第七話
夜が明けた空は晴天そのものである。これだけ天気が良いのなら、今日も観光には最適な一日となるであろう。
出かける支度をしているとき、ふと自室に飾ってある太刀に目が行った。これは嘉一郎が冒険者として最初の依頼を達成した記念にと言って時也に譲り渡したものだ。
手入れだけはきちんと続けているが、普段これを使うことはあまりない。それまで訓練のときに使っていた脇差をそのまま仕事にも使っているから使うほどのことがないという意味もあるが、単純に時也が使いこなしきれないという意味もある。
嘉一郎は太刀を持つことを想定して時也に剣術を教えたが、神隠しの森に放り込まれての実地の訓練では国から帯刀許可が下りず脇差で戦っていた。冒険者免許を取得したので帯刀許可は得たが、結局使い慣れた本来予備であるはずの脇差を主な武器として使っている。
(次に森入るときは持っていこうか……)
ただ飾りっぱなしにしておくだけというのも、本来の刀の存在意義を思えば勿体ない話だ。そんなものを持たずとも平和に暮らせればよいのだが、冒険者を生業とする以上それは無理な話でもある。
(俺も馴染んでる、よな)
地球の日本では考えられなかったことだが、害獣が出没するヒノモトでは護身に武器を持つのは当たり前のことなのだ。その点では少なくとも武器を持つこと、その武器を使うことを躊躇わなくなったのだから、時也はそれなりにヒノモトに馴染んでいるのだろう。
「時也さん、そろそろお出かけなさりませんと、遅れてしまいますよ?」
「えっ……あ、もうこんな時間!?」
「お急ぎくださいまし」
音子のそんな忠告を受けて、とりあえず太刀からは目を離し護身用にいつもの脇差を掴んで、慌てて玄関に走り草鞋を結ぶ。
「それじゃあ行ってきますッ」
「はい、行ってらっしゃいませ。楽しんできてくださいね」
時也がやや乱暴に戸を開けてそのまま走っていくのを、音子は穏やかに見送った。彼の背はすぐに見えなくなり、音子は一人呟いた。
「……さて、今日の晩御飯はどのようにいたしましょう。わたくしもお出かけの準備をしなくては。何かお安くなっていると良いのですけど」
◆◆◆
多少長い距離を走り続けたところでそうそう息が上がるほど時也は軟な体をしていない。そんなことでは冒険者業は務まらないからだ。待ち合わせの場所につく寸前、歩道の脇に設置してあった時計で約束の時間に間に合っていることを確認すると、適当に深呼吸をして息を整えてから、何食わぬ顔で藍葉の前に顔を出した。実は遅刻しそうだと焦って走ってきたことはバレなかった。
本日の予定としては、魔王城の観光をした後、繁華街をゆっくりと見て回る――と、時也はそんな計画を立てている。
この国の政治は東西の魔王がそれぞれの地域をヒノモト帝から拝領するというかたちで、魔王を中心として行われているため、重要資料の多く集まる魔王城には一般市民は立ち入りができない。が、それは本丸に限られた話で、二の丸や三の丸、城に付随する庭園は民間に開かれている。
沈黙魔王より以前の魔王の時代に軍事目的で作られたそれは、幾度も補修工事を繰り返しながら、雄大で優美な外観を維持しているから、見学という名の観光にはもってこいだ。昨日は魔王が目の前にいたのに会わせられなかったということに対して若干の罪悪感もあり、せめて城くらいは見せておこうという算段である。
ついでに、魔王城の周辺には何かと店が寄り集まっていて、そのまま繁華街に通じているので散歩するだけでも飽きがこないだろうという打算でもある。木造の黒い瓦屋根と、赤い色の煉瓦の長方形が並んでいる町並みはごった煮のようでいて、バランスが取れていないわけではない。そのまま真っ直ぐ突き進んでいくと東区中央テレビ局の建物があるので、見るものがなくなったらそちらに顔を出すのもよい。尤も、テレビ局は遠目にもわかる巨大な建造物であるので、一日では見きれないだろうけれども。
「こちらの魔王城は、西区のとはまた違った雰囲気がします。人の出入りが多くて華やかですね。庭園が素敵だからでしょうか」
昨日から持っていた、恐らく旅行用に調達したのであろうインスタントカメラを構えながら、藍葉は言った。
