第七羽:天使細胞
僕はイスカの呪いを解き、歩けるようになった。とはいえ、僕の体が完全に復調したわけではなかった。
皮膚の下を蛭のようなものがビクビクビクビク、無数に這い回っていた。手。足。胸。首。顔以外は全部。薄い皮膚一枚を通して蛭が放つ清らか白い光を確認できた。僕の全身から放出される光、まるで自分が懐中電灯にでもなったような気分だ。
僕はこの光を知っていた――天使細胞が活発化した時に発する光。つまり蛭の正体は天使細胞ということになる。勇者の身体に美と秩序をもたらすはずの天使細胞が何かの理由で暴走し、僕の身体機能を阻害しているのだ。
僕は、僕のことを思い出した。
勇者。研究所。実験。天使細胞……。実験。被検体。研究所。研究員……。
僕は勇者機関の研究所に運ばれ、何らかの実験の被検体にされた。そして失敗し、破棄されたのだ。天使細胞が制御できないのはそのためなのか?
くそ。僕は心の中で毒づいた。やっと呪いが解けて足がまともになったっていうのに肝心の身体が自由に動かせないなんて。
僕はなんとか立ち上がって、歩いて、そして白い部屋から出ようとした。けれど僕があがけばあがくほど、天使細胞はそれを阻もうと活発化するみたいだった。発光はより強くなった。灼けるような熱も帯びてきた。さらに蛭状の天使細胞は互いに繋がって一本の生きた鎖になると皮膚の下から僕の肉体をがんじがらめにした。締め付ける力もすごい。毛穴という毛穴からどっと汗が染みだしてきた。
天使細胞が僕を殺そうとしているのだろうか? いや、違う、自分の体のことだからよくわかる。天使細胞は僕の中にある何か、異物を取り除こうとして僕を攻撃しているのだ。
立っているだけで体力の消耗が酷い。視界の隅に寝台が見えた。今さっきまで横たわってマンガを読んでいた寝台。あそこに寝転べばきっと楽だろうな。僕はこのまま床に倒れこむこともできたし、あの寝台に寝っ転がることもできた。でも僕はその選択を頑なに拒んだ。今、倒れこめば、きっと僕は二度と立ち上がることは出来ないような気がしたのだ。
――僕の人生、と僕は考えた。今まで、ただ流されるままだった僕の人生。貧しい両親の間で生まれ、傭兵団に売られた。そこで僕は戦場の小間使いになった。その後、勇者の選定試験に送り込まれ、そこで合格して勇者になった。ほとんど強制でそこに僕の自由意志はなかった。
僕は正直、貧しい農家になんか生まれたくなかった。金持ちとは言わない、せめて衣食住に不自由しない家庭に生まれたかった。傭兵団だってそうだ。できることなら戦場になんて出たくなかった。団長の厳しいシゴキからどれだけ逃げたいと思ったことだろう。逃げなかったのは単純にどこにも行くあてがなかったからだ。勇者だってそう。傭兵団に入って反吐が出るほど戦場に出て、死の恐怖をたっぷり味わった。人間よりもさらに上の、魔王だか魔臣だかとなんて当然戦いたくなかった。しかしここでも同じことだった。天使細胞に適応した時点で僕は何十枚にもなる契約書を書かされ、逃げられなくなったのだ。天使細胞は国家の重要機密であり、これを持って逃亡することは極刑を意味した。僕は魔王軍との戦闘に恐怖し、逃亡を図る勇者を何人も見てきたけれど、無事逃げおおせた勇者は一人もいない。勇者にはそれぞれ天使細胞が発する固有の波長があり、それを仲間の勇者が猟犬のように嗅ぎ分けて逃亡者をどこまでも追跡する。だから逃げられない。醒めない悪夢のように。
いつだって選べなかった。いつだって逃げ場がなかった。
でも本当にそうだったのか。
僕は自分の境遇のせいにして、自分でものを考えて選ぶ努力をしてこなかったんじゃないか。自分の不幸を回りのせいにして、それを受け入れて、自分はこんなものだと諦めて生きていった方が楽だものな。これはもしかすると罰なのだろうか、ふとそんな考えが頭に浮かんだ。自分で責任をもって人生を選んでこなかった怠け者の僕に対する罰。でも流れに逆らわずに生きていくことがそんなに罪なのか。僕は罰を受けるほどの悪いことを今までしてきたのか。日和見主義の人間なんてたくさんいるのにどうして僕はこんなにも過酷な目に合うのだろう。
僕は後悔しているのだろうか? 今まで何も考えず、自分の責任で選び取ってこなかった人生に。いいや、そこまで深刻に考えているわけじゃない。多少の反省はあるさ。全く腹を立てていない訳でもない。仕方ないさ、人間だもの。でも僕は後悔や憎しみや嘆きには捉われていなかった。こうすればよかった、どうして自分はああしてこなかったんだ? 普通だったらそう思うのかもしれない。何故だろう。
きっと選ばないのも一つの選択で、そして僕はある局面局面で選ばないことをおおよそ無意識的に選択したのだ、と思う。貧しい両親の元を本気で逃げることもできただろう。でもそうすればきっと両親は悲しんだはずだ。ラッキーマンズ傭兵団から真剣に脱走することもできたはずだ。でもそうすれば団長は悲しんだだろう。勇者は? 勇者の選定試験を受けなければもしかすると今みたいな袋小路に追い込まれることはなかったかもしれない。勇者を辞めたいと何度願ったことだろう。でも逃げなかった。逃げ出せなかったっていうのもあるけれど、僕自身はその逃げるという選択をしてこなかった。極端なことを言えば自分の人生に嫌気がさして死ぬことだってできたはずだけれど、でもやっぱりその選択死も僕の中にはなかった。
