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2話 醒めるまで

  * * * 


 息が荒い。足が重い。いっそ走るのをやめたら楽になるんじゃなかろうか。たとえその後、耐え難い拷問が待っていようと――いや、やっぱり足は止めたくない!

 さすがは王国の軍隊だ。ぴったり一定の距離を保ってあたしを追いかけてくる。無駄な力は使わず、獲物あたしが疲れて足を止めるのを狙う狩人やつら

 天を仰ぎ、ありとあらゆる穴から呼吸してやろうとも、今まさに体力は尽きそうだ。

 く、恨むぞ、アイゼイヤ・ウィスラー!

 路地裏に逃げ込み、角を曲がる。と、突然腕をガシッと掴まれ、建物内へ引っ張られた。そのまま階段を駆け上る。

 前を走るのは小柄な少年。ちょうど一週間前に知り合った《隠者》の弟子だ。

「エゴン?! どうしてここに」

「アイゼイヤが助けに行けって言うから! あとで詳しく教えてやるよ」

 それは有難い申し出だ。あたしは息もからがらで、会話をするにはむいていない状態だったから。

 階段をひたすら駆け上がる。屋上でだれが待っているかなんて容易に想像できるけれど、奴があたしを助けることは片鱗すら想像できやしない。

 それでも逃げるしかないのだ。二十歳を過ぎて体力を失っている身体に鞭打ち、馬車馬のごとく逃げるしかないのだ!

 そもそも、あたしはツイてるはずだ。それなのに、あたしを怪しむアイツが出てきて事は急変したのだ。アイゼイヤに次いではた迷惑で、奇妙で、謎めいた男だ。


 さて、どうしてあたしが追われる身になったのか――それは涙なしには語れない出来事があった。そもそも、現代日本で生まれ育ったあたしが、どうして西洋風の名前の少年とお友達かと言うと、それも涙なしには語れない事情があったのだ!

 ともかく、すべてのはじまりは三か月前。きっと、永い夢をみはじめたあの日がはじまりなんだ――。




  *


 二十二歳の誕生日。

 風呂上がりのビールででろんでろんに酔ったあたしは、なにを思ったかクローゼットの奥からふるめかしい袋を取り出した。数年間実家の箪笥に眠っていたそれは、三年ほど前、独り暮らしを機にアパートのクローゼットへと移された。

 包みをあける。着物の匂いだ。懐かしい。

 淡い緋色と白のグラデーションが美しい生地だ。白地には緑の花が映える。

 酔っ払わないと取り出せないなんて、あたしはいつまでも弱虫らしい。この、根性なしめ。

 着物に足袋に扇子、踊りに必要なものはすべてそろってる。

 あたしは着物を肩に軽くかけ、朱色の扇子を持った。自然と背筋が伸び、酔いも冷めたかのような錯覚。

 ああ、覚えているんだ。

 身体も精神も、おばあちゃんから教えられた踊りを覚えてる。


 す、と扇子を広げ、形をとったそのとき――まばゆい光に覆われた。

 なんだ、と思った次の瞬間には、あたしの目の前には見たこともない世界が広がっていた。

 同時に。

 ざわりと周囲がどよめいたのがわかる。ぎょっとしたあたしの目に入ってきたのは、生まれてこの方見たこともない光景だった。

 一度目をとじ、深呼吸する。落ち着け、今のは泥酔の果てで見たまぼろしに過ぎない!

 まず鼻孔をくすぐったのは強烈な土の匂い。それも、雨で濡れた独特の匂いが鼻をつく。次におやと思ったのは足裏の感触。風呂上りなのでもちろんのこと裸足だったあたしは、ぬめった土に素足をつけていた。耳が拾った音はこれまた奇怪な……とにかく、リスニング不可能な言語の数々だった。

 そこまで知覚してようやく、あたしは目の前の光景がただの幻でないことを理解した。

 まさしくここは――ファンタジー!


