第十羽:過去語り 勇者合宿とカモガワ②
勇者暦1984年3月。
2週間の勇者合宿は勇者家系第一位の権力を持つスペルビア家の別荘で行われた。
宝石細工のようなステンドグラスと白い大きなテラスと広大な庭園を持つ別荘宅には住み込みの使用人が何人もいて、この高価な箱庭の美観を維持していた。使用人たちはすべからく美しい少女である。格差社会に身を置く彼女達の立ち振る舞いは素晴らしく、貴族の勇者見習い達には笑顔であいさつして談笑などしていたが、僕やカモガワにはほとんど見向きもしなかった。挨拶しても無視されたので僕はやがて彼女たちを歩くマネキンだと思うことにした。
邸宅内にはいくつも客間があり、どれも豪奢だった。広くて、金のかかった調度品が置いてあって、掃除も行き渡っていた。初日に一度だけその客間の内装を見たが、僕個人としてはなんだか金ぴかで居心地悪そうだなと思った。もっともそんな不安は杞憂に終わった。使用人が僕とカモガワに案内したのは部屋は地下の物置部屋だった。とはいえ、ロッカーとベッドはある。天井近くに小さな窓があり、そこからかろうじて外の光が取り入れられた。僕には十分すぎたけれど、カモガワは貴族達や使用人がいなくなるたびに「どうして僕たちだけが」と毒づいていた。気持ちは分からなくもない。でも仕方ないのだ。
別荘地周辺は自然豊かで四季折々の自然の果実を味わうことが出来た。そのことがなんだか僕には信じ難かった。貧しい農村生活と傭兵団での厳しいサバイバル生活をたっぷり味わってきた僕にとって自然とは始終人間の敵だった。少なくとも味方ではなかった。敵を制圧し食らうこと、それが自然界の掟で少なくとも野生動物たちその掟を遵守していた。でも半ば遊楽地に改良されたこの自然の中では少し歩いただけで甘い果実に出会い、それをもぎって食べることが出来た。鳥獣たち警戒心を持つどころか、媚びるようにすり寄ってくるのできっと簡単に狩ることも出来ただろう。自然は明らかに人間を迎合していた。金の力そうさせたのだ。金さえあれば人間だけでなく自然をも平伏させられるのか、そう思うとなんだか今までの僕の苦労がとてつもなく馬鹿らしく思われた。
「金のある奴らは強い」
と、団長は言った。実際その通りだ。僕が勇者合宿をして学んだ一つのことがまさにそれだった。
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合宿最終日の前日、カモガワは死んだ。
彼は庭園にある果樹の一本に縄を括り付けてそこで首を吊って死んだ。彼の死体を見つけたのは使用人の女の子である。早朝。彼女のか細い悲鳴にガッルスガッルスという勇者見習いが駆け付けた。彼は怯える見習いを励ましてやっていたという。その後、他の使用人や勇者達も集まった。気味悪がって誰もカモガワの死体に触れようとはしなかった。ずいぶん人が集まったにも関わらず、しばらくの時間、カモガワの首吊り死体は多くの人の見世物になった。
地下の物置で寝ていた僕は外の騒ぎに気が付くのが遅れた。激しく扉を叩く音で僕はようやっといつもとは違う異質な朝の気配を知ったのだ。部屋の戸を叩いていたのは老人の執事長だった。彼はカモガワの死体を降ろすための梯子を物置まで取りに来たのだった。執事長から話を聞いた僕はすぐさまカモガワの元へ駆けつけて確かめたかった。単純に信じられなかった、悪意のある嘘だと思いたかった。そうであることを確かめたかった。でも執事長に呼び止められた。梯子は老いた執事長だけでは運べないのだ。僕と執事長は梯子を持って現場へ向かった。そこでようやく僕はカモガワの死が嘘や冗談でないことを知った。
使用人や勇者見習いたちはカモガワの死体を囲って談笑していた。みんな興奮していた。見世物小屋の奇形動物を鑑賞しているような様子で、僕はこの時珍しく連中に腹を立てた。彼らは僕と執事長がカモガワの死体を木から下すところまでの一部始終を見ていたが、僕よりもさらに遅れて教師たちやってくると(彼らはいったい何をしていたのだろう)散り散りに消えていった。
カモガワの顔を見た。ひどい顔だ。散々殴る蹴るされたのだろう。顔面血だらけ痣だらけで、顔も大きく腫れ上がってコブコブした出来損ないのトマトみたいになっていた。身体の方もきっと打ち身だらけだろう。僕は彼の手を見てぞっとした。
僕はおそらくだけれど、他の勇者見習い達に比べれば死体に対して免疫はあると思う。戦場での敵兵や仲間の死体、そしてその弔い。慣れたとは言い難いけれど、それでも恐怖心はだいぶ鈍くなっているはずだ。カモガワの死体を見ても悲しみを覚えつつもどこか平静でいられたのは傭兵生活のおかげだけれど、そんな僕でもカモガワの手に隠された真実には恐怖を覚えずにはいられなかった。
カモガワの手は強く握りこまれていた。指先が赤紫の色に変色し、爪が手の平に食い込んで血が滲み出るほどに強く、だ。そしてそのまま硬直していた。僕は首を吊った死体がどんなものか知らないが、しかし考えてみて欲しい。手を強く握りこんだまま、誰の助けも借りずに小高い樹木に縄をかけて、果たして死ねるものだろうか?
