3話 『豚小屋』にて
* * *
「いらっしゃいませー」
「ご注文をお伺いします」
「こちらへどうぞー」
今日も飲食店『豚小屋』は大繁盛。あたしもエプロンを身に着け注文を取る。紅一点でがんばっているのだが、店員からもお客からも、あたしは幼い『少女』なのだ。
ここであたしは衣食住を手に入れた。
夢から醒めないことに愕然とした、異世界初日のあのときから――
*
いつまでも現実逃避はしていられなかった。
とりあえずとことん現実逃避をしてその場から意地でも動かなかったんだけど、翌日には腹も減るしで街を彷徨うことにした。軽くはない着物をそっとたたみ、小脇に抱える。
昨日とはちがい朝はやいせいか人通りはすくない。のろのろした足取りで十字路を右に曲がり、鼻孔をくすぐる匂いを頼りにひたすら歩を進めた。
おそらく、パン屋であろう店の前に辿りつき、ごくりと生唾を呑み込む。真っ赤なとんがり屋根が印象的な店だ。ドアの隙間から見える店内は小ざっぱりとしていて、カウンターの向こうに人影が幾人か見えた。
とりあえず、人間は表情とジェスチャーでどうにかなるものよね!
木製のドアを押しあける。ベルがチリリと小さくなって来客を告げた。
やがて奥から現れたのはいかつい顔のおじさま……ちょび髭が素敵だけれど、右頬にどう見たって刀傷らしきものをこさえているおやっさんだ。
あ、あんた絶対カタギの人じゃないですよねぇー?!
短い悲鳴を呑み込み、なんとか引きつった笑みをつくる。
「すみませーん! あの、パンはおいくらですか?」
いきなり大きな声で身振り手振りで話しはじめたせいだろうか。店主は怪訝な顔でこちらを見てくる。
だめ! ここで挫けたら朝食が手に入らないんだから!
「あのー、わたし、お腹減ってまして……ぐーぐーです。あの、本当にすみませんが、パンを恵んでくださいませんでしょうか……。あ! もちろん働きます! そうだ、むしろ雇ってください!」
身振り手振り、お腹を抑えて空腹を表現したり、両手を組んでなんとか悲壮さをアピールしつつ伝える。と、オヤジさんの太眉がぴくりと動いた。
「おめぇ、いきなりでけー声でなに言うかと思えば……そんなことか」
「そうなんですよ! あたしの言葉なんて通じないと――あれ?」
「表の貼り紙見てきたんだろ? ちょうど住み込みのアルバイトがやめてよ。おまえさんさえよけりゃ、募集の働き日数より増やしていいか」
「はっえっ……ええ?!」
「なんだ? ただのひやかしっつーんならタダじゃおかないぞ」
無駄に筋肉のある腕をまくりあげたオヤジさんにあわてて首を振る。
願ったり叶ったりとはこのことだ。食事と住処を手に入れるなんて! ついでに言葉も通じているとか……オヤジさんめ、さては日本人か?!
とにもかくにも、窮地を救われそうな予感にぶるりと震える。
「あの、わたし一生懸命働きます! どうか雇ってください」
がばりと頭を下げる。すると、頭上でふふん、とオヤジさんは鼻を鳴らした。
「よし、さっそく働いてもらおう。うちには朝食を食べにくる客が大勢いるからな」
オヤジさんもとい店主に急かされ、奥の部屋へと案内される。店員の控室だろうか、エプロンをつけて格好を整える人が幾人か見えた。さっそく準備に追われ、隣の厨房へ駈け込んでいく。
もしかしてここはパン屋さんではなくて飲食店なのだろうか。パンの焼きたての匂いがしたからてっきりパン屋さんだと思い込んでいたけれど、オヤジさん曰く『レストラン豚小屋』らしい。うん、センスを疑うけれど、名づけたのはオヤジさんの奥さまらしいのでお口にチャックしたよ!
