第四話
夢を見ている、と時也は思った。
高層ビルが建ち並ぶ灰色の街だ。空だけが青で、後はコンクリートと鉄の色。その中に僅かばかり街路樹の緑が混ざっている。これは前世で見たものだ。住んでいたマンションのベランダから見えた景色。これは記憶の再現だ。
何でもない休日の一幕。ラジオから流れてくる知らない音楽を聴きながら、青年は洗濯物を干していた。
「――――」
誰かの声がした。その声につられて下を覗き込み、そして落下する。そこで目が覚めた。夏目時也になる前の、とある青年が死んだ日の記憶であった。
あれは自殺だったのだろうか。事故だったのだろうか。どうにもその辺りが曖昧だが、自分の行動を振り返るに、自殺のために身辺整理をしていたというよりはまた次の日の仕事に向けてシャツを洗濯していただけで、当然のように明日が来ることを信じていたと思うのだ。自殺するほど追い詰められていたとは考え難い。ではやはり事故か。不幸な事故のひとつだったということか。
夢だと自覚して見る夢を明晰夢というらしい。
明晰夢をよく見る人の中には、夢の内容をコントロールできる人もいる……というようなことを前世ウィキか何かで読んだ気がする――と、役立つのかそうでもないのか微妙なところだけ時也の記憶は鮮明であった。肝心の思い出したいことについてははっきりしなかった。己の油断が原因で死んだのなら、同じ死に方はしないようにと気をつけられるのだが、わかるのはどうしてだか落ちたということだけだ。そんなことなら、せめて夢の中くらいは死なずに穏やかに過ごしていたいものなのだが、彼に夢の制御はできなかった。
ただ、覚えている朧気な記憶のとおりに、落ちて死んでいくだけなのだ。
生まれ直してから、成長するにつれて前世のことを思い出していった。嘉一郎によって神隠しの森に連れていかれたり剣や罠について仕込まれたりしながら思い返すことは何度かしたが、夢として見るのは久々だった。良い夢とは呼べない。今日は藍葉を案内して回る約束をしているというのに、これは随分寝覚めが悪い。
(……とりあえず、支度、するか)
約束は十時だ。時間に余裕はあるが、あまり呑気にしていると遅れてしまう。
気分を切り替えて笑顔を作る練習をひとつ。一応これは休日なのだからそれらしく謳歌したい。それに案内する者が面白くない顔をしていては、観光するほうも楽しくなくなってしまうというものだ。
(変なフラグじゃない……よな?)
気になることがあるとすれば、あのとき、ベランダから落ちる前に聞こえたのは一体誰の声だったのか。一体その声は時也に何と語りかけたのだろう。
記憶は曖昧なままだ。
◆◆◆
恵理から貰った地図を頼りに大通りを行く。ホテル街の並びで一番立派な煉瓦のビルの玄関前に、藍葉は立っていた。落ち着かない様子で辺りを見回しているのを見つけて、時也から声をかけようとすると、その前に彼女がこちらに気づいて花のような笑みを浮かべた。
「時也さんっ」
「待たせたかな」
「いえ、今降りてきたばっかりですから」
(さっきからめっちゃそわそわしてなかったかい……)
つついてからかうのは趣味ではないので口には出さないでおくが、初々しい微笑ましさを感じる。
「今日は有名どころ幾つか回ってみようかと考えているけど、どこか行きたいところとかあるかな」
「あ、えっと、此処。朱穂神社、ちょっと行ってみたいです」
薄っぺらい旅行用のガイド本を開いて指さしたページには、鮮やかな朱の鳥居を写した写真が載っていた。
「西区では水に関係する神様を祀っているところは沢山あるんですけど、こういうところは少なくて。興味があるんです」
朱穂神社にはヒノモトの大地の神、豊穣を司るとされる陸朱穂尊が祀られている。東区にある総本社は観光地としても名高く、彼女を連れていくには相応しい場所であった。