 ……落ち着こう。

 ファンタジーは好きよ。杖をひと振りして魔法をお披露目することも、箒にのって空高く飛ぶことも夢みた……でもそれは十代前半のころのお話で。成人済の女がみる夢にしては異様だと思う。

 あたしがいるのは『街』らしい場所の十字路だ。石畳の幅広い道がどこまでもつづいている。はじめ壁かと思った建物はそれぞれ道の両脇に立ち並び、ところどころ小窓が開いていた。イメージでいえば大きなアパートが軒を連ねている感じだ。

 人で賑わったそこには店がずらりと肩を並べている。お祭の屋台に近しい。奇抜な色の果物にグロテスクな生物の死骸、ボコボコ泡立つ飲み物、目玉のアクセサリーなどなど……実に見たこともないものばかりが所狭しと並べられているようだ。

 道を行きかう人々もこれまた日本人とは程遠い。西洋人に比べればのっぺりしていて、東洋人と比べると彫りが深い。髪の色もカラフルで、黒髪の人間は見た感じいない。

 ここが日本じゃないとすればどこだ。そもそも、夢の世界にしてはやけにリアルである。ほら、足裏の気持ち悪い感触とかさぁ。

 そもそも、頭に籠をのっけて歩く人、馬に荷物をのせて運ぶ人が現代日本にいるだろうか? だれかドッキリだと言ってくれ……!!!


「オーケー。落ち着こうぜ、佳子」


 額に手をあて、深く息をこぼす。

 うん、きっと飲み過ぎて疲れてたんだ。だめねぇ、まだ二十代だからって飲み過ぎたのよ。肝臓に悪いし、これからは控えようそうしよう! こーんな妄想とも呼べないおかしな幻想をみるなんて、相当酔っぱらっている証拠ね。

 とにかく、そうね。たとえ夢のなかでもおかしな行動はしたくない。とりあえず隅っこに行こう。このまま十字路のど真ん中にいるほど神経図太くないしね。

 肩に羽織ったままの着物をぎゅっと抱きしめ、そそくさと道を移動しはじめる。

 幸い、忙しなく動いている人々はすでにあたしのことなど眼中にないようだ。はじめは目を見開いてあたしの登場にざわめいていたようだけれど、足を止めることはなかった。どこか不安げな様子で、足早に通り過ぎていく。今ではあきらかに異質な格好をしているあたしを、彼らはチラとも気にしていない。

 街ゆく人と肩がぶつからぬよう気をつけつつ、どうにか混雑から解放され、裏路地に入った。

 歩いて再確認できたことは、すれ違う人みんな日本語以外の言語で喋っているということ。英語でもない。ちっともわからん。理解不能な言葉だった。

 だんだん血の気が失せてきて、暗がりをいいことに壁に背を預けしゃがみこむ。いい年した女が迷子よろしく見るからに「落ち込んでます」状態だなんて、恥ずかしいことこの上ないけど!

 なぜ、こんなことになってしまったのか……誕生日を共に祝う恋人もなく、一人寂しく風呂上がりのビールを楽しむなんて枯れた女になったせいだろうか……そんなばかな!

 着物を頭からすっぽりかぶり、目をとじた。世界をシャットアウト。



 ――着物の匂いをかいで、すこしだけ、ほんのすこしだけ安心したのは内緒だ。

 久しぶりに箪笥の奥から出した着物がこんなにも安らぎを与えてくれるなんて、ちょっとびっくり。そもそも、『踊り』との関係を断ち切ったのは九年前、あたしが中学一年生のころだ。

 そのときのあたしはとにかく、すべてが気に食わなかった。いろんなことが思い通りにいかなくて、無性に寂しくて、わけもわからず苛々して……今思えば、そういう年齢だったんだろう。

 その日もあたしはおばあちゃんに八つ当たりを繰り返した。




  + + +


「あたしはもう踊りなんてやんない!」

佳子カコ! 待ちなさい!」


 ビビッと響いた声を無視して、部屋を飛び出す。カッとなった頭は思考を停止し、ただ膨れ上がった気持ちはどこへいくこともできずに足音ととなって響く。


 踊りなんてきらいだ。大嫌いだ。

 ダサイし、つまんないし、なにより大変なんだ。

 おばあちゃんは厳しいし、うまく踊れないし、もっと他のことをして遊びたい。

 どうしてあたしは踊りをするの? 中学生になったんだから、みんなと同じように運動部に入って汗を流したい。日舞がお稽古だなんて、人生の半分を損している気分だ!