僕は顔を上げ、そして執事長の顔を見た。僕の視線に気が付いた執事長は首を振っただけだった。彼は何も言わなかった。一言も。それが正しいことなのだ。少なくとも大人たちにとっては。
カモガワの死体は僕と執事長の手によって清められた。教師たちと執事たちがいろいろ相談しているのを僕は横目で見ていた。カモガワの死体は家族に連絡した後、引き渡す予定だったが、それまでどこに死体を置いておくのかが問題となっていた。教師たちは子供たちが混乱するから死体を目に付く場所に置きたくないらしかった。そこで僕は寝室として使っている物置に死体を置くよう提案した。教師たちはそれを促すためにあえて僕をその場にいさせていたようだった。僕は一晩、カモガワの死体と過ごすことになった。
緊急朝礼があり、そこでカモガワの死が伝えられた。そして今日に予定されていたオリエンテーリングは中止になった。勇者見習いは自室で待機するよう言い渡された。でも多くの勇者見習い達は退屈して、普段と同じ一日を過ごしていた。彼らは食堂とかでゲラゲラ大笑いしていた。カモガワの死なんてまるでなかったみたいで、僕は自分とは別のところで鈍感な彼らに唖然とするしかなかった。
カモガワが首を吊った果樹はまるで忌まわしいもののようにすぐに切り倒された。
僕は教師たちの言いつけ通り、部屋でじっとしていた。窓の外から勇者見習い達の楽し気な嬌声が聞こえた。僕の目の前には清潔な布でくるまれたカモガワの死体があった。死体は彼が寝ていたベッドに置かれていた。僕は自分のベッドに腰を掛けて彼の死体をずっと眺めていた。
憂鬱な気分が僕の心を浸していた。
僕はどうすればよかったのだろう、と考えた。
カモガワは多分、ずっと前から僕に救いを求めていたのだ。
僕が立ち上がるべきだったのだろうか。僕が立ち上がってイジメの首謀者連中に鉄拳制裁を食らわしてやれば、きっと僕の風当たりはきつくなっただろうが、カモガワは死ななくて良かったかもしれないのだ。
そのIFのことを考えると僕は取り返しのつかないことをやってしまったような罪悪感で一杯になった。
「僕たちは友達だよね」
とカモガワが言った。僕は、
「そうだね」
と言った。
そうだ、やはり僕たちは友達だったのだ。例えカモガワが僕のイジメに加担していたとしても、友達に間違いなかったのだ。
僕はその友達を見捨てたことになるのだろうか。
気が付くと夜になった。夜になっても僕は何もする気が起きなくてじっとしていた。
うとうとした。
ふと気が付くと、目の前にカモガワが立っていた。
声をかけたが彼は笑っているだけで何も喋らない。
僕は彼が僕を責めているのではないか、と思った。もしかすると助けられたかもしれなかったのに、見殺しにして済まない、と思った。
カモガワはただ笑っているだけである。いつか、夜の湖で見せた、透明な、無垢な少年のような笑み。
白い光が目を灼いた。
そこで目が覚めた。窓から早朝の光が差し込んで、鋭い刃のように僕の顔へ斬り込んだ。
カモガワの死体はまだベッドにあった。
僕は夢を見ていたのだ。
こうして合宿最終日の朝がやってきた。
頭はぼうっとして頭が重かった。額が熱かった。口の中はカラカラで、そして嫌な味がした。
夜になれば子供の用に熟睡して朝には何のストレスも残さずに目覚めることのできた僕にとって、こんなにも不快な朝の目覚めは絶えてなかった。
カモガワのことを考えるとまた憂鬱な気分になった。僕はこれからこんな暗いな気分を抱えて生きていかなくてはいかないのだと思うとさらに暗い気分になった。
考えはまとまらなかった。結局は考えたところでどうしようもないのだ。
仕方ないな、と思った。
僕は覚悟を決めた。
僕は食堂へ向かった。何組かの勇者見習い達がいた。楽しそうにおしゃべりしていた。僕はそのうちのやや大きめの勇者達の集まりの方へ行った。その中心には勇者見習いのガッルスガッルスがいた。
