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第一羽:遺棄

 声が聞こえる……。


「被験体の生命力低下!」

「純正天使細胞の浸食が……止まりません!」

「被検体の天使濃度が急上昇し、ヒト成分が20パーセントを下回りました」

「実験……は失敗だ」

「やはり天使様の恩寵を受けた人間でなければ純正天使細胞と適合することは出来ないのか」

「このまま純正天使細胞の浸食が止まらなければどうなるんです?」

「被検体の体内で天使濃度が上昇すると肉体の恒常性維持機構が働いて、体組織構成の安定を図ろうとする。肉体は異形化し、被検体の意思とは関係なく無差別に周囲の人間を取り込んで足りなくなったヒト成分を補おうとするわけだ。この被検体はまもなく人食いの怪物と化す」

「対策はあるのですか?」

「そこのダストシュートは黄泉沼に繋がっている。そこへ速やかに遺棄しろ」

「あそこは魔臣(Machine)の死骸捨て場ですよ。魔臣の体液で毒化した池に捨てれば彼は……」

「だからこそだよ。強靭な天使細胞もあの毒沼の前にはひとたまりもないだろうな。なに、いなくなったところで誰も騒がんよ。彼はもう死んだことになっているのだから。さあ、次の被験体を用意しろ。我々には時間がないのだ」



 ダストシュート。遺棄? もしかして僕のことか? 遺棄って、僕は息をしている、僕はまだ生きている。まだ僕は生きているんだ!



 口を開くよりも早くに、僕の体はダストシュートに投げ込まれた。ダストシュート内は狭い筒状のすべり台になっていた。

 本能的な恐怖に駆られた僕は手足をつっぱらせてその場に留まろうとした。まず足がうまく動かない。僕の足はずいぶん前に使い物にならなくなっていたのだ。それに詰まり防止用だろう、すべり面は磨かれたようにツルツルしていて、しかもそこかしこに設けられた排水口からは絶えず少量の水が放出されていて、とてもじゃないが、何かとっかかりでもない限り踏ん張れそうになかった。そしてこの世界に救いがないのと同様に、とっかかりなんてものは、当然ない。僕はそのままゴミの集積口向けて滑り堕ちるしかなかった。



 長い滑走の果てに僕の肉体は施設の外へ排出された。一瞬の浮遊感、僕の肉体は汚泥の累積する湖に投げ出された。水は汚れきっていた。ところどころで泥とヘドロが累積して水面に大きな山を作っていた。臭いもひどい。濃縮された腐敗臭だ。よく見るとそこらだしに魔臣の残骸があった。臭いの原因は死んだ魔臣の体を包んでいたD細胞がドロドロに腐敗しているせいらしかった。

 雨が降っていた。空は重ったるい黒雲に覆われていた。時折稲光が走った。僕はなんとか水面に顔を出して必死に助けを求める声を上げた。でも思ったように声が出ない。黄泉沼の腐敗した水を飲んでしまったせいで喉が爛れてしまったのだ。僕の口から出るのはかすれたうめき声。それも激しい雨音と雷の音でかき消されてしまう。

 僕は捨てられたのだ。誰も助けなんて来ないだろう。わかっていたけれど、それでも叫ばずにはいられなかった。ここは苦しい、ここは痛い、ここは冷たい、ここは酷い臭いがする、とにかくここから出たい。出たい、出たい、その一心だった。

 岸まで泳ぎ着くことが出来ればよかったが、体が自由に動かせない。天使細胞が僕の肉体を蝕んでいるせいだ。天使細胞によって異形化した身体がまるでイカの触手みたいに水面から飛びだして踊り狂っていた。のたうち回り、痙攣するその白い無数の触手はまるで苦しんでいるように見える。

「(なるほど、黄泉沼の水は僕の体に巣食う天使細胞には毒となるらしい)」

 だから連中は僕を黄泉沼に捨てたのだ。こんなひどい場所に。ちくしょう。

 この時、僕は池の汚水と汚臭、何よりも身近に迫った死の気配のせいでまともな思考が出来なくなっていた。

「(黄泉沼の毒水を体に取り込んで暴走する天使細胞の力を押さえることができれば! もしかすると手足が解放されて岸まで泳ぎ着くことが出来るかもしれない)」

 僕はかろうじて異形化していない左手を振り上げると水面に叩きつけた。

「(僕の肉体よ、黄泉沼の毒水を吸い上げ、暴走する天使細胞を抑え込め)」

 黄泉沼の水がものすごい勢いで僕の左手のひらに吸い込まれていく。黄泉沼の毒水も、泥もヘドロも、そして半ば腐敗し機械部の露出した魔臣の死骸も、その何もかもが僕の中に取り込まれていく。吸水は止まる事を知らない。こんなにいろんなものを取り込んで僕の肉体は大丈夫なのだろうか。

 でも僕には選択肢なんてなかった。いつだってそうだ。僕の人生にはいつも致命的に選択肢がなかったのだ。

 もし死にたいのであれば、じっとしていればよかった。でもそうじゃない。僕は死にたくなかった。


「(もし死にたくないって思うんだったら……)」


 団長の声が聞こえた。


「(それはお前が生きたいってことだ。この地獄みたいな世の中で、それでも生きたいっていう、未練みたいなものがあるっていうのはラッキーなことなんだぜ。なんたって大抵の連中は心の底ではこの世の中にうんざりして死にたがっているからな)」


 僕は僕の記憶の中にいる団長に尋ねてみた。


「(どうすればこの状況を打破できますか? 周りは毒の水で、体の中は悪性の癌みたいな細胞が僕を蝕んでいる。毒水を取り込んで体内の悪性細胞を除去しようとしているけれど、生き残れる可能性なんて1パーセントもないかもしれません)」


 きっと団長はこういうだろう。いつもの豪快な笑い声をあげて、


「(お前、ラッキーじゃねえか。生き残れる可能性がゼロやマイナスじゃねぇんだぜ。ほんとラッキーだよ、お前は)」


 薄れゆく意識の中で僕は笑ったような気がした。


「(死ぬっていうのはきっと地獄みたいに苦しいもんだろうよ。だからな、笑って死ねるってことは多分相当にラッキーなことなんだと思うぜ)」

 また団長の声。僕は地獄の苦しみの中で笑える自分が少し嬉しかった。


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