト・アンク・アメン・『D』、二人の娘はラ・ドンセラ・『D』とジンジャレラ・『D』、東国にわたって僧侶となった上の娘の婿の名前はセイント・『D』・鉄門海。『D』は悪魔の『D』、闇の『D』、死の『D』、絶望の『D』、この世界での『D』は極めて忌まわしい、不吉な記号とされている。ふざけてでも名前に『D』を入れる人間はいない。
彼女は魔王とどういった関係なのだろうか。血縁者? 敵なのか?
僕の背中に冷たい汗が一滴。拘束されていないにもかかわらず、体が言うことを聞かないのだ。逃げられないし、戦えない。
『こういう時はな、』
と団長の声が頭の中で響いた。
『大きく深呼吸しろ。』
僕はその通りにした。
戦場では予想外のことが起こる、というよりも予想外のことしか起こらない、と団長は言った。
『なぜならな、戦争は神様が作ったゲームだからだ。人間が戦争しているんじゃなくて、神様が人間を駒に戦争ゲームしているのさ。どんなに頭のいい奴が話し合ったって戦争が起きるのはそういうことなんだ。神様が戦争を操っている以上、人間が予想できることなんざたかが知れてる。自分の予想をはるかに超えたわけのわからないことが起こると人間は大体パニくる。クールになるには深呼吸だ。新鮮な空気を体に入れてぐつぐつの頭を冷やすのさ』
「『呼吸はタダだし、死んでねぇ限りいくらでもできる』」
と僕は頭の中で浮かんだ団長の言葉をそのままなぞるように呟いた。
よし、頭は冷えた。冷静だ。
考えてみると彼女は味方である公算のほうが高い。
僕は僕自身のことを思い出した。
僕は勇者だった。そして戦闘中に重傷を負いで半身不随になった。戦力増強を目論む勇者機関は使えなくなった僕を勇者研究所に搬送して実験体に利用した。そして実験が失敗したので僕を毒沼に廃棄した。
――ロザリア・『D』・ロンバルド。彼女は僕の置かれた状況をかなり詳しく知っていたはずだ。そうでなければ毒沼で溺れていた僕を手際よく救助することなんて不可能だったはずだ。
僕はあたりを見回した。どこだろう。まったく見覚えのない部屋だ。白い壁と床。白い寝台の上に僕はいる。僕は上半身を起こしている。すぐ傍に引き出し付の白い机。机の上に水差しが置かれている。病院? いや、それっぽくないな、臭いか? 病院特有のアルコールや薬や清潔すぎるシーツとかの臭いがしない。窓がない。出口の扉はある。分厚いカーテンがかけられていてて外の様子が見えない。
寝台からちょっと離れたところにロザリア・『D』・ロンバルド。彼女は背もたれのある小さな椅子に腰かけている。黒いブックカヴァーの本を手に持って僕を見つめている。彼女とかっちり目が合うと不思議そうに小首を傾げた。
彼女はおそらく30歳後半から40歳の間だと思われる。少なくとも僕よりも年上のはずだ。美人。落ち着いた感じのナチュラルメイク。前髪を分けて広い額を前に出している。眉は細い流行りの眉メイク。長い睫に縁どられた目はつぶらで、小さな女の子みたいによく瞬きをする。目尻にきつい皺があって、そういうところに彼女の老いが始まっていた。でも彼女はあまり気にしていないようだ。老いを化粧で隠そうとしないところに彼女の潔さを感じる。鼻筋は通っていて、唇はぷっくりしていて幾分重たげで濡れた感じがあって、気だるげな、不思議な抑揚のしゃべり方と相まってなんだか胸が苦しくなるような色気がある。黒髪のストレートロング。彼女は黒いジャケットに白いシャツ、彼女の細い足にぴったりフィットした黒いパンツ、黒のパンプスを履いていた。上品な雰囲気、おそらくも高級ブランドのものだろう。シャツ越しからでもわかるふっくらした、柔らかい胸のふくらみ。大きすぎず小さすぎず、手に収まる感じ。
彼女の服の下にある胸の在り方を妄想して、僕は、恥を承知で告白すると、僕は勃起していた。残念なくらいに、悲しいくらいに固く。しかしこれも仕方のないことなのだ。
