アイデンティティクライシス
初めての短編です。
俺にはアイデンティティがない。
俺はあの日、『俺らしさ』を壊されてしまった。いや、壊されたというよりもそんなものは既に存在していなかったとも言える。その事実に気付かされた。
暦が二月に変わる直前、一月の末のことだ。俺の通う学校は数日後に合唱コンクールを控え、この時期は朝、昼、放課後と、うんざりするくらいに合唱練習が多い。歌うことがあまり得意ではない俺にとっては、あまり積極的に関わりたくない行事だ。
そんな俺に当てられたというわけではないだろうが、俺が所属する二年一組はどうにもやる気がない。今俺たちが呑気に昼飯を食っているすぐ隣の教室から歌声が響いてくる。
そんなときだった。古賀は俺にこう言った。
「黛、お前にはアイデンティティがない」
どういう会話の流れでこんな話になったかは覚えていない。確か、『俺はどんなことにおいてもやり込む人間ではない。だから何かを極められない』……そんなことを言ったか?
「そんなことないだろう。何だよ、突然」
「だってお前には、何かにおいて周りの追随を許さないものが一つもないじゃないか。何をやっても平均以下。むしろ何ができるのかを知りたい」
俺の学校は、偏差値での話なら都内でトップクラスだ。ギリギリの成績で入ってきた俺はこの学校の授業に全くついていけず、冬休み前には見事クラス最下位の通知表を渡されてしまった。ちなみに古賀はクラス一位だ。なんでそんなやつが、俺とよく話をするのかがよくわからない。
そんなことがあったのだから、何ができるのかと聞かれた時即答出来なかった。俺がみんなに勝てること……なんだそれ、俺が知りたいよ。
「……ないかなあ?」
古賀は鼻で笑った。
「黛の能力……例えば学力や運動能力を赤色の棒グラフにしてみるとする」
「うん」
「次に……このクラスの誰でもいい。そいつの能力を同じく数値化して青い棒グラフを作ってみる」
「うん」
「二つのグラフを重ねる」
「うん」
「あら不思議。真っ青だ」
「………は?」
おいおい、ちょっと待て。さすがに聞き捨てならない。それはつまり、俺はそいつに人間として全ての分野で劣っているということになる。
「それはないだろう。何から何まで負けているわけがない」
「へえ。例えば?」
「バドミントンとか」
俺は中学でバドミントン部に入部し、高校でも同じように続けている。部活内で一番強いとまでは言わないが、キャリアなら現バド部部長と同じ年数のはずだ。少なくともこの教室にいるやつには、誰一人として負ける気がしない。
古賀は唸った。
「じゃあ、バドミントンをすることが黛のアイデンティティなのか? それが自分らしさだって言えるか?」
「………」
そこでイエスと言えるほど、俺の神経は図太くない。バドミントンは確かに好きだが、それが俺らしさを象徴できるわけじゃない。人並みに、今日は部活に行きたくない、とか考えることもしばしばだ。二年生になってからは特に。
バドミントンをしている理由だって、唯一周りの人に勝てる競技だからというだけだ。それ以外のスポーツは誰にも勝てないし――
「あ……」
今、俺は何を考えた? 今考えたことは古賀の主張に俺自ら乗ってしまったことにならないか?
「ちょっ、待て、おい……」
まずい、これはまずい。信じたくない。俺は誰にも勝てないのか――?