此処から朱穂神社までは、神社経由の区内循環バスがあるはずだ。それに乗って行けば早い。午前中は神社を見て、適当に昼食を取って、午後は近くの土産物屋などを物色するとちょうどいいだろうか。時間があれば繁華街にも行けるかもしれない。音子から聞いた話のこともあるので、あまり夜遅くまで連れ回すわけにはいかないだろうが。
時也は脳内で観光ルートを組み立てると、「うん、それじゃあ行こうか」と藍葉を連れ出した。
バスに揺られながら、到着までの間に話をする。
「私、教養学舎を卒業してからほとんどずっと家に篭っていたので、こういう旅は新鮮です」
「教養学舎……って、頭良いんだね」
ヒノモトの教育には基礎課程と教養課程の二種類がある。時也は読み書きと算段と歴史を教える基礎課程を終えてからは、冒険者免許を取得したのでそのまま卒業したが、彼女は教養学舎と言った。
「飛び級です、それで去年」
「へえ、凄いな」
(日本で言ったら大学レベルだもんな……)
幼い頃から害獣の恐ろしさを教え込まれ、冒険者になるべくして育てられた時也は、冒険者免許のために毒物や狩猟などの勉強はしたが、それ以上は必要もなかったので一切手をつけていない。
そもそも教養課程へ進むには相当に学費がかかるものなので、家が裕福でなければ進学がまずできない。前に茶之介が彼女を「箱入りのお嬢さん」と言ったが、正しく彼女は令嬢であった。
「霧雪の子供は幻術を学ぶために、他の子が基礎教育を受ける前から知識の詰め込みをするので、少しだけ早く下地が出来上がるだけですよ」
「それにしたって凄いと思うよ」
時也とて前世の記憶がある分それなりに出来上がってはいたのだが、それだけで頭が良いわけでも真面目なわけでもないので、学舎の教師に惜しまれながらも勉学からは遠ざかった。それを思えばやはり彼女は相当に努力家であると言えよう。
藍葉は少し照れたように顔を赤らめた。
「そういえば、こっちには何日くらいいる予定になってるんだ?」
一応参考までに聞いておく。今日案内する場所については昨日音子と話したこともあり、彼女の希望も聞いてある程度固まったが、長くいるのか、そう何日もしないうちに帰るのかによっては、多少ルート変更が必要かもしれない。
「ホテルの予約は一週間なので、今日を入れてあと六日ですね。その間に、色々見て回れたら……と思うんですけど」
「じゃあ、時間に余裕はあるんだな。それだけあれば充分どこでも行けるよ」
「だと良いんですが、私、東区は初めてだし、ガイドを見てもいまいちよくわからなくて……」
先ほどのぺらぺらの本だ。有名どころは紹介されているようだが、交通機関だの移動距離だのを考えると、確かにこれだけでは不便かもしれない。
「今日は時也さんがいてくれるので安心です」
それに何だかデートみたいで楽しいですし、という呟きは、聞こえなかったことにした。
バスに乗って十分、運転手の化け狸に運賃を払って降りると、バス停のすぐ側には観光客向けの土産物屋が建ち並んでいた。旅行シーズンとは少し外れているうえに、東西を結ぶ街道が通れなくなっていることもあって、人の姿はまばらだ。
そのまま奥へ進んでいくと、ようやく写真で見たままの美しい鳥居が目に入った。
正月の初詣には必ず来ているし、時間があるときはちょくちょく訪れて賽銭を投げているので、時也にとっては見慣れた場所だ。主に冒険の無事や健康の祈願に来ているのだが、冒険者免許の試験の前に神頼みした覚えもある。かなり親しみのある場所だ。
しかしながら藍葉にとってはそうではない。隣を見やると「わあ……」と感嘆の声を上げていた。
緩やかだが長い階段になっている参道を上がれば、そこには荘厳な雰囲気を漂わせる本殿、拝殿がどっしりと構えている。神社でやることといったらひとつなので、藍葉と二人、揃って二拝二拍一拝だ。