僕の人生は他人任せの投げやりな人生だったかもしれない。でも他人に引かれたレールであったとしても選んだ以上は全うする意思は、僕自身、普段、あんまり自覚してなかったけれど、でもやっぱりあるのだ、と思う、いや、思いたいっといた方が正しいだろう。
僕は自分に自信がない。自分に対して確証が持てる人間ではないのだ、僕は。僕は何も考えず、わけもわからず、でもそれなりに生きてきた、主体性のない、多くのありふれた人間の中の一人だ。
人生にはイバラの道もあれば、上り坂もあるだろう。ひどい荒れた道もあるだろう。ただ、僕はどんな道かは関心がなかった、いや、もてなかったのかな。僕にとって重要なのことは、ただ道をまっすぐ歩くことだった。どんな道だろうと走破する。諦めない。そういうのに誇りを持っているとか、そこまで偉そうには言わない、言えない。ただ、それは一つの習慣なのだ。『選んでもらった道』から逃げない、楽をしないという習慣。
僕はロザリア・D・ロンバルドのことを考えた。彼女の背中にあった不吉な死の影。僕は戦場にそこそこ長い間いたせいで、不吉な気配にはどちらかと言えば敏感なのだ。彼女は死地に向かったのだ。一人で、孤独に。その辛さや悲しさはなんとなく分かる。僕も同じような経験を何度かしたことがあったからだ。そして僕がもしそういった状況に置かれた時、まず間違いなく誰かについてきてほしいと願ったはずだ。彼女もそう思っている。だから僕は彼女を後を追ってやりたい。例え、死の運命が彼女を捉えて離さなかったとしても、僕が後からついてきてやれば少しは救いになるだろう、きっと。
だから僕は立たなくてはならないのだろう、と思ったのだ、きっと。苦痛に耐え、汗を流して立ち上がる意味が僕の中にあったのだ。僕は天使細胞の手綱を再び取り戻さなくてはならない。僕は『選ばれて』ここにいる。僕はどこまでも鈍感に立ち向かう、それが僕の性――。
まるで僕の想いに答えるかのように右手の『死水晶』が光輝いたのがちょうどこの時だった。紐状となって僕を縛っていた天使細胞が一斉に僕の皮膚から飛び出した。赤い飛沫を迸らせながら現れた血濡れの触手が死水晶へ殺到した。
天使細胞が僕の肉体を攻撃していた原因は魔王の力を宿していた死水晶だったのだ。死水晶の魔力が体内の天使細胞にストレスを与え、暴走させていたということらしい。天使の触手は僕の右甲を覆い尽くすと凄まじい力で締め上げた。僕の右甲ごと死水晶を破壊するつもりなのだ。僕は悲鳴を上げた。天使細胞が皮膚を突き破る痛み、天使細胞が宿主のことなど考えずに暴れまわる痛み、白い触手と化した天使細胞が手の甲を締め付ける痛み、痛み、痛み、痛み。
『痛みにゃ希望がある。痛いって感じることは生きている証みたいなもんだからな』
僕の中の団長がそう言って豪快に笑った。僕も倣って笑ってみようとした。口元に浮かび上がる瀕死の笑み。
また死水晶が輝いた。さっきよりも強く、艶やかに。そして紫紺の光は天使細胞の触手をズタズタに切り裂いた。辺りに飛び散った天使細胞の破片は呻きにも似た音とともに蒸発していった。紫紺の光は天使細胞を追い立てるように輝き、その光に怯えた天使細胞は僕の肉体に引っこんでいった。
何か、一つの手ごたえのようなものを感じた。僕は目を閉じた。僕は自分の肉体へ意識を向けた。深い深い海の中に潜航していくイメージ。暗い暗い肉体の宇宙に燦然と輝く光は天使細胞である。僕は波打ち際を漂うクラゲをすくいあげるように、天使細胞の群れをすくいあげようとした。天使細胞は僕を拒絶するように強烈な光を発した。僕はもう理解していた。僕の体内に巣食っている天使細胞はかつての天使細胞ではなかった。僕の知っている天使細胞よりもさらに上位の、天使と『絶対勇者』のみが持つといわれている『純天使細胞』だ。研究者たちはこれを僕の肉体に移植したのだ。新たな『絶対勇者』を作るために。『純天使細胞』の強大な力に耐えられずに死ぬことが分かっていて。
僕は右手の甲を掲げた。死水晶。紫紺の光。魔王の力。天使とは相反する紫紺の力。人間では制御不可の強大な天使細胞の力を圧倒する新しい僕の力……。
闇の力によって抑え込まれた天使細胞の一群を僕は残らず掌握していった。それまで全身を侵していたドロドロの不定形のような無力感取り払われ、全身が一気にクリアになっていくような感じがした。肉体に骨と筋肉の秩序が戻ってきた。懐かしい、確かな感覚。僕の肉体がようやく僕のものになったという手応え。魔王の魔力が僕の意識下を離れて暴走していた天使細胞を抑え込んでくれたおかげでようやく僕は自分の意思の力で天使細胞を制御できるようになったのだ。
『力の継承が完了したわ。もう大丈夫。もう少しすれば体は動かせるとは思うけれど、でも無理はしちゃだめよ』
ロザリア・D・ロンバルドはそう言った。彼女は知っていたのだ。僕の体のことを。彼女はまるで僕の未来を知っているかのようだった。彼女は僕の未来の先にいた。僕が彼女を追いかけるのはどうにも必定のことらしい。
僕はようやっと体の自由を取り戻した。僕はゆっくりと、噛みしめるように歩み、そして白い部屋の出口へ向かった。