縋りつくように、言い訳じみた反論を試みる。
「でも、それでもだ! その運動能力の中にバドミントンっていう要素があれば赤い棒が一矢報いることはできる」
「……う~ん」
また古賀は唸る。穴だらけの俺の意見を、こいつは完膚なきまでに叩きのめす準備をしている。
「運動能力って言っても、少し大雑把すぎるな。もうちょい細かくルールを決めるか」
そう言ってから、また思考をして古賀は言葉を紡ぐ。
「……うん。やっぱりお前は勝てない」
「どういうことだよ?」
「だってそれは、黛がバド部だからだ」
「ごめん、ちょっと意味が分からないんだけど」
古賀は姿勢を正した。
「黛、お前はバドミントン始めて何年?」
「もう少しで五年経つけど」
「確か、ユウも同じだよな」
「ああ……」
ユウというのは、部長のことだ。
「お前はユウに勝てるか」
それは……無理だ。俺はユウに出会ってから、一度だってあいつをバドミントンで負かしたことがない。十一点マッチやダブルスでなら何回かあるが、二十一点マッチのシングルスでは勝ったことがない。
ユウは本当に強い。去年……いや、二年前か。俺たちと一緒に入部したあの時点で部活内の誰よりも強かった。どうしようもないくらい、俺とあいつとの間には歴然とした差があった。
「……勝てない」
「同じ年月、バドミントンに打ち込んできたのに?」
……なるほど。古賀の言いたいことが分かってきた。積み重ねた時間は同じなのに俺はユウに勝てない……俺はユウに劣る。確かにそうだ。だけど……。
「あいつを……ユウを基準にするのはやめてくれ。あれは例外だ」
「だったら……そうだな。黛、俺は野球を教わったことがないが、俺とお前が今から野球を始めたとして、俺に勝てるか?」
「………」
俺は言葉を失った。もうこれ以上、その言葉を言いたくはない。
「分かりやすく説明すると、野球部にバドミントンで勝っても意味がない。野球部には野球で勝つこと。相手と同じ土俵に立たなきゃ勝負は成立しない」
何も言えなくなっている俺に構わず、古賀は続けた。
「お前のバドミントン技術は、並の人間が並の努力をすることで得られる……どころか追い越せる」
午後、一発目の授業は物理だった。電気抵抗が範囲で、中学時代にやったことがあるはずなのに俺の手は止まっていた。それは、単に理解できなくて解けないこともあるが……解こうとしていないことにも問題があった。
思考はずっと、さっきのことに傾いていた。
別に、俺とみんなの間にスペックの違いを感じていたのは今更だ。みんなが簡単にこなせることが、俺にはどうやっても出来なかった。そしてそれは数字として通知表で証明されていた。けど……ここまで打ちのめされるとは思っていなかった。
何も考えられないまま、気が付けば物理の授業は終了した。
「さて、一時間経って考えはまとまったかな?」
隣の席の古賀が話しかけてきた。どうでもいいことかもしれないが、こいつから俺に話しかけることは珍しい。いつもは次の授業まで机に突っ伏しているだけなのに。
「考え………ね。まったく、古賀のせいで物理の問題にちっとも集中できなかったよ」
「大丈夫だ。仮にこの話題がなくても解けなかっただろうから」
それはそうかもしれないが。これ以上成績を下げたくはない。いや、下がらないのか。
「思ったんだけどさ、だったらもう勝てないことをアイデンティティにすればいいんじゃないか?」
「というと?」
「何をやっても平均以下。誰にも勝てないダメダメ高校生。これこそが俺を形成する『俺らしさ』になる、みたいな?」
言ってて悲しくなってくるけど。少し前まで週刊少年ジャ○プで連載していた漫画に出てくる、あの人生に負け続けているマイナスの男じゃあるまいし。あそこまで落ちぶれているつもりもないし、そうなりたくない。
「でも、それはちょっと違うんだよな……」
あれ? 古賀が俺の自虐ネタを否定してきただと? さっきのことよりもこっちの方が断然珍しい。乗ってくるか無視するかが古賀だろうに。
「え、えっと……どういう意味だ?」
少し期待しつつ聞いてみる。だがやはり古賀は古賀だったようだ。
「正確に言えば、黛は周りの連中に全てで負けているわけじゃない。ごく稀にだけど誰かの能力を上回ることもある」
「お、おう」
「でも、数で見たときにその個数が極端に少ない。ダメさ加減にしても手の施しようがないレベルではない。ようするに絶対値が小さい。マイナス方面でも中途半端だ」
「あー、もうっ!!」
髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き毟る。じゃあ何なんだ。俺らしさって一体なんだよ!!
