第三話
ロッカーからナイフを取ってきて、解体は始まった。小型の獲物は慣れもあって比較的早く終わったが、話題になっている巨体はそう簡単にはいかなかった。
「皮はもうボロボロねえ。売り物にはできなさそうだし、私貰ってもいいかしら」
解体作業を手伝う傍らカメラで撮影しながらそんなことを言うのは恵理だ。
害獣の体というのは、体内の魔力炉の異常から肉体に影響を受けたものだが、それゆえに魔法道具の素材ともなる。時也の場合は駆除を目的とした狩りなのでこちらは副収入といったところだが、こういったものを採取するために狩りの依頼が出ることもある。
時也としては普段から使用する魔法の毒を融通してもらっている身だ。恵理の希望に拒否する理由はなく、剥いだ皮は恵理のためによけた。
「――そういえば、魔法使いって人間にもいるんですね」
「あら、どうしたの急に。魔法に興味が湧いた?」
「藍葉が幻術の修行してるって話聞いたもので。幻術と魔術って何が違うんですか。どっちも魔法なんでしょう」
この世界に生きているからといって、時也は魔法に関わることがあっても魔法が使えるわけではない。よくわからないままでも問題はないだろうが、恵理の言うとおり興味が湧いたのは確かだった。役に立つかどうかはともかくとして、知っていて損はない。
「そうねえ。どっちも魔法と言えるけれど、違いがないわけじゃないわ」
解体の片手間に、恵理が説明を始めた。
「まず、自然物は魔力炉を持ってるってことは、知ってるわよね」
「はい。星の中心も炉だとか何とか、昔学舎で習いましたよ。魔力は命の源でしたっけ」
「よろしい。もう少し正確に言えば、モノの構成要素ってところかしらね。存在を維持するのに必要なもの、とでも言っておきましょう」
そして魔法は、その魔力によって発生するあらゆる現象を言う。人為的なものも、自然現象も含めてだ。それくらいのことは、時也も知っている。
「では人間と魔族の違いってわかるかしら」
「はあ。魔族は魔術が使えて、長寿なんですよね」
「ええ、そうよ。それって、そもそも魔力炉の作りが違うからなのよ」
彼女が言うには、人間の魔力炉は基本的に貧弱で生命維持が限度だが、魔族の炉は強靭にできているため、本来生きていくために必要な分より魔力を多く生成するらしい。魔族が魔術を扱えることや、長寿であるというのは、それこそ自分自身の持つ魔力に影響を受けるほどに魔力が有り余るからなのだそうだ。
「そして、魔術っていうのは、魔力に形を与える行為なのよね。そういう意味では確かに幻術も同じようなものだけど、幻術っていうのはあくまでも幻で実体がない。人間の魔力炉では実体を作り出せるほどの魔力が生み出せないのね」
だから人間は幻術しか使えない。魔力の絶対量が足りていないのだから、実体にはできないのだ。
「じゃあ、魔族なら魔術はもちろん、幻術も使えるってことですか」
「訓練すればできなくもないだろうけど、人間が己の限界まで魔力を使うのに対して、魔族が同じことをやろうとすると、逆に魔力の調整が面倒で実際にやろうとする人はあまりいないでしょうね」
普段日常生活で使うような魔術って、バケツで水を汲んでぶちまけるくらいのいい加減さでも発動するものだから――と恵理は言った。つまり、わざわざ決まった量を正確に量るようなやり方は魔族は普通はしないということである。
ライターの火くらいの小さな火種を作ることでさえ、人間の魔力では不足する。それを息をするようにやってのける魔族にとっては、更に多くの魔力を使って火をキャンプファイヤーにするほうがやりやすいらしい。
「それでも魔術師にできることなんて高が知れてるんだけどね。魔王様くらいになれば話は別だけど」
そう言われて、時也は冒険者の面々を思い出した。
冒険者組合には当然魔族がいるが、表立って戦闘する魔術師というのは聞いたことがない。魔族の冒険者は人間と同じ武器を取り、人間の冒険者と同じように仕事をする。恵理が事務仕事をしながら時也に毒を作って売るように、魔術師というのは前線に立つことのない存在であった。
要するに、魔術は戦闘のために使うものではないのだった。大抵の魔族が使う魔術は、戦闘に使えるほどの殺傷力がないのである。人間より魔力が多いと言っても、通常はそれが限界地点なのだ。
