老いの兆しはまだ見えぬ3
ヒノモト帝国でいくつかの季節を越えて、エリシアは名を恵理と改めることにした。ヒノモトの民として生きていくのに、この国の名前が欲しくなったのだ。幸寿は嬉々としてそれを考えて、結果として元の名前と似た雰囲気のものになった。外国からやってきて住みついたエリシアは、ヒノモトで暮らしていく恵理に変わったのだ。尤も、幸寿は未だ彼女をエリーと呼んでいて、生活が大きく変わったというわけではないのだが――仕事上出会う者たちは恵理のほうが呼びやすいとかで、この変化は快く受け入れられた。幸寿にだけ呼ばせていたエリーという呼び名を他の人も使っているかのような感覚だった。
幸寿の病は暫くは落ち着いていたが、季節の変わり目に体調を崩してから一気に悪化した。元々寿命はそう長くないだろうとは言われていたが、いよいよそれが現実味を帯びてきた。恵理は献身的に彼に尽くしたが、彼自身が生きることを諦め、死を受け入れていることもあって延命は難しかった。
「アナタはまだ三十路を過ぎてしばらくなのに……」
「……ああ、きみと暮らすようになってもう十年くらいになるのか。光陰矢の如しとはいうけど、本当に速いものだ」
「たった十年よ……」
恵理が幸寿の手を握る。少し冷えている。本当に骨と皮だけしかないような手だ。体重だって恵理よりも軽いのだ、当然だ。生の匂いが薄れていくような感覚がしている。元々人間と魔族という時点で置いていかれるということはわかりきっていたけれど、それにしたって早すぎる。
何のための薬草魔術だろう。愛しい男一人救えないのだ。妖精の力があれば健常な状態にできるというが、それを手に入れる金はなく、その代替品もない。研究すればいつかは結果を得られるかもしれないと思って情熱を注いでも、それはもう間に合いそうにないということは明白だった。
今はただ、静かに、寄り添うだけだ。間に合わない薬のために彼を顧みないのは嫌だった。少なくともこうしていれば、残りわずかな猶予を共に過ごしていられる。本当はもっとずっと長く一緒にいたいけれど、それができないから、もどかしい。
「……きみのおかげで、とても幸福だよ、ずっと」
ぽつり、と独り言のように幸寿は語り始めた。
決して多くない収入の中で、大いに遊んで、大いに楽しんで生きてきた。翻訳の評判もそれなりによく、彼の訳したオペラや本が市場に出回って相応に名も上げた。今となってはほとんど仕事どころではないほど弱ってしまったが、幸寿自身は振り返ってみれば充実していたと思っている。
「子供の頃、三十まで生きられないだろうって言われてたんだ。親父は長生きするようにって、幸寿って名前をつけたそうだが、僕はひどい名前負けだと思ったんだ。兄貴が羨ましかった」
ただ長男だからという理由で太郎なんてつけられたのに病も何もないから願わずとも生きていける。健やかに育ち、発作を恐れる必要もなく元気に生きていた兄を、幸寿は間近で見てきたのだという。
「体のことも、名前のことも、比べられるようで嫌だった。兄貴が順調に幸せを掴んでいくのは、それは別に良かったんだ。ただ、医者代がかかるだけの僕が邪魔だと思われてたのは本当のことで、あんまりにも惨めで、僕は家にいられなかった」
誰か友達と遊ぶのにも気兼ねなく出かけられる兄と違って、幸寿はそう自由にはいかなかった。薬を飲んでもろくな効き目はなく、常に発作を恐れていた。やがて兄が結婚した頃、幸寿は都会の良い医者にかかるためだと言って故郷の田舎から東区の魔王城のそびえる大都市へ出てきた。
外に出られないからと本を読み漁り勉強ばかりしていたことが幸いして、仕事はしばらくして見つかった。翻訳だ。頭脳労働が簡単というわけではないが、幸寿にはちょうどよい仕事だった。
それに田舎にはなかったものが沢山あった。ものの品揃えも違うし、そこにいる人も違う。新しく出会った医者や魔術師は田舎にいた者たちと違ってとても優秀で、金がないから治すことこそできなかったが、新しい薬のおかげで突然の発作はほとんどなくなり、痛みも感じなくなった。
憂いが減ると余裕ができる。仕事にも集中できたし、新しい友人も増えたし、遊びに行くことも増えたし、学びたいと思うことがあれば専門の本はすぐに手に入った。どうにもここで暮らすことが合っている――ここにきて、幸寿はようやく生きることに楽しみを見つけたようだった。