「うわっ、どうしたの、黛くん!?」
俺の後ろの席から、驚いたような声が聞こえる。振り返ればそこには集ちゃんがいた。
「気にするな。今、黛はアイデンティティを失っただけだ」
「え!? それって結構大事なものじゃない!?」
古賀が集ちゃんにここまでの話を簡単に説明した。俺が『俺らしさ』をなくしてしまったことを理解した集ちゃんは眉を寄せて心配そうな顔を作った。
「でも……日本は資本主義の国だからね。そういう競争に巻き込まれるのは仕方ないよ」
「くそっ、日本に生まれてきたのは失敗だったか。どこか社会主義の国に生まれてくればよかった。そうすればこんなことで悩まないのに」
「革命でも起こせば? 黛には無理だろうけど」
自分で提案しておきながら自ら可能性を潰すとは、どういう了見なのだ古賀よ。
「けど、GDPが世界第二位の国に生まれたって考えればいくらか気分は楽になるかもしれないね」
「あ、え、なに……GDPって」
「国内総生産のことだよ。その国がどれだけの経済活動をしたのかが分かる基準みたいなものだね。あ、そういえば最近中国が日本のGDPを抜いちゃったから日本は今三位か」
「え、日本、抜かれちゃったの?」
「抜かれましたね。でも四月になるまでは日本はまだ第二位って表記されるはず」
集ちゃんはびっくりするくらい経済面に強い。けど、これが普通だったりするのかな? 実はみんな、こんなことは常識の範囲内で知っていて俺だけが知らないのでは……。
そう思うと、どうしようもない劣等感に襲われる。俺だって非常識を直すために朝にニュースを見ているのに。
「相変わらず詳しいね。そういう情報ってどこから仕入れてるの?」
ここぞとばかりに俺は尋ねてみる。現状の打開策を見つけるために。
「基本的にはニュース見てるだけ。夕方のやつ。それから朝日新聞読んで、あとはYou Tube見たりとか」
ポンポンとメディアが挙げられていく。そんなに必要なのか。じゃあ俺には無理だな……って簡単に諦めるのがいけないのだろう。
「簡単にアイデンティティを身につける方法があるぞ」
「え、何それ!?」
突然にもたらされた朗報に過剰に反応してしまった。古賀に期待の眼差しを向けると、やつは人差し指をビシッと突き出して、
「ズバリ、ここよりも偏差値が30くらい低い学校に転校すればいい」
「……………そこまでしないとダメですか」
項垂れてみせると古賀はさらに言葉を添えてきた。
「別にふざけてないぞ。アイデンティティってものは集団に属することによって初めて浮き彫りになっていく。ここで駄目なら、他のところに行けばいい話だ」
そんなこと、仮に出来たとしてもやらないだろう。たかがアイデンティティごときで。
「もういいよ。部活行く」
ラケットバッグを背負い、教室を出ようとすると古賀が俺を呼び止めた。
「どこ行くんだ。これから歌練だろうが」
身が入らない歌練を終え、その足で更衣室に向かう。
ついさっき、アイデンティティごときなんて思ってしまったことを俺は今になって恥じている。『俺らしさ』をなくしてから俺はそのことしか考えられなくなり、まともに立つことさえ難しい状態になっていた。腰から力が抜けている。足をふらつかせながら部活に出ようとしているがこれじゃ練習にならない気がする。
それでもやるしかない。勉強で駄目なら部活を頑張ってみるしかない。
着替えを済ませ、体育館を覗くとまだ三人しかいなかった。俺が来たことに気付いた三人は練習開始までダブルスをしようと言ってきた。グーとパーでペア決めを行い試合が始まった。
偶然にも俺は正規ペアと組むことができた。つまり勝率は高い、ということになるのだが向こうのコートには……。
「よし、いきますか」
俺は少し筋肉質な体つきをしているシンを一瞥した。別にホモ的な意味じゃなくて。
シンは俺たちが二年生になってしばらくしてからこの部活に入ってきた。この高校でシンはソフトテニス部に所属していたはずだが、バドミントン部を訪れたシンは、
「顧問が必要以上に脅したせいでソフトテニス部に後輩が入ってこなかった。これじゃ団体に出れない。俺はバドミントンで頂上を目指す」
なんとも向上心に溢れる言葉を俺たちにぶつけてきた。去年、俺はシンと同じクラスだったため部活に入りたてのシンにバドミントン技術を教えるのは俺の役目だった。