「じゃあ、転送の魔術とかってどうなってるんですか」
街道が塞がっている今忙しいと言っていた魔術師たちだが、転送の魔術というと難しそうな響きのように思える。少なくとも単純にその場で火を起こすよりはやることは細かそうだ。しかし恵理は、それも大雑把なものだと答えた。
「送る側と受け取る側で世界に強引に穴を開けて次元のずれたところに物を放り込んで移動させるってだけだから、穴を開けられるだけの魔力があるなら誰でもできるわ」
(成る程わからん……)
「私も今日はすっごく忙しかったんだから。途中で誰かが穴を閉じちゃって商品が行方不明になったり、届いた干物が爆発したりして」
「干物が爆発……?」
「何のための保存食だっていうのよ。もう大変だったんだから!」
害獣の内臓を傷つけないように取り出して、骨と肉を分けながら言う。
「ま、扱いが雑だから壊れにくいものしかやりとりできないし、一度に送れる量も多くないから、物資の輸送だったらトラックが一番便利よねえ。早く街道復旧しないかしら。事務員が取られるのって困るのよ、通常業務に差し障るわ」
根も葉もない話であった。
解体作業を全て終えて、肉を吊るしてから、報告書に内容をまとめて家に帰ると、音子が二つに分かれた黒い尾を揺らして待っていた。
「お帰りなさい、時也さん。お仕事お疲れ様でした」
「ただいま、音子さん」
音子は四百年近く生きているという化け猫であった。世間一般で言うところの妖怪である。
二百年ほど前の夏目の先祖に仕えた縁で、今も女中として夏目家の人間を見守り続けてきた彼女は、時也にとっても母のような存在であり、同時にこの世界が時也の前世とは別物なのだということを端的に認識させたきっかけでもある。艶やかな黒い毛並みの猫であった。
「良い匂いがする……」
「今晩は鯖の味噌煮にしたんですよ。お先にご飯にしましょうか? お風呂もできておりますけど」
「ご飯でお願いします。もう何か匂い嗅ぐだけで空腹が」
食欲をそそる香りが空きっ腹に直撃だ。時也が腹をさすりながら言うと、音子はくすりと笑って「ではそのように」と答えた。
夏目邸は広い。東区の居住区域の中でも古い家で、庭もあれば蔵もある。そんな屋敷に、時也は音子と二人で暮らしていた。
本当なら本来の屋敷の主人である嘉一郎もいるべきなのだが、現在は旅に出ていて不在だ。
元々よくふらりといなくなる人ではあったが、五年前に時也が学舎を卒業して冒険者組合に入ってからは、もう正月と盆くらいしか帰宅しなくなった。
時折満面の笑みの写真の絵葉書が届くが、後ろに写っている風景と消印が滅多に一致していない。そのうえ不定期で届くその現況報告は毎回違う場所から送られてきているため、今何処にいるのかと言われてもよくわからないのだ。ふらついていても土地の利権だとか何だかんだで収入源は持っていて、家の維持管理に支障はないので文句を言う隙もない。
そういうわけで、生活空間としては広すぎる屋敷に二人、正確には一人と一匹だが、時也と音子だけでの生活をしている。二人ともそれを寂しいと思わないでもないが、食卓に嘉一郎がいないことについては、もうすっかり慣れている。
「はい、召し上がれ」
卓上に並べられた料理に、改めて腹の虫が存在感を主張した。いただきますと宣言して箸を取り、温かく白いご飯の甘さを味わう。ふっくらとした鯖の身を解して口に運ぶと、とろりとした味噌が絡んで、たまらなく絶品だった。
「美味……ッ!」
「時也さんは本当に美味しそうに食べてくださいますから、わたくしも作りがいがありますわ」
「うん、本当に美味しい。音子さんのご飯が美味いから生きるのが楽しい」
「それはようございました」
こうして二人で囲む食事は時也にとっては至福の時だ。食べている間は難しいことを考える必要もなく、ただ味わうだけで良い。美食は人を幸福にする。
頭を空っぽにして食べることに夢中になっていると、そういえば、と音子が口を開いた。
「明日、女の子とお出かけされるんでしょう?」
「ぐふっ」
思わず味噌汁を吹きかける。忘れていたわけではないが、考えることを放棄していたことが急速に全面に押し出された。
「そ、の話をいつ何処で……」
「時也さんがお帰りになる前に、恵理さんからお電話がありまして。西区のお嬢さんとデートなんですよね」
(あの魔女何してくれてんだ……ッ!)