その後は社務所でお守りを授与してもらったり、写真を撮る了承を得て記念撮影したり、御神籤を引いてみたりと、観光者らしいことをしてみる。
「あっ、末吉です。なんと微妙な。でも恋愛運は悪くないみたい?」
これは時也さんと結婚できるよう精進せよということでしょうか、と言う彼女に返すべき言葉が見つからず曖昧な笑みを浮かべつつ、時也も自分が引いた籤を開いてみる。
凶。
どうでしたか? と聞いてくる藍葉に何も答えず、利き腕と逆の腕を使って結ぶと凶も吉に転じるらしいという何処かで聞いたことがあるようなないような民間信仰に従い、黙ってみくじ掛の一番高いところに利き腕ではない左手を使って結びつけた。
(難が降り掛かるだろうが耐えよ、って今後の行動指針にしたらアドバイス曖昧っていうか雑すぎるぞ……いや御神籤だからそんなもんなんだけど、しかし凶か……)
時也が複雑な心情を飲み下していると、その横で藍葉がみくじ掛を見上げていた。
「やっぱり男の人ですね、私じゃちょっとそこは届かないや……隣に結ぼうと思ったのに」
「……代わりに結ぶ?」
「是非お願いします!」
その希望どおり自分が結んだ傍に結びつける。きちんと結びつけたので解けることはないだろう。
「そういえば、御神籤を結ぶのって、縁結びの意味があるって聞いたことがあります。神様との縁とか、男女の縁とか」
その台詞に思わず振り向いて彼女をまじまじと見てしまうが、満足げににこにこと笑っているだけである。
(確信犯……!?)
女性の腹は読めない。
参拝を終えて参道を降りたような頃、ちょうど太陽が空の真上に来ていたので、近くの定食屋に入る。何でも今カップル客にはデザートの割引があるらしく、熱心な客引きとパフェに惹かれたらしい藍葉に負けてそのままインした。
「素敵な彼女さんですねー!」
(解せぬ……)
求婚はされたが彼女どころか知り合ってまだ二日だというのにこの扱いである。そんなに恋人同士に見えるというのか。
(赤飯だのデートだの散々つつかれまくったし今更かなあ……)
ずるずると日替わり定食についてきた蕎麦を食べながら思う。いい加減否定するのも面倒くさくなりつつある。見た目でいえば確かに似たような年頃の男女二人組なのだからカップル扱いされても仕方ない。とはいえ頭のどこかで自分の精神の不健全さは覚えているので、堂々と受け入れられるかといえばそれはやはり難しいことなのだった。
「お待たせしましたあ、名物おはぎパフェでーす。こちらの空いたお皿はお下げしますねえ」
どうぞごゆっくりー、と店員が去っていく。机の上にはハートの飾りがついたスプーンが二本ざっくりと無造作に突き刺さった豪奢なパフェと領収書が残された。
「つーかでけえ」
「やっぱり二人用ってことでしょうか」
時也さんもどうぞ、と藍葉が促すのでスプーンを引き抜いてパフェを崩しにかかる。黄粉と小豆と抹茶の三層だが、クリームの中にもち米が混ざっており、その弾力が独特の食感となっている。
「おはぎってこういう意味なんだ。これはなかなか、ん、イケますね」
「そうだね」
名物と言うだけあって味は良いしボリュームもあるが、何せ値が張るので、恐らく時也一人であれば絶対に注文しない代物である。カップル向けというのも頷けるところだが、それにしては盛り付けが今ひとつ雑であった。藍葉が満足そうなので、はずれではなかったというところか。
「これ食べ終わったら、周りのお土産屋さん見に行っても良いでしょうか」
「もちろん」
そのために来たようなものだ。沢山の店が寄り集まっているから、何かしら適当な土産は調達できるはずだ。
※神様の名前は捏造です。なお、神社参拝の云々についてはこの世界ではそうなっているとお考えください。