正直、長くは続かないと思っていた。そうじゃなくても今から練習を重ねても俺には遠く及ばないはずだとこの頃はシンのことを甘く見ていた。
だが俺の予想は見事に打ち砕かれた。シンは急激な成長を見せ、あっという間にレギュラーに上り詰めた。俺との経験値の差は四年分もあるのにシングルスをやってみればあっさりと俺に勝ってしまった。
『お前のバドミントン技術は、並の人間が並の努力をすることで得られる……どころか追い越せる』
さっきの古賀の言葉が蘇る。いや、シンも例外だろう。
あいつは結構運動神経が優れているんだから……。自分にそう言い聞かせて少しでも慰めてみようとしたが、気分は晴れなかった。
結局、この勝負でも俺はシンに負けた。
部活の開始時間、まだ歌練をしていたクラスは多く存在していたようで人数は極端に少なかった。時間が経過していくごとに、ちらほらと部員が姿を見せ始める。そんなやつらを尻目に俺は黙々とフットワークをこなした。冬に入ってからというもの、なかなか汗を掻かなくなっていたが、今日は気が付けばタオルで何度も拭う必要がある状態になっていた。
絶対負けたくない。ユウにも、シンにも。俺より遥かに強い後輩たちにも。みんな倒して俺は誇りを取り戻す。俺は決意を新たにした。
通常のメニューをこなし、試合練習に入ったとき俺はユウにダブルスを申し込んだ。するとユウは困ったような表情をした。
「いや……悪いけど今日は俺の相方がいないから無理だな」
そういえば、六組はインフルエンザにかかったやつらが多すぎて学級閉鎖になっていたっけ。だけど、それにしたっていくらでもコートに入れるだろうに。
仕方なく……というわけではないがシンに勝負を挑んだ。しかし、正規ペアと組んだシンを前に俺は為す術もなかった。この日、他に二試合こなしたが一度も勝つことはできなかった。
家に戻ってきたころには八時に近かった。疲れを感じているのは部活がある日ならいつものことだが、今日は肉体的の意味に加えて精神的にもまいっていた。
すごく不安定だった。まるで広大な砂漠……いや宇宙空間かもしれない。そこに俺は投げ出されてしまい、ただ何もない空間をさまよっているような孤独感がある。自分がひどく曖昧な存在に思えた。
重たいラケットバッグが俺の肩からすると落ちて、ドスンという鈍い音を響かせた。チャックを開ければ、部活での着替えやウインドブレーカー、水筒などが溢れ出てきた。それらの中からスクールバッグを取りだし英語と現代文の教科書を机の上に広げた。明日も授業があるため予習は欠かせない。この高校に入ってからというもの、勉強をしなかった日はほとんどなかった。ただ、今すぐ始める気にはなれない。
「あんた、帰ってたの?」
ウォークマンで音楽を聴いていた俺は母親が部屋に入ってきたことに気付かなかった。イヤホンをはずすと、いつになく真剣な表情の母親に俺は嫌な予感がした。
「あんた成績まずいよね」
俺の部屋の床に無造作に散らばる山のように積み重なった学校関連のプリントを指差しながらそう言った。一番上には前回の通知表があり、俺は畏怖を覚えた。
「ああ、そうだね」
喉から発した言葉が自分の言葉ではない気がする。
「どうして勉強しないの!」
母親の金切り声に思わず耳を塞ぎたくなる。
「俺だって全力なんだけど」
今、俺を刺激させるようなことは言わないでほしい。弱っているところにさらに追い打ちをかけられているようだ。
「そんなもの聴いてる暇があるなら勉強しなさい!」
母親はそれだけ言って部屋をあとにした。
「うっ……」
誰もいなくなった暗い部屋で、体中から力が抜けていき俺は膝から崩れた。右手で口元を押さえる。気を緩めれば、その瞬間に涙腺が崩壊して年甲斐もなく泣き出してしまいそうだ。
限界が来ていた。
「こんな…………こんなの、どうすればいいんだよ……」
勉強でも部活でも、あとで後悔しないようにずっと努力を続けてきた。去年のこの時期にも似たような逆境に立たされて、それでも心だけは折られないように頑張ってきた。奇跡的に学年が上がって、これからはより一層気を引き締めようと誓ってそして実行してきた。
「なんでこうなる……」
