5話 笑顔は誘惑のヒ・ケ・ツ
* * *
鼻がむずむずして目が覚めた。
寝起きは最悪だ。無理矢理起こされた気分になる。
この世界へきてから、なぜか鼻先に違和感を感じて目を覚ますことが多くなった。別にくしゃみが出るわけでもないのに、くすぐったいようなかゆいような違和感がある。
きっと慣れない世界環境に準ずるアレルギー反応のようなものだろう。ちょっぴり心配なのは日本に存在しえなかった細菌やウイルス、寄生虫の存在。免疫がないので抵抗なく病にかかりそうで怖いのだ。
こんな心配はおそらく、父親や叔父の影響であろう。彼らは薬剤師と医者で、ついでに叔母さんが看護師をしており、父方の家系はみんな医療に関係する職業に就いている。ついでにいえば、母方は小中学校の教師だったり、大学で教鞭を取っていたり、保母さんだったり……いわゆる教育者系統の職業に就いている。親戚みんな同じようなものなのだから、これはもう遺伝子レベルで組み込まれた運命なんじゃなかろうか、とさえ思った。
「よし、今日もがんばりますか。行ってきまーす」
現代日本からの唯一の持参品である着物にあいさつするのが日課だ。茶色の木造部屋には着物の色がやけに目を引く。今も変わらずきれいなままだ。初日にオヤジさんが『防なんちゃらかんちゃら』をかけてくれた、らしい。名称はよくわからないが、着物が汚れたり虫に食われるのを防いでくれるらしい。コックのマイクがこっそり教えてくれた。オヤジさんの隠れたやさしさにビビッときた。
さて、『豚小屋』で働き出して一週間が過ぎた。働いている人って本当にすごいと思う。仕事は心身共々神経すり減らしてお客さんに尽くす仕事。疲れる。でも、同じくらい、いや、それ以上に充実していて、忙しいなかの楽しさもわかってきた。
お客さんの笑顔を見ると、こちらまでうれしくなる。あれ、あたしって人に尽くせるんだ、という再発見でもあったり。
けれど、おかしいな。一週間経つとあら不思議、自分がなにか勘違いしていたのではないかと思いはじめた。
接客業は『笑顔』が大切。これは現代日本に住んでいれば刷り込みのように当たり前として受け入れている。お客さまは神さま。お金を落としてくれるのだから、せっかくだしそれに見合った時間を過ごしてほしい。来てよかったと思えるひとつの理由になりたい。そう思うのは自然なことだろう。
よってあたしは笑顔を、愛想をふりまく。働きはじめのころは尚更、よく思われたくて、仕事ができないのだからせめてもと、一生懸命笑顔で……だって女は愛嬌ですから。
しかし気持ちにちょっとずつ余裕が出てくると、お客さんみんながあたしの笑顔に目を見開いているのがわかった。あれかな、女の子ひとりだからめずらしいのかしら――なんてことは見当ちがいだったらしい。
ウェイトレス五日目の日。とうとうあたしはやらかしてしまったというわけである。
「いらっしゃいませー」
いつもどおり、いつものように、笑顔で愛嬌たっぷりに愛想をふりまくあたし。男性五名のお客さんを席に案内し、ご注文をとる。もちろん、笑顔で。
「ご注文はお決まりですか?」
「えっ……あ、その……」
にっこり笑みで問うと、お客さんのお一人が目を見開いていた。おや、と思い同じ席のお客さんたちに目を走らせると、みなさんやはり微妙な反応だ。最近、こういう反応が多いなぁと思う。瞠目されたり、ニヤニヤされたり。
どうしたものかと内心首を捻ると、赤毛のお客がなにやら頬を赤らめているのを発見。え、なにどういうこと?!
今度はこちらがびっくりした。それでも、客の前で取り乱すという失態はできない。あくまで表面上は笑顔で。
すると彼、相変わらず髪色より頬を真っ赤に染めて、しかし眉根をよせて厳しい表情でこちらを見てくる。
もしや、粗相をしちゃったのではなかろうか! 「なにテメーこっち見てんだアアン?」みたいな?!