「ふうん、そういうもの?」
「はい。魔王城というか、東区全体が、というほうが正しいんですけど。魔王さまの気質がそのまま反映されているのかもしれません。西区は激流と名のつく魔王さまが治めるだけあって、水の都って感じがしますよ」
「東区はそういうのはないな。海はあるけど」
「この国は島国ですし、東も西も海ですね。でも、西区は水道が凄く多いんです。バスよりも船のほうが通り道が多いんですよ」
時也にとって、藍葉と歩くことは正直なところ楽しかった。その点に関してはもう完全に認めていた。否定できる要素がひとつもないのだった。
だからといって藍葉が全面的に押し出し見せつけてくる好意とそのまま同じものを返せるかというと別の話であった。時也は自分の精神が他人より健全でないことを知っていたし、彼にとってそれはすぐに開き直れるほど軽いものではなかった。前世の記憶を自覚してからずっと持ち続けていたものを、そうそう放り出せるわけがなかった。前世で死んだよりも長く生きなければ、治らない症状だろう。時也はそういう意味では、今のところどうしようもなくモノの見方が歪んでいる。
時也が藍葉に対してごく普通に接することができるのは、観光案内という建前があるからなのであった。このような笠がなければ心中穏やかではいられない辺り、面倒くさい性格をしている。
「時也さん、あれは何でしょう」
「ああ、それは……」
(……あれ?)
魔王城を後にして、繁華街に入ったときに、時也は何とも言えない違和感を覚えた。
騒がしい街。人が行き交い流れを作る。時也たちはその中に混ざっているはずである。街の景色のパーツに過ぎないはずである。そのはずなのに、確かに――
(見られている……?)
視線を感じる。背後から何者かが見ているような気がする。
時也は藍葉の手を引いた。
「えっ、時也さんっ」
気のせいであればいい、と思いつつも、藍葉を連れてやや足早に人混みの中を行く。
――気配がする。
「あの、時也さん……?」
――人ではないものの気配がする。
「どうかしたんですか」
――間違いない。この中に人ではないものが紛れている!
「……藍葉。走るぞ」
「なっ、何かあったんですか……!?」
彼女の質問に対して、頷いて答える。生唾を呑む。
緊張していた。時也の勘である。外れていればいいが、当たっているとしか思えない。その何者かは、時也たちを見ている――狙っている。
「せーの、」
藍葉にだけ聞こえるように、小さな声で呟くように言う。一歩――地面を強く蹴り、二人同時に走り出す。それと同時に、後ろの何かが気配を変えた。殺気だ。
(やっぱり気のせいじゃない)
時也はその存在を確認しようと振り返った。
「霧雪……」
足の動きが鈍ったその一瞬のうちに、それは小さな呟きを零して藍葉に飛びかかってくる――時也は彼女を突き飛ばし、腰の刀を抜いてそれの攻撃を受ける。
「っ……!」
金属同士のぶつかる派手な音がした。時也はその勢いに押されて背中から地面に倒れこむ。
「時也さんっ!」
「ぐっ……」
藍葉の声に構っている余裕はなかった。時也は自分が脇差で受け止めた刀を滑らせ、その力を流す――。
それは人の形をしていた。
「なに、あれ、本物?」「冒険者の喧嘩か?」「巻き込まれるぞ、逃げろ!」
「……異質」
「――――ッ」
(今、一体何を言われた)
外野が騒がしい。だがそんなものは時也の耳には入らなかった。頭が凍りついている。とにかく逃げなければならない。危険である。全身で感じ取ったそれの気配は恐ろしいと本能が告げている。これの近くにいてはいけない。
顔の横に突き刺さった刃から逃れるように体を捻り、咄嗟に砂を掴んでその顔に向かって投げかける――それと同時に相手の足を蹴り飛ばし、転がるようにして逃れ体勢を整える。
「藍葉ッ」
「は、はいっ」
時也は藍葉の腕を掴み引っ張り上げる。その場は混乱していたが、それに乗じて逃げるしかない。彼女が足をもつれさせふらつくのも構わず無理やり手を引いて走り出す。