絶対に負けたくなかった。たとえ周りのやつらが俺より何倍も優れていたとしても、俺がその差を帳消しにできるくらいに何百倍だろうが何千倍だろうが努力すればいいだけの話だって、いつも自分に言い聞かせた。
「マジかよ……」
俺だって遊びたかった。他に楽しそうなことはいくらでもあった。あのドラマもゲームも、観たかったしやりたかった。けど、みんなと同じようにしたら、きっと負けてしまう。それが現実になってしまわないように我慢してきたのに。
「ああっ、くそ……」
考えが全て負の方向に向いてしまう。なんでもいいから口に出さなければいけなかった。でなければ本当に、今回ばかりは本当に、気持ちが途切れてしまう。もうどうでもいいやって、諦めて全てを投げ出す。そんなみっともないことはしたくなかった。古賀のように俺の事情を悟ったような人間が現れても、他人には弱音なんて一度も吐かなかった。
深呼吸をした。だけど上手くそれができず、いくら吸っても息が苦しい。
腕が勝手にポケットに伸びていき、もう随分と古くなった携帯を掴んだ。LINEを起動し、メッセージを送る。送信先は古賀。既読がつくのは早かった。
『あのさ、頼みがあるんだけど』
『なに?』
『励ましてくれないですか』
『嫌だ。何でそんなことしなきゃいけない。くだらないことで連絡するな』
「ははっ、手厳しい……」
こんなときまでそんなことが言えるお前が、恐ろしいと同時に羨ましくもあるよ。
『劣等感にさいなまれて死にそうです』
『激しくどうでもいい』
『古賀は自分よりすごいやつに会ったことがないから、そういう風に言えるんだ』
『まあ、確かに。俺は誰かをすごいと思ったことはない』
『これから先の将来にも、そういう出会いはないと思うのか? 何でも思い通りの順風満帆な人生が送れると思っているの?』
『そこまでは言わないが。でも俺はどこかで妥協点を見つけてそこに落ち着くことになるかな』
妥協点……か。俺はこんなところで妥協したくない。まだ上に行きたい。俺には無限の可能性があるって信じたい。
『それだけすごい才能があるなら、もっと上を目指してみようとか考えない? 誰にも負けたくないって思わないのか』
『思わない。俺はそこまで疲れることはしたくない』
あまりにも古賀らしい意見に、思わず笑いそうになった。つまり笑えなかった。
これ以上、古賀に頼っても俺の望む言葉はもらえないだろう。LINEを終了させ携帯を閉じようとして、ふとある人物の名前が浮かんだ。
「………」
電話帳からその名前を探す。電話番号はしっかりと登録されていた。発信ボタンを押し、コール音が鼓膜を震わせた。ほんの数回でその人物は電話に出てくれた。
『え、ええ!? ま、マユちゃん!? な、なに突然……』
「あのさ、今ヒマ?」
『え……うん。結構ヒマしてる……』
「なら、自転車で俺の家の近くの公園まで来い。待ってる」
『あ、ちょっ、待ってよ――』
一方的に用件だけ伝えて電話を切ると、俺は制服の上からダッフルコートを羽織り、自転車の鍵と財布を持って家を飛び出した。
神田川は東京都を流れる一級河川だ。俺は中学生のとき、この川はどこまで続いているのだろうと何気なく思った。いつもランニングコースとしてこの神田川沿いを走ってきたがこの川は終わりなく続いている。俺は神田川を偉大だと思った。
インターネットで調べれば一発だったのに、俺は効率の悪いことに自転車を使って真相を確かめようとした。三年前の元日のことだった。だが井の頭通りから神田川に合流し、数時間自転車を漕ぎ続けたところで体力が底を尽き断念せざるを得なかった。引き返そうと思ったときには高井戸駅にいた。
そんな思い出がある神田川は、今ではランニングコースとしてもサイクリングコースとしても重宝している。公園に自転車を停め、寒さに身を縮ませながらそいつを待つ。五分ほどすると、少し遠くから弱々しい光が見えた。それは次第に大きくなっていき、俺の目の前まで来ると消えた。
ミキは額の汗を拭うと、自転車を停めて俺のところまで駆け寄った。ミキの姿を久しぶりに見て、本当にこいつは俺の中学生時代の同級生だったかと疑った。