ガッルスガッルスは勇者家系第一位のスペルビア家長子クジャクの従弟である。虎の威を借る狐の言葉そのままに、勇者見習いのリーダー格であるクジャクの威光を盾に好き放題威張り散らしている卑劣漢ではあったが、端正な顔立ちをしているため女によくもてる。
金色の長い髪と大理石色の光彩を持っていて、見ようによっては長身の女子に見えなくもない中世的で甘いマスク。時折意味もなく髪を掻き上げたり、手の込んだデザインの手鏡で顔の様子を確かめてため息を吐くそのしぐさが洗練されていて、周囲の取り巻き女子を見惚れさせる。勇者見習いの男子達も取り巻きの女の子目当てで集まる。そうしていつも彼の周りには見習い勇者の大きな集落が出来るのである。
さすがに二週間も苛められていたら誰がイジメの首謀者かはわかる。僕は勇者たちをかき分けてガッルスガッルスにまで近づくとそいつの胸ぐらを掴んで頬を殴り飛ばしてやった。
もし仮に、と僕は考える。もし仮にカモガワの亡霊が僕のそばにいて、その亡霊が喜びそうなことは何なのか。
きっとこうすることなのだ、と僕は勝手に解釈した。
イジメの首謀者の公衆の面前でぶん殴ってやること。このナルシストが大切にしている顔を傷つけてやること。そして地面に這いつくばらせて恥をかかせてやること。僕やカモガワが受けた侮辱や苦痛をほんの少しでも思い知らせてやること。
正直に言うと僕は死者のためにガッルスガッルスを殴ったわけではなかった。決められた土地があって、そこだけを守る農民と同じように僕は僕のためにしか戦えない。これは僕のためなのだ。後悔や罪悪感を抱えて生きていたくはなかった。僕は自分の後悔や罪悪感を晴らすためにに自分のできることをやろうと思った。
その結果がこれだ。
ガッルスガッルスの頬に触れた拳骨が熱かった。今まで訓練とかで人を殴ったことはあったけれど、自分の明確な意思で人を殴ったのは多分生まれて初めてだった。兄弟喧嘩でも僕は人を殴ったことはなかった。嫌な感触だった。できることなら人を殴るなんて二度としたくなかった。恨まれて敵を作るだけなのだ。何のいいこともない。
「てめえ、よりにもよって俺の顔を殴りやがったな。許さねえ」
そう言ってガッルスガッルスは恨みのこもった目で僕を睨みつけた。彼は頬を抑えて起き上がるとすぐさま周りの取り巻きに僕を取り押さえるよう命令した。呆然としてた取り巻き連中はガッルスガッルスの命令にはっと正気を取り戻して僕に殺到した。抵抗したが多勢に無勢だった。僕は取り巻き連中によって床に体を押し付けられた。
「殺してやる」
とガッルスガッルスの声。そしてシュランという冷たい鞘走りの音。取り巻き連中から漏れる動揺の声。顔を床に押し付けられているから状況を視認できないが、それでも気配でたいたいは分かる。キレたガッルスガッルスが剣を抜いたのだ。
きっと取り返しのつかないことをやったのだろうな、と思った。もしかすると殺されるかもしれない。いや、もしかしなくても殺されるだろう。連中は殺人を犯してももみ消してしまえるほどの権力を持っているのだ。どうしようもない。何もしなければ殺されることなんてなかっただろうに。
ただ、と僕は思った。
――ただ、それでも僕の気分は結構、清らかだ。
「死ねよ、虫けらが」
とガッルスガッルスの声。
僕は目を閉じた。死の苦痛が一瞬で済むことを祈った。
勇者見習い達の怒号やら悲鳴やらが空気を熱し、床を震わせた。
「待てよ」
少年の声。背筋の凍るような冷やかさの裏にマグマのような暗い熱のある声だ。禍々しくも美しい妖刀が一撃で相手の急所を刺し貫き血の一滴も零さずに相手を絶命させるように、彼のたったその一言で騒がしい食堂が一瞬で静かになった。この迅速な化学変化。
声の主はクジャクだった。
完全、完璧、最強、無敵の勇者クジャクとの、これが最初の出会いだった。