 どうせならバレエがいい。お姫さまみたいですっごく素敵。日本舞踊とは大違い。

 古めかしい踊りなんて、どこに魅力があるって言うんだ! おばあちゃんの分からず屋め!


「相変わらずウルセェ孫だ」


 と、廊下の一番奥の部屋から怪訝な声がした。すっと襖がひらく。


「佳子、女子のくせしてドタドタ歩くな」

「男ならいいの?」

「うむ、やはり煩いのはかなわん」


 言葉に反し口調は柔らかだ。目元のしわがくしゃりとつぶれ、喜々として輝く黒の瞳がこちらを見つめる。

「どれ、一勝負しようじゃないか。囲碁と将棋、どっちがいい?」

「将棋」

「おまえは碁が下手だから、碁を打とう」


 それなら聞くな、と思うが口に出しはしない。これがいつものじいちゃんだ。おばあちゃんと喧嘩したあと、必ずといっていいほどじいちゃんの勝負誘いが行われる。


 じいちゃんの部屋は広い。趣味で集めた掛け軸や凧が壁に飾られ、いくつもある本棚には所狭しと書物が並べられている。

 すでに縁側には碁盤と碁石が準備されている。その横には冷たい烏龍茶もあるのだから、まさに用意周到だ。

「この部屋、すっごく暑い」

「フハハハ、そりゃあ、わしの闘志が燃えさかっとるからだな」

 クーラーは邪道だとのたまうじぃちゃんは、今でも扇風機とうちわで猛暑を凌ぐ強者である。

 半袖をまくり、じいちゃんのむかえに座る。ニヤリと意地悪く笑んだじいちゃんは、コップのウーロン茶を一気に飲み干した。

「九子置け」

 黒石をもったあたしは、さっそく盤上に九つの石を置く。いわゆるハンデだ。いつかこの余裕綽綽なじいちゃんを打ち負かしたいと思いつつ、なかなか勝てないでいる。将棋なら十回に一回は勝てるようになったんだけれど。

 いつも「わしに勝つのは無理だな。なにせわしは、三人の棋士の友人をもつ男なのだからな!」とワケのわからぬ自慢をする。それ、じいちゃんと何の関係があるの?


 結局この日もじいちゃんには敵わなかった。ちくしょう、今度こそはって思ったのに……!


「なあ、佳子。ばあちゃんだっておめぇが憎いわけじゃないんだぞ」

 碁石を桶に片付けている最中、じいちゃんがぽつりとこぼした。

「ただな、きっと勝負したかったんだろうよ」

「勝負?」

 なんだそれ。予想外の言葉にオウム返しで尋ねた。

「そうさ。じいちゃんと一緒で、ばあちゃんも佳子と真剣勝負がしたかっただけだろうて」



  + + +



 ふ、と目を覚ます。いつの間にかうとうとして寝ていたようだ。

 寝ぼけまなこをこすり、欠伸をひとつ。うーん、よく寝た。

 体育座りで寝ていたみたい。身体が凝っている。頭からすっぽり着物をかぶったままだったなんて、おかしな奴だな、と他人事のように思う。

 そう、だからあんな変な夢をみたんだ。まるで、異なる世界に置き去りにされたかのような夢を――


 瞬きし、もう一度目をこする。

 真っ暗闇の路地裏。遠くに街の明かりがともっている。見上げた空は満点の星。

 やっぱり、そこはあたしの部屋でもなんでもなかった。



 ――ああ、いつになれば醒めるのやら。



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