男子みたいに短かった髪は肩甲骨のあたりまで長くなっていて、汗を掻いた直後なのに何故かいい匂いがする。あたりが暗いせいで注意深く見ないと気付けなかったがわずかに髪に茶色の濃淡がある。背も少し伸びたかもしれない。俺は高校に入ってからそこまで身長が変わっていないのだが、中学のときよりもミキの頭の位置が高い。新しい制服姿も新鮮だ。というか、スカートが短い。膝が見えているなどありえないことだ。
ひたすらにミキの描写を表現したのは、それだけ俺が動揺したということなのだろうか。不覚にも可愛いと思ってしまった。
「……ミキ、お前はメガネをしていなかったか?」
「あ、えっと、今でも家でならメガネをかけているよ。高校からはコンタクトにしてみた」
高校デビューというやつか。なるほど、人は見てくれだけなら変われるものだな。人前に出ると妙におどおどした態度になってしまうのは中学時代のミキのままだった。
「マユちゃんは変わらないね」
「そのマユちゃんって呼ぶの、止めてくれない?」
「いいじゃん、別に。マユちゃんはマユちゃんだよ」
俺はひとつ溜息をついてみせると鍵を差し込み、自転車にまたがった。
「ミキ、時間に余裕はあるか」
「う、うん。それは大丈夫だけど……何するの?」
「別に。ちょっとそこまでサイクリングしようってだけ。悪いんだけど付き合ってくれない?」
「うん、いいよ」
話はまとまった。出発しようとして、俺はペダルに力を加えよう――として唐突に咳払いをしたミキの方を向いた。
ミキは俺と視線が合うと、その場でくるりと回ってみせた。短い紺のスカートが広がった。
「……なに」
「べっつにぃ。何か言いたいことはないかな、と思って」
不貞腐れたような言い方と少し頬に赤みがさしていることを考えれば、ミキが何を言ってほしいかは分かるが……口が裂けても言わない。絶対。
「ふん。中学時代にお前を散々いじめていた連中に見せてやりたいな」
「…………はあ」
やれやれ、といった感じでミキが呆れ返っている。は? 何その態度。というか、いじめのことはミキにはタブーだと思っていたのに、意外と気にした様子は見られない。もう過去とは決別したということか。
「いいから行くぞ」
「はーい」
ようやく、俺たちは公園を出ることができた。神田川に沿って自転車を走り続けさせる。
「ねえ、どこまで行くの?」
「どこまででも。俺の気が済むまで。目的地なんて決めてないよ」
俺たちが進むコースはほとんどが住宅街で、夜道を照らす街灯の光は頼りない。注意していないと向こうから人がやってきていることに気付かないことも多い。
ここでランニングをするのは何も俺だけに限った話ではなく、若い男の人から髪が真っ白になったおじいちゃん、おばあちゃんまでその幅は広い。今も、何人かの人が俺たちに追い抜かされていく。
そのときだった。後ろを走っていたミキがくしゃみをした。
速度をゆっくりと落とし、止まる。振り返ってみると、ミキは鼻を両手で隠していた。
「あはは……ちょっと寒いかも」
ミキの手は真っ赤になっていた。この寒さの中、ミキはコートも手袋もしていなかった。俺はつい舌打ちをした。ミキのこういうところが、俺は嫌いだった。本当は困っていて助けてほしいと思っているのに、誰にも頼ろうとしない。そしてそのまま自分の心を犠牲にしていくのだ。やっぱりこいつは馬鹿だ。
俺が怒ったとでも思ったのか、ミキはおびえたように体を震わせた。
「なんで防寒具を一つも持っていない」
「ご、ごめん、マユちゃん!! その……急いでいたから……!」
ミキの声が尻すぼみになっていく。俺はミキのそばまで歩み寄った。ミキはまるでこれから説教をされる子供のように強く目を瞑っていた。俺はコートを脱ぐと目の前の頭にそれを無造作に投げつけた。
「へ、え、あれ!? マユちゃん、暗くても何も見えないよ!?」
コートを被りパニック状態に陥ったミキは三流のお化け屋敷に出てくるような姿をしている。いや、お化け自体がパニックになっているということは、これはこれで味が出る気がする。
「ポケットにティッシュが入っている。それで鼻をかんでおけ。ここで待ってろ」
そう言い残し、俺は都合よくコンビニが目の前にあってくれたことをラッキーだと思った。財布を持っていたこともついてる。普段は何も買わないために金は持ち合わせていなかった。