時也さんもお年頃ですものね、などと微笑まれても困るのだ。そのような話題に食いつかれても、時也自身は未だあの少女に対する心構えがろくにできていないのだから。恵理が意地悪くにやつく様が目に浮かぶ。何故だろうか、外堀が徐々に埋められているような感覚がするのだった。
「違うから、観光案内するだけだから!」
「でも、二人っきりでお出かけなら、それは充分デートだと思いますけれど。折角なんですから観光地らしく、繁華街とか、魔王城とか、ご案内して差し上げては如何です?」
神社巡りなんかも良いかもしれませんねえ、お守りなんてお土産にぴったりですし――などと色々な案を出してくる音子は、まるで自分が案内をするかのようだ。勝手に盛り上がっている。
「藍葉さん、でしたかしら。恵理さんから聞きましたけども、色白で可愛らしい素敵なお嬢さんだそうですね。時也さんはどう思われました?」
生まれてこの方(本当は前世も含めてだが)色恋の話はなかったこともあり、尚更異性と出かけるというのが気になるのだろう。音子の反応は育ての親としての親心の現れであるようだ。声色からして、一体どんな可愛らしい子が相手なのだろうか、というような期待が感じられる。息子が変な女に引っ掛かったのではないかとか、そういった想像は一切していないらしい。前向きというべきか、時也を信頼しているということか。どちらにせよ、この話に強い興味を抱いていることは間違いないのであった。目が答えを催促している。
「――ええと。うん、凄く綺麗な子、だよ」
彼が返せる言葉は、結局それくらいしかなかった。それは正直な感想だ。突然の求婚や「運命的な電波」発言にはついていけないが、確かに時也は藍葉に魅力を感じたのだから。それで思い悩んでいるのも確かだが。
音子はまあ、と妙に嬉しそうに声をあげた。
「青春ですねえ」
「え、うん、そうなのか……なあ……」
「うふふ、頑張って下さいましね」
(何をだ)
男の子はいつの間にか大人になっていきますねえ、としみじみ呟く様子を見る限り、もうまともに話を聞く気はないらしい。この状態では何を言ってもきっと右から左で頭には残らないだろう。どうにも女性はこういった話題から想像を膨らませるのが好きなようだ。人、魔物を問わず。
あ、と思い出したように音子が言う。
「魚屋さんで聞いた話ですけれど、近頃何だか物騒みたいですから、お出かけするのは構いませんけど気をつけて下さいまし」
「物騒って、害獣とかじゃなくて?」
「それもありますけれど、最近妖怪の間で噂になってることがあって。今は確かに害獣被害のことで大騒ぎですから、こちらはあんまりテレビとかのニュースにはなっていないんですけども、此処数年で失踪事件が増えているんですって。それが今年に入って、数が増えたとかで」
「失踪事件」
「妖怪とか、人とか、関係なしです。失踪の理由はよくわかりませんけど、これだけ噂になるんですもの。火のないところに煙は立たぬとも言いますし……事実であれ虚構であれ、用心しておくのは無駄にはならないと思いますわ」
それに可愛い女の子連れで歩くとなったら、さり気なくエスコートして守ってあげるのが素敵な殿方というものです。音子は言った。彼女の中では時也がデートに行くというのは決定事項で揺らがないことであった。
訂正したいとは思うけれども、忠告は忠告である。ありがたく受け取っておこう。
「まあ、気をつけるよ」
よく味わっていた食事も終わり、ご馳走様でしたと声をかけると「はい、お粗末さまでございました」と穏やかな返事があった。食器は彼女が洗ってくれるということなので、流しに運んで、それから風呂に入ることにした。
(今日はなんか異様に疲れたな……)
明日は恵理が勝手に取り付けた藍葉との約束がある。それでも約束は約束なのだから、履行するのが筋だろう――そのためにはこの疲れを少しでも癒さなくては。デートにしろ観光案内にしろ藍葉の旅行が自分のせいで残念なものになっては忍びない。体調は日々万全に整えておくのが良い。
(絆されてる、なあ。あれだけ全面的に好きって言われたのは初めてだけど)
本当ならそこまでする義理もないのかもしれないが、彼女のために色々と考えている時点で、善意と呼ぶにはその範囲からすでに逸脱している。
だが、その意味を正しく理解するには、今日は疲れすぎた。湯船に浸かると本格的に眠気が襲ってきて、瞼がひどく重く感じた。これは早く寝ようと思い、体が温まると早々に風呂を出た。