僕の猛りを知ってか知らずか彼女は本で顔の下半分を隠した。ちょっと恥ずかし気に、と言ったふうに。この時、彼女の左手薬指にしてある指輪を発見した。既婚者なのだ。
「あなたは漫画は好き?」
とロザリア・『D』・ロンバルドはまるで今日の天気でも尋ねるみたいな口ぶりでこの場に似つかわしくない奇妙な質問をした。僕が黙っていると、彼女は少しイライラしたみたいだった。軽く目を細め、眉間にしわを寄せると、彼女はゆっくり、言葉の一節一節を慎重に、歯で噛んでより分けるように、
「ものすごく、重要な、質問を今、しているのよ。私は人見知りで、願うことなら、人と、話しをしたく、ないの。でも、必要だから、あなたと、話をしているの」
そして再び「あなたは、漫画が、好き?」と聞いた。僕はなんて答えることが彼女にとって正解なのだろうと少し考えてみたけれど、いい答えが思い浮かばなかったので結局正直に、
「好きだと、思う。団長が好きだったんだ。団長が読み終わると仲間と回し読みしてた。みんな肉に群がるピラニアみたいにむさぼるように読んだな。娯楽がなかったから、それが数少ない楽しみの一つだったんだ」
貧しくて学校に行ってなかったから字は読めなかったけれど、それでも楽しめた。基本的に動きのある漫画は好きだった。ジョジョ、幽遊白書、ドラゴンボール、北斗の拳、BLEACH(BLEACHが『漂白する』って意味、知ってた? 僕は知らなかった)、ナルト、ワンピース、みんな読んだ。面白かった。レベルEもハンター×ハンターも読んだ。もちろんジャンプ系列以外のもたくさん読んだ。平野耕太郎のヘルシングとドリフターズ。三浦建太郎、ベルセルク。大暮維人。強殖装甲ガイバー。少女漫画も読んだ。安野モヨ子のハッピーマニアと働きマン。
字が読めるようになったのは勇者機関学校に入ってからで、学校では気風に合わないということで漫画を読むことは禁止されていたけれど、隠れてこっそり読んでいた。字がちゃんと読めるようになってからは理解度が格段に増して前よりも漫画が好きになった。最近面白かったのはテラフォーマーズ。
彼女はゆっくりとした動作で僕の寝台まで近寄ると、彼女の手に持っていた本を、ブックカヴァーを剥いで僕の目の前に差し出した。全体が赤色をしていて、生首の並んだ棚の左側に女の子がちょこんと座っているイラストが描かれた本。
「ロザリア・D・ロンバルドが選ぶクールな一冊。林田球の『魔剣X Another Jack 新装版』」
「林田球。ドロヘドロ……」
すると彼女は眼を輝かせた。
「ドロヘドロは読んだの?」
「団長がいたく気に入ってて集めてたから。一見荒っぽく見える画風だけど、実は緻密で、グロテスクなんだけどどこかクスリと笑っちゃうようなキャラクターが魅力で……」
僕は漫画の内容を思い出して一個一個収穫するみたいに言葉を紡いでいったのだけれど、突然彼女ががっちり僕の両手を握ったために、びっくりして言葉を詰まらせてしまった。
「『あなた』は漫画が好きなのね。嬉しい……」
彼女の笑顔。まるで子供みたいな、無邪気な笑顔だ。そして彼女は、
「これもいいわよ。ドロヘドロより前の作品で、おそらくは打ち切りで中途半端な終わり方をしているんだけど、でも独特の悪夢的表現は見ていて引き込まれるわ。ねえ、読んで感想聞かせてね」
突然、発火したみたいにそこまで一気にまくし立てると持っていた漫画を僕の空いている手に置いた。
なんだかよくわからない。白い部屋で突然目が覚めて、そこに少し年かさの美女がいて、彼女は漫画が好きで、僕が漫画を読むというと、とたんに持っていた漫画を手渡される。この状況を理解できない僕はおかしいのか? ぼんやりしていると、彼女は笑顔から一変、青ざめた美しい陶器人形の顔に変化した。ほんのちょっとの表情の変化で顔の印象がまるで別人のように変わるのだ。
僕は本を胸に抱き、必ず読んで感想を聞かせるということを約束した。それで彼女は少しだけ表情を緩めた。満足したみたいだった。