目当ての商品を買い、さっきの場所に戻る。そこではミキが俺のコート着込んで自分の両手に白い息を吹きかけていた。
「カイロ。それとお茶が入っている。使え」
それらが入ったビニール袋を差し出すとミキは申し訳なさそうに、
「ごめん、マユちゃん。私お金を……」
「ああ。だから今度でいい」
こんな場所では邪魔になるので、俺たちは公園まで移動した。こうしてベンチに並んで座っていると客観的にはカップルに見られてしまいそうだ。まあ、誰もいないようだから構わないが。
カイロをこすりミキはそれを両手で包み込む。そしてしばらくすると熱いお茶を取りだし口に含んだ。
「ほぅ……」
まったりとした声が漏れた。
「えへへ。なんかマユちゃんが優しい」
「バカ言え。俺は誰にだって優しい紳士だろうが」
「うん。そうだね。……マユちゃんってそういう人だった」
嬉しそうに目を細めるミキ。今の言葉には色んな感情がこもっていた気がする。フラッシュバックのように数年前のミキの姿が頭に浮かんだ。
ミキは本当に弱い人間だった。こいつとの付き合いは小学生の時からだが、当時から人の顔色ばかりを窺っていた。他人との付き合い方が極端に下手くそでいつも陰口を叩かれて、中学の一時期には心が壊れかかっていた。実に可哀そうなやつだ。
「ねえ、マユちゃん。今日はどうして誘ってくれたの?」
「ん?」
そうだった。俺は今日、どうしてこんなやつと会っているのだ。もちろん俺が呼びだしたからなのだがミキを選んだ理由は何だ?
……いや。そんなことはとっくに理解している。どうにも俺は答えがはっきりしているのに問題を無意識の内に先延ばしにしてしまう傾向がある。
俺は、親身になって話を聞いてくれる人が欲しかったんだ。電話帳に登録されている友達の数は多いけど、俺が必要としていたのはミキただ一人だった。
「別に。誰でもよかったけど、家が近かったから。それだけ」
夜空を見上げて言う。黒く塗りつぶされた空に星は見えない。ただ、それは俺の目が悪いせいであって星は確かにそこにある。以前、メガネをかけて見たときにはぼんやりと白く輝いていた。
素直に伝えたら、ミキはだらしなくニヤニヤと笑うだろう。でもできなかった。
「……うん、そっか」
どこか納得したような声音だった。もしかして今の嘘は見抜かれているんじゃないだろうか。ミキは頭が足りないこともあるが、大事なときは勘が鋭く冴えわたる。
「じゃあそういうことにしておくとして」
間違いない。完全に看破されている。さっきから必死に笑いを堪えているのがいい証拠だ。
「なんだよ」
「知ってた? マユちゃんって、嘘ついたり誤魔化したりするときに空を見るんだよ」
……今度からその癖には気を付けよう。
「何かあったの」
俺は観念して今日の出来事を話すことにした。俺が高校では成績が悪いことを知ったミキは大袈裟なくらいに驚いた。そしてアイデンティティを失ったことについては神妙な顔で聞いていた。
「でも……私にとってマユちゃんはただ勉強が出来るだけの人なんかじゃないよ?」
「例えば?」
なにげなく尋ねたつもりだったがミキは両手をブンブンと振って俺の予想以上に慌てた。
「あ、えっと、その! 例えば私が悩んでいたときに電話かけてくれたりとか! あ、あと私が泣いている時には『俺には関係ない』みたいな顔をしつつも泣き止むまで傍にいてくれたり! なんだかんだ言って実は優しいところが大好きだよ!!」
静かな公園に響くミキの声。山彦のように反射した自分の声が戻ってきたときミキは顔を真っ赤に染めた。
「あれ!? 今、私何言った!?」
「……俺が聞きたいよ」
残念ながらミキが言ったことはミキにとって俺がどういう存在ってことなのであって、アイデンティティとは認められない。頭がくらっとしそうなセリフではあったが。
「ごめん。私バカだから……マユちゃんの言いたいことがよくわからないよ」
「それでもいい」
俺が『俺』を取り戻すための解決策をミキに出してほしいわけじゃなかった。もう既に目的は半分以上達している。そろそろ、サイクリングを再開したい。結構な時間がたつのに全然進んでいない。
「休憩は終わりだ。いいよな」
「うん。あ、カイロとお茶、ありがとうね」