ぞっとした。こんなに顔を真っ赤にして怒らせるような失態をするのははじめてだ。オヤジさんの拳骨が炸裂するのが目に見えている。やばい、怖ぇ。
ス、とお客が立ち上がった。
「ちょっと、君――その、女性が、むやみやたらと笑いかけるものではないよ」
恐々肩を縮めるあたしにかけられたのは、思いの外やさしい声だ。もっと怒鳴られるかと思っていたので、肩透かしをくらった気分でもある。
恐る恐る目をあける。他の同席の四人は肩を震わせなにかに耐えているが、件の彼は相変わらず真っ赤な顔で、しかし諭すように喋る。
「それに君は見た限り……あー……うん、まだ、男性を相手にするのははやいだろう?」
「はい?」
ちょっと雲行きがあやしくなる。というより、わけがわからないぞ。
笑顔で接客したのが悪かったのだろうか。まさか、と思うが、彼の言葉はそのまさかを示している。加えて、誘っているって――いったいどういうことだろう。
追い打ちをかけるように、他の四人がふき出したものだから余計わからなくなったし。
あたしは改めて、目の前の男をまじまじと観察した。
まず印象的なのが髪の色だ。夕暮れ時を思わせる、きれいな赤をしている。瞳は宝石のような翠だ。一見、眉目秀麗で上品さがあるけれど、健康的な肌色と鼻のあたりにちょっぴりのっかったそばかすが、なんとも言えない愛嬌をかもし出している。唇もどちらかといえば厚く、流し目はセクシーなんだろうなと思わなくもないけれど、やはりそばかすが印象的過ぎて、うつくしいはずの顔立ちも『カワイイ』と感じてしまう。おもしろい造形だな、と失礼なことを思った。
「な、なにを見ている……のですか」
しかも、顔を真っ赤にして敬語で注意してくるとか……いじられキャラじゃなかろうか。
あたしがあまりに集中してガン見していたせいだろう。彼はすとっと椅子に腰かけ、あたしの視線から逃れようとする。ついついおもしろくて、彼を追う。自然と見上げられる形になり、加虐心が首をもたげてきた。
「こーら、カッコ。そこまでにしとけ~」
「オヤジさん!」
無意識に手をわきわきしていたら、背後から首根っこをつかまれた。オヤジさんたら、いいタイミングでくるわねぇ。
彼は呵々大笑しながらあたしを遠ざけ、いまだ頬を染めていた彼に向き直る。
「相変わらずノーアは真面目さんだなぁ」
「からかわないでください」
ぷい、と頬を背ける様は言葉通り拗ねているこどもだ。見た目的にいい歳した男のはずなのに、仕草が母性愛と加虐心を同時に刺激するという荒業を繰り出す。
身を捩りながらその攻撃に耐えているあたしを無視して、オヤジさんは例の青年と語り出した。わざとらしく恭しい態度で、だ。
「カッコは田舎から出てきたばかりでねえ、お客さん。王都の常識も通じねえとこなんでさあ」
「田舎……? どのあたりだ?」
「さあ。山を越え谷を越え、そのまた海を越えた向こうだったと思いますよ」
青年の生真面目で鋭い問いにもオヤジさんは飄々と答える。からかっているのか、はぐらかしているのか。
そもそも、オヤジさんから出身を問われたときに答えたあたしの言葉そのまんまを伝えるとはどういう了見だ! すくなくとも、そんな嘘は通じるはずもないと思う。あのときはオヤジさんが情けをかけて嘘を信じたフリをしてくれたんだろうな、と思ってたが……オヤジさん、まさか天然さんなのだろうか。
しかし、赤毛の青年はふむ、と頷いたきりそれ以上質問を繰り返しはしなかった。そういえば、オヤジさんも最初は同じような反応だったよなあ。
適当に答えたはずだった。でも、もしかしてその答えに信憑性だとかがあるのだろうか。
勘違いしてくれるなら目を瞑ろう。逆に尋ねられても応えられない。この世界が夢ではないのなら、日本までの道のりなんて、わかるわけないんだし。
「わかった。君、えっと――」
「カッコだ」
ふと、背筋をぴんと伸ばして再び立ち上がった青年がこちらに向き直る。あわあわしているあたしに代わってオヤジさんが名前を教えた。カッコじゃなくて、カコですけれどね。
ひとつ頷き、彼はきれいな翠の瞳をまっすぐこちらによこし、軽く頭を下げる。
「カッコ、勘違いして悪かったな」
声は真摯で、どこまでもまっすぐで。
あたしの胸になんの障害もなく辿りついた。
オヤジさんが言っていたけれど、彼はまぎれもなく真面目さんなのかもしれない。ここまでまっすぐな視線や声を、あたしは知らない。はじめてだ。
あたしはただ、「いいえ。大丈夫です」としか言えなかった。先ほどは穴があくほど見つめることができたのに、もう、こちらからまっすぐ見つめることはできなかった。
だってきっと、かちあう――あのどこまでも見透かしたような翠と、かちあう。
ようやっと席につく彼。同席の四人もついでメニューから品を注文する。
まごまごするあたしの頭に、オヤジさんの乱雑な手がやさしく落ちた。
――ああ、恥ずかしい。
*
あとで聞いた話、笑顔で支給するのはたいそうめずらしいらしい。特に女性はそれだけで誘っていると思われても仕方がないことなのだとか。んなアホな。
そうは言っても、この国では常識なのだと言う。オヤジさんたちめ、おもしろがってわざと教えてくれなかったな!
思い返すと、なんとも微妙な反応であったこともしばしば……いや、常に。
あの赤毛の青年も、なぜ顔を真っ赤にしていたのか今なら理解できる。謝られることなんてなかった。むしろ日本の土下座を披露すべきはあたしのほうだ。
言葉にならないうめき声がもれる。おそらくあたしの頬は、あの赤毛さんと同じ色に染まっていることだろう。
*
そして、異世界にきて十日目の夜――ここが夢の世界ではなく、現実で、異なる世界に迷い込んだのだと――あたしは受け入れることにした。
理由はたくさんある。
まずは、寝ても覚めても現状が変わり映えないこと。オヤジさんたちのやさしさが身に染みて、いつまでも現実逃避はしていられないと思ったから。
そしてなにより……視えないものが視えたから。受け入れるしかなかった。