人手が足りないということで、あたしもさっそく働けと命じられ、黒地に赤の丸が三つ並んだエプロンをつけて狩り出される。注文とってこい、ということらしい。
存在感ありありな着物は意味深な目で見ていたオヤジさんが素手で触れないようにきれいなタオルで包んでさらに部屋の奥へともっていく。汚れないように保管してくれるらしい。「こんな高そうな衣を与えるたぁ……いい親御さんだったんだなあ」としみじみ言われた。なぜだ。
余談だか、素足のあたしを怪訝に見たあと、オヤジさんは店の倉庫から古めかしいスリッパを出してきてくれた。ちょっと煤汚れていたのでオヤジさんがバシバシと叩いて誇りを消滅させてくれた。いつまでも裸足でいるのは現代人のあたしには違和感ありまくりだったので、汚れていたスリッパだろうがうれしいことに変わりはない。
さて……ここまできて、ひとつ、気づいたことがある。
なんと、オヤジさん以外の人が喋っている言葉が理解できないのだ! かと思えば、ちゃんとあたしに話しかけてくれる言葉はわかったりする。つまり、あたしと相手の意識が互いに互いへ向いていないと言語翻訳はされないらしい。
なんてややこしい設定であろうか! 夢ならはやく覚めてほしいし、どうせならもっとご都合主義な展開でいいと思う。
「ご注文は?」
「ニシシメの炒め物とスファのスープを」
「? か、畏まりました」
メニューもよくわからない素材を使ったもののようだ。ただし、厨房から漂う匂いは香ばしい限りで、空腹にはこたえる。これは賄いを期待するしかないか。
てんてこ舞いになりながらなんとか注文を取る。この世界の料理名はうまく聞き取れないことが多くて、二、三回――いや、五回くらいは聞き直してましたけれども。そのたびに客の不機嫌な表情やオヤジさんの握られた拳にびくびくしつつ、あたし自身のなかでは一生懸命に働いた。
感想は、飲食店ってとっても大変ってことだ。今ならファミレスで働いた静香ちゃんの気持ちがよーくわかる、気がする。あたしもバイトでも経験しとけばよかった。
「では確認いたします。酢豚のドンブリと大根の味噌汁的なものですよね?」
「いえ全然ちがいます。スファとブルドンのダージャー炒め汁風味です」
「はぁ?」
なんじゃそりゃってメニューの数々。空腹時ということもあり、だんだん苛々してきたのはご愛嬌。それでも最後まで笑顔でやり通したあたしをだれか褒めてほしい!
加えて、周囲の会話はやはり異世界語。聞き取れない言葉が耳を支配して複雑な気分になる。どこか感覚をシャットダウンしてないとやってられない。
午前中の混雑時をなんとかやり過ごし、来客がまばらになり、ついに人の足が途絶えた。
カウンターの奥から出てきたオヤジさんは、やっぱり口を真一文字に結んでしかめっ面そのものだったけれど、ちょっぴり目元が柔らかな気がした。
「お疲れさん。初仕事はどうだった」
「ありがとうございます。ええ、想像以上にキツかったです」
特にオヤジさんの拳とまなざしがね!
ため息まじりに言ったと同時に、腹がうめき声をあげた。それは地底獣が洞窟の奥で唸り声をあげたかのように奇妙で、長くつづいた。
はじめオヤジさんもびくりと肩を震わせ周囲に目を走らせたくらい。やがて珍妙な音が目の前にいる娘の空腹の音だと悟るや否や、口をあけて豪快に笑い出した。
オヤジさんの轟く笑い声は店中に響き、後片付けをしていたウェイターや厨房のコックまでもが何事かとひょっこり顔をのぞかせる。
こちらはたまったもんじゃない。熱くなる頬を両手で隠し、とりあえずつま先を見つめることに集中した。オヤジさんからいただいたスリッパはすでに寿命が尽きそうである。特に親指あたりが頭をひょっこり出していた。
こりゃあ、お給料もらったら即靴を買いに行かないと。それからスリッパも弁償しよう。
「ああ、腹が減ってたんだな。初仕事のご褒美だ、厨房でなんか作ってもらえ」
オヤジさんは天使のような笑顔でそう言った。
あたしの胸はキュンと高鳴る。やだ、おじさま素敵……!
「おお、おめぇ新入りだってのによく働いたらしいじゃないか」
「こんな仕事場だろ? 女の子はみーんな辞めちまってよぅ」
「おまえさんは根性ありそうだな。まぁ、そんな年で働きに出るんだから、仕方がないか」
厨房の方々がオヤジさんの背後から顔を出して口々に言う。あいにく、あたしの方に意識を向けていないひとり言っぽい言動は翻訳されなかったけれど。
余談であるが、ここの厨房人たちはとてもではないがコックには見えない。一見まるで戦士だ。オヤジさん同様、無駄に筋肉モリモリだし、血塗れた出刃包丁をもった姿は人を殺してきたあとのような印象を抱かせる。なによりみなさん、オヤジさんの言葉への返事が「オス!」と地も轟く軍隊式。お客は慣れているようで、ビビったのはあたしだけだった。
それにしても、厨房の人たちはいろいろ誤解しているようだ。とりあえず、腹ごしらえしてから訂正しよう。すくなくとも今は、あたしは食べることだけしか考えられないみたいだから。
「よし、俺がうめぇ賄いつくってやるぜ!」
「そりゃあいい! ニコルの料理はうめぇぞお!」
「俺らにもおすそ分けくだせぇ! なぁ、お嬢ちゃん」
「えっと、アンタのお名前は――」
やけに好々爺とした人が腕をたくし上げて揚々と厨房に引っ込む。次いで他の店員もあたしを手招きしつつあとにつづいた。なかでも一番若い店員が、ふと名を尋ねてくる。
そういえば、まだ自己紹介もしていなかったんだよね。人はお腹がすくと頭のネジが緩んでしまうんじゃないかしら。
あたしは名を名乗ろうと口を開きかけたけれど、声はオヤジさんの言葉に呑み込まれた。
「ああ、そういやおまえ、なんて名だ?」
店員は唖然とした顏で、そろって店主のオヤジさんに目を向けた。