「じゃあ、夢を叶えたのね」
「夢か……」
「他の人と同じようにしたかったんでしょう。アナタはそれを叶えたのよ」
「――そうかもしれない。僕は充分長生きしている。やっと自分の名前も好きになれそうだ。……エリーには、何か、夢はあるのかい?」
その問いかけに対して、恵理は少し考えてから答えた。
「そうね、あるわ」
「それはどんな?」
「……私ね、子供の頃人間の友達が欲しかったの」
レイファンは魔族が多い国だった。人間も僅かながらいたが、本当に数が少なかったから、なかなか交流を持つ機会はなかった。フェアファクスの薬草魔術を求めてやってくる客は別だが、友人として親しくなることはなかった。逆もしかりで、人間の職人に仕事を頼んでも、それは決して友人ではなかった。
幼い頃はそうやって人間と魔族が協力し合う姿を見て、きっと友人になれるはずだと信じていた。だが、実際はそうやって手を取り合えるのは国の中だけで、外の国の人間たちは魔王を恐れ、血で血を洗うような争いが起こるだけだった。魔族を嫌がらない人間が希少だということを、成長してから知ったのだ――だから、ヒノモトへやってきて幸寿や他の何人もの友人ができたのは、本当に嬉しいことだったし、人語を解する妖怪たちとの触れ合いも面白いことだった。
「沢山友達を作って、困ったことがあったら私の魔術で誰かを助けてあげたり、誰かに助けてもらったりしながら平和に暮らすの。そのうち、素敵な人と出会って、その人の花嫁になる。それが夢だった。アナタが沢山叶えてくれたことよ」
「もう他には、ないのかい」
「……子供が、欲しかったわ。私は魔族だからそう沢山産めないと思うけど、三人くらい、いいえ、一人でもいいの。男でも女でもいい。家族でお出かけしたり、勉強を教えてあげたり、夏の空の星を数えたりするのよ。誕生日にはとびきり大きいケーキを焼いてあげるの」
「素敵だね。でも、それは――僕には、叶えてあげられそうにないな……」
「だったら、そんなのは叶わなくてもいいのよ」
――アナタの子供じゃないなら別に、という言葉を飲み込んで恵理は微笑んだ。
窓の外で、小鳥が囀る。けれどそれは神ではなく、助けてくれることもない。幸寿が、まるで光り輝く宝石でも見つけたかのようにして、恵理を見つめて目を細めた。
「きみはいつでも、美しいなあ」
◆◆◆
「え、今日恵理さんいないんですか」
夏目時也は残念そうに言った。
冒険者組合には多くの人が出入りする。仕事の依頼人であったり、その仕事を引き受ける冒険者たちであったりだ。それを補佐するものたちもいるし、冒険者に限らず魔術師もそこに混ざっている。危険代行をするのが冒険者であり、そのための組合だが、ここで魔術を切り売りすれば効率的だということもあって、組合を利用するのは冒険者に限った話ではなかった。
時也は害獣退治を得意とする冒険者だ。そのために組合の事務員をしている魔女要恵理の作る毒薬を使っている。彼女の不在は少しばかり都合が悪い。
「やることがあるーって言って早引けしたけど。時也クン恵理ちゃんに用事?」
「いつもの毒を作ってもらおうと思って……そろそろストックなくなってきたんで。また出直します。別に急ぎじゃないですし」
「そう?」
真っ白な菊の花束を右手に、線香と蝋燭を入れた鞄を左手に持ち、恵理は墓場に立っている。石畳が敷かれているから歩きやすくなっているが、それが途切れたところには燃えるような朱色の彼岸花が咲き誇る。
そこへ、少女の姿が近づいた。柔らかそうな狐の耳とふわりとした二本の尾を持っている。今日は一本歯の高下駄を履いているから少し背が高く見えて、何となくアンバランスな印象もする。少女はすらりとした細い腕に黄色の菊の花束を抱えて、にこりと笑った。
「久しぶりー」
「黒狐、アナタも来たの?」
「えっちゃんも来てたんだねえ」
「今日は――命日だもの」
恵理はそう言って、墓石に視線を落とした。そこに刻まれた名は、かつて愛したたった一人の男のものだ。小ぢんまりとしているが、丁寧に世話をされているから目立った汚れはなく、辺りには雑草もほとんど生えていない。
彼を喪ったのはもう何十年も前の話で、恵理の人生においては彼と過ごした時はほんの僅かなものだった。彼との一時よりも孤独となってからの人生のほうが長かったし、これからも長くなる。