それは首を時也たちのほうに向けた。おかしい。それは涙ひとつ流していない。顔面に、その眼球に直接砂を浴びているのにも関わらず。
(あいつ見えている)
時也はその事実を目撃してしまったことを頭の片隅に置きつつ、必死に逃走経路を考えていた。とにかくあれを撒かなければ――それが不可能ならば対抗できる状況を整えなくては。
(人の形をしているけど、あれは人じゃない。人の気配がしなかった)
繁華街を駆け抜けて、細い路地裏に入ってその先へ向かってただ足を動かし続ける。
この街のことは、時也は何より知っている。伊達に十九年間を此処で生きているわけではない。狭い道を抜けた先の階段を下りて舗装された道路を踏み締める。まだ追いつかれてはいない。しかしあの殺気は遠くない。大通りから再び路地裏へ移り、表通りの坂道へ出てこれを一気に下っていく。気を抜いてはいけない、あれが追い付いてくる。
時也にとって戦うというのは、相手の隙を突き、相手が本来の力を引き出さないうちに仕留めることである。そもそも戦う相手というのは害獣であり、要は獣であって、知性に乏しい存在だ。それを罠にかけたり背後から忍び寄って刺し殺したり、毒を使って絶命させたりする。その行動の中に剣術の腕はあまり関係がない。刺せればよい。毒を敵の心臓に至らせればそれでよい。時也は獣相手の戦いにはそれなりの経験と実績がある。だが人は駄目だ。
時也の剣術は嘉一郎から教わったものだったが、根本的な才能が圧倒的に欠けている。つまり実戦の対人戦にはさして役に立たないものだ。刀の持ち方も知らない素人相手ならそれで十分だが、今度の相手はそうではない。
あれは刀を持っていた。人の形をしていた。人の技術を持ち、時也よりも強い力をもって刀を振るう。しかしながらそれは人そのものではない。正面から戦うには不利すぎる。藍葉を守るには戦闘よりも逃走が優先された。否、戦闘するという選択肢自体がありえない。それで勝てるものではないのだから、勝つことよりもより確実に無事に生き延びることを考えなければ。あれの一撃目は藍葉を狙っていたように感じられた。そして何故か、時也を異質と呼んだ。
どうするか。逃げながら思考する。あれの正体はわからないし、何故藍葉を襲ったのかも、時也にあんな言葉をかけた理由もわからない。今できることは時間稼ぎだけだ。
とはいえ、それもそろそろ限界かもしれなかった。一緒に走っている藍葉は、時也ほどの体力がない。息が上がってきていて、全力で逃げ回るということはもうできないし、時也が彼女を抱えて走るというのも、今の疾走を維持しながらとはいかない。
(でも此処まで来た)
此処から先は商店街へ続く道だ。この辺りも人が多い。その中に紛れてしまえば見つかりにくくなる。
――ざわり。
背筋がぞくりとする悪寒。後ろにはそれが迫っていた。
「ッ……もう追いついてきたのか」
「どうしましょう……?」
(人混みに交じって逃げられるか――)
悠長に判断している時間はなかった。藍葉を後ろへ逃がして、相手が再び刀を振り上げて襲ってくるのを自分の刀で受け止める。
(くそ、これじゃあ折れる)
それの力は強い。やはり時也にはこれを対処しきれない。
瞬間。
「――え?」
「あら、本当によく燃えるものね」
「だから申し上げましたでしょう? あれはそういうものだって」
火だった。魔術によって生み出された火だ。女が指差した先に生まれた小さな火種が、それを燃やしていた。
めらめらと燃え上がる炎は、やがてそれを完全に焼き尽くして消えた。残ったのは僅かな灰で、それも風に乗って霧散した。時也も藍葉も、その様子を呆然と見ていた。
「時也くん、藍葉ちゃん、無事?」
「お怪我などはありませんか?」
「恵理さん……音子さん……」
時也は呟いた。
(助けられた、のか……)
戦闘は専門ではないはずの彼女らに。その事実を噛み砕く。悔しいような、ほっとしたような、受け入れがたくも受け入れざるを得ない結果がそこにある。
「あなたが藍葉さん」
「はっ、はい……」
「ふふふ。お話しに伺っていたとおり、とても可愛らしいお嬢さんですのね」
音子は時也の心情などは全く知らない顔で、柔らかく笑った。