冷たい風を一身に受け、俺たちは走り出した。でも今はこの冷たさが気持ちよかった。余計なことを考えることはなくなり冷静になれる。自分自身では受け止めきれない困難に遭遇してしまったとき、俺はよく街を練り歩いた。それで具体的にどうなるわけでもないが無性にそうしていたくなる。このサイクリングも同じだ。
「あのさ、私の話をしてもいい?」
後ろからのミキの声に俺は振り返ることなく頷いた。
「私ってさ、すごく地味な子だったじゃない?」
「そうだな」
「それが嫌だったの。どこに行っても後ろ指さされている感じがして。誰かが笑ったりすると、自分のことをからかっているんじゃないかって反射的に疑っちゃう」
「そうか」
「マユちゃんがいてくれるなら、このままでもいいかなって思ってたけど、高校からは別々になっちゃったせいで、私はまた不安になった」
自転車を漕ぎながら話し続けていたため、ミキの言葉が不自然に途切れる。人通りが多い道路に出た。雑踏による騒音や車の走る音がうるさい。ミキは声を張り上げた。
「このままじゃ駄目だって思った! 私が私のままでいたら、またつらい思いをする! だから私は、一度私を壊した!!」
それは昔のミキの姿のことか。あれを壊し、今の女子高生らしい外見を手に入れた。
「たったこれだけのために、時間やお金がたくさんかかった! 誰かに教わることもできないから自分の力でどうにかするって決めた!」
再び、人の少ない暗い道へ入った。真横には誰もいない高校のグラウンドが広がっていた。俺はこんな静かな場所で叫び返した。
「ミキ!! そのことに関して、俺はお前をすごいと思う! 自分に何が足りないかを考え、それを解決するための手段を実行する。簡単なようで、なかなかできないことだ!」
「でもね!! 本質的な部分の『私』は変わらなかった! この性格もどうにかしたかったのに!」
「もしかしてそれこそが! ミキのアイデンティティなんじゃないのか!?」
「こんな『私』はいらない!!」
俺が欲している『自分らしさ』を、ミキは自分で捨てようとしている。
「もっと明るくなりたい! イケてる女子になりたい! 学校を楽しみたい! もっと簡単に笑えるようになりたい!」
ミキも俺と同じように、まだ妥協したくないのか。さらに自分自身を磨いて成長を続けていたい。そう考えているのか。
だったら――
「じゃあ、しょうがねえ!! それならもっとやるしかない。駄目でも駄目でも、諦めそうになっても! それでも続けるしかない!!」
目の前にはものすごく急な坂がある。ペダルを踏む足に強い力を込める。ただひたすらに漕ぎ続けて前に少しずつ進んでいく。足に痛みが走る。明日は筋肉痛かもしれない。でも明日のことなんてどうだっていい。今が俺にとっての全てだ!
坂を上り切ると景色は少しだけ高くなる。あれは……何線の電車だろうか。遠くに見える電車が川を横切っていく。
遅れて、ミキも到着した。ぜえぜえと荒い息を吐いている。
「だ、だから……マユちゃんも……もう一度立ち上がろうよ。私も頑張るから」
「ああ、そうだな……」
空を見上げると星が淡く輝いていた。
朝起きると、予想通りの筋肉痛だった。体中が軋んで満足な身動きができない。部活のあとであんなに爆走するなんて正気の沙汰ではない。
でも気分はすっきりとしている。気持ちは前を向いている。
自分で自分を救うことができるやつは本当にすごい。それができるのは、もう一人でも生きていける人間だ。俺にはできなかった。ミキに助けてもらうことでようやく立ち直ることができた。俺は情けないやつかもしれない。
しかし、これでいいと思える。誰かに支えてもらっても問題じゃない。誰かに頼ることはむしろ強さが必要な気がする。
悔しい気持ちはある。この感情を忘れる方法はひとつしかなくて、勝つ以外にない。
朝ごはんを食べて、制服に身を包む。そして時間を確認する。
「やべっ、朝練……!」
部活ではなく、合唱コンクールの方だ。本番まで時間はない。いきなり出鼻をくじかれた気分だがまずはここから頑張っていこう。
ここから俺の『俺らしさ』を見つけ出すための物語は始まるわけだが、それを語ることになるのはまた別の機会だ。
いかがでしたか?
なんか、後半はアイデンティティ関係ないような……。