「これだけ花があったら、少しは立派そうに見えるわね」
二人が持ってきた菊を活けて、蝋燭を立て、魔術で線香に火を点す。ゆらりと細く白い煙が立ち上り、白檀の香りと共に空気に溶けていく。そして数珠を持って手を合わせ、静かに祈りを捧げた。
恵理の脳裏に蘇るのは、懐かしき日々だ。全て捨ててやってきた場所で、情熱に身を焦がし、穏やかな熱を抱き、愛する夫と暮らした過去。虚弱な夫がさして歳を重ねぬままに眠るように息を引き取ったのを見守り、細やかな葬儀をして、ひとしきり泣いたあの日から、一体どれだけの月日が過ぎ去ったことだろう。
今ならばレイファンの争いも落ち着きを見せており、それは表面上だけかもしれないけれども、治安は良くなった。新しい性能のよい船も作られたし、昔と比べれば随分観光に行きやすくなった。わずか数十年とはいえ、時代は変わった。今の時代に生きていたなら、きっと共に海を渡っただろう。それは叶わなかったけれど。
――彼の死から数十年経った今もなお、恵理は彼だけを愛している。
「えっちゃんは、昔から変わらないね」
「――黒狐もね。ああ、でも、妖怪って死者には興味がないって聞いてたから、アナタがこうやって墓参りに来てくれてるのって、実はちょっと驚いてるのよ」
「大事な友達は別なんだよ」
黒狐は狐の姿になって、ふわりとした尾を揺らした。
「彼岸花か……マスターがカフェやめちゃってから二十年かあ」
「歳をとると続けるのは難しくなるものよ」
「人間ってすぐおじいちゃんになっちゃう」
幸寿はそうはならなかった。そうなる前に死んでしまったからだ。何にせよ魔族と妖怪に比べれば、人間とは脆く儚い。
ほんのしばらくの沈黙。黒狐はそっと恵理の足元に寄り添って言った。
「ね、えっちゃんは、幸寿がいなくてもこの国が好き……?」
故国を離れ、家族も友人も捨ててヒノモトへやってきた。失った愛を代わりに与えてくれた男は、僅か十年と少しの時を過ごしただけで帰らぬ人となってしまった。もう何もないのだ――それでも此処で暮らしているのは、その理由は何かと、黒狐はそう言っているのだ。
「好きよ。土の固さも、潮の匂いも、空の色も――だって彼が愛していた国だもの、好きに決まっているじゃない」
「……そう?」
「彼はもういない、けど。人間の友達も、私より先に死んじゃう人のほうが多いけど。それでも、やっぱり、好きよ。素敵なものが沢山ある」
長く冒険者組合で働く中で、その事務員としての仕事もするようになり、さまざまな人々との出会いと別れを繰り返してきた。かつて幸寿と思い出を作った場所は、長い時の中で残っているものもあれば建物が壊されて跡地に別のものが建っている場所もある。悠然とした自然の姿はほとんど変わらないままだが、それも僅かずつ変化し続けている。かつて細い苗木だった桜も大木になっている。
いつかの思い出も何一つとして元の姿のまま残っているものがないけれど、その分新しい思い出も沢山増えた。新しい友人もできたし、冒険者たちの生き様を見守るのも面白い。
生き甲斐は、確かにある。
「それに、こうやって黒狐がたまに昔話に付き合ってくれるもの」
「……生きてる人の話のほうが好きだよ、私は」
そうは言うものの、こうして墓参りに来るくらいだ。恵理の思い出話にくらい付き合ってくれるに違いなかった。そうやって、過去を懐かしみ、現在の日常を愛おしみ、未来への期待を語り合えばきっと楽しいだろう。恵理は力強く生きる若き冒険者たちの顔を知っている。彼らが未来を背負っていくのだと空想して、自然と頬が緩むようだった。
そよそよと風が吹く。恵理の豊かな金糸の髪が風に靡き、太陽の光に煌めいた。
老いの兆しは、未だ現れる気配はない。
外伝第四弾「老いの兆しはまだ見えぬ」完結です。
これで外伝シリーズは終わりです。ので、「折れろ! 俺の死亡フラグ」もここで完結とさせていただきます。
時也の冒険はまだまだこの後も続くんだろうなあと思いますが、今はちょっと置いといて、新しく書きたい話があるのでそっちのプロットを練ってる最中です。世界観は一緒の予定です。ちゃんと形にできるかしら……。
長かったような短かったような不思議な気分ですが、このお話を楽しんでいただければ幸いです。




