老いの兆しはまだ見えぬ2
幸寿は儚げな人間だったが、存外情熱的な男であった。魔力炉に病があるから決して長生きはしないだろうが、その短い人生を燃やし尽くすような情熱で生きているようだった。
彼が熱心にエリシアに愛を囁くようになって、いつしか彼女はエリーと呼ばれるようになった。それは彼女が望んだことであり、誰も呼ばなくなってしまったかつてのあだ名が朽ちていくのが寂しかったからだが、実際に幸寿だけが呼ぶそのあだ名はエリシアの心を潤した。
「お熱いねー」とは黒狐の言葉である。元々その関係を隠しもしないどころか、二人でしょっちゅう彼岸花に訪れているから、黒狐がわからないはずもなかった。結婚の約束まで彼岸花でしたくらいだったのだ。
「ほんと物好きさん。幸寿くんはえっちゃんと違って長生きできないのに」
「それは……そうだけど」
「人の恋路は大変だね。それともそれが楽しいのかな」
狐の二つの尾がゆらりと揺れる。黒い毛並みがふわふわとした獣の姿からは人の姿など想像もつかないが、彼女は少女の姿に化けることができる妖怪である。
長く生きる妖怪という魔物にとって、人との付き合いは永久のものではない。ヒノモトでは魔族も人間もいるが、妖怪たちと同じくらい長く生きる魔術師がいる一方で、すぐに死んでしまう弱い人間も多い。彼らが生きている間こそ友となれるが、多くは妖怪たちより先に死んでいく。だから妖怪は心構えとして一線引いたところから人と交流することが多い。
魔族も人間より長く生きる。だからいずれ悲しい別れがあることを覚悟しておかなければならない。傷つきたくないのなら、本当なら近づかないのが一番だ。それでもヒノモトにはそうしないものが沢山いて、エリシアも幸寿から離れたくない。
「……ユキトシさんは私がなくしたものをくれたから」
エリシアはまだうら若き乙女だが、生きるために沢山のものを捨ててきた。これ以上なくすものがない。優しく抱きしめてくれる親や兄弟の腕はここにはなく、彼らがどうなったかも知らない。だからこそ幸寿が注いでくる愛は染み入るように熱いのだ。
「私の妖怪友達にも人間と一緒に暮らしてるコがいるんだ。ずーっと昔からその家に仕えてるの。物好きはあのコくらいかなって思ってたけど」
「でも、クロコ人間嫌いじゃないでしょう。ユキトシさんとも友達だもの」
「そりゃあ勿論。人間は面白いんだもん。それに歌劇とか楽しいし、油揚げ美味しいし――」
「……食べ過ぎは体に毒よ」
黒狐を軽く嗜めて、エリシアは薄らと笑った。妖怪は人の世界で共に暮らしているが、あくまでも獣だから、何か感じ方が違うことがあるのかもしれない。この場で重要なのは敵意がないということ、それだけである。
「そういえばこの前新しいオペラ館ができたんだよ、今度一緒に見に行こうよ。いい俳優がいるらしいんだよー」
「それは……楽しみにしてる、ね」
◆◆◆
幸寿は本来はどこか田舎の資産家の子供だったらしい。そのため教養学舎で外国語をじっくり学ぶことができたというわけだった。
とはいえ彼は次男で、跡継ぎではなかったから今は実家を離れて、港から近い丘の上の小さな家で一人で暮らしていた。そこに住んでいるほうが療養のためにも都合がいいそうだが、どちらかといえば彼は病を気にしているというよりは、家族から煩わしく思われるのが嫌だという様子であった。
彼の魔力炉の薬を作っていた魔術師が引退してからは、エリシアがその役目を引き継いだ。しかしながらヒノモトで手に入る材料で作る魔術薬によって可能なのは、症状を抑えることだけだった。むしろ、それだけの魔術薬を開発した先任の魔術師は相当な実力者だったのだろうとエリシアは感心したくらいだった。
魔力炉は生命にとって最も重要な器官である。それが上手く機能しない幸寿は、薬によって魔力のバランスを保っているが、根本的な部分の治療にならないからその場しのぎでしかない。薬が切れれば痛みがあるし、肺も心臓も正常に動かなくなる。幸寿の寿命はそう長くないだろうと、彼のかかりつけの医者が診断していた。
「生きてるうちにやりたいことをやりきっておきたいな」
病を治せるだけの金はない、というのが幸寿の行動理念となっていた。身も蓋もないが、ヒノモトでは彼を治せるような妖精の医療を受けることは非常に困難で、彼自身が諦めていた。
「私の薬では、治せないものね」
「エリーのおかげでつらい思いをしなくて済むよ」
そう言って幸寿は笑った。エリシアはその魔術薬を基に改良したものを作れないかと研究していたが、結果は芳しくなかった。
幸寿はそのことを一切咎めることはなかった。それよりも本人が言ったとおりにやりたいことをやるということに全力を尽くした。
金がないなりに、細やかな結婚式を挙げた。エリシアは正式に幸寿の妻となって、冒険者組合の宿を引き払って幸寿の家で暮らすようになった。幸寿がよく冒険者組合事務所に通っているくらいだから、さして遠いわけでもなく、生活に大きな影響が出たわけではなかった。ただ、結婚したことを話題にされるようになっただけだ。
それからは数日も経てば日常となる。休日には映画館に出掛けて最近作られたというカラーの映画を見たり、黒狐が紹介してくれたオペラ館で歌劇を見たりする。一緒に公園を歩く。山へ出かけて薬草を探したり、海で釣り糸を垂らして何も釣れないまま一日を過ごしたりする。給料日にレストランに出かけていつもよりちょっとだけ良いものを注文する。ヒノモトにあるものを存分に愛し、楽しむことに全力を尽くした。
「アナタはいつも楽しそうね」
「そりゃあ、きみが一緒だからね」
「私?」
「エリーと過ごすなら何だって楽しいよ」
目を細める幸寿は、出会った時より少し痩せていた。元から痩せて頬がこけていたけれど、ただでさえない肉がさらに減ったせいか、えらが目立った。
エリシアなりに栄養のあるものを食べさせようと工夫しているが、なかなか幸寿に肉はつかなかった。やはり根本的な問題を解決しなければならないのだ――魔力炉の異常が、彼の命を削っている。
どうしようもなかった。エリシアにできることはやり尽くしていた。妖精の医療を受けられるような稼ぎは幸寿にもエリシアにもない。彼女にできることは、ただ幸寿の痛みを和らげるだけなのだ。
「……私、アナタから色んなものを貰っているのに、何を返せているのかしら」
「僕は得難いものを貰ったよ」
薄っぺらで頼りない体つき。どうして惚れたのかもわからないような相手だが、エリシアは彼を好きになった。今では愛していると自信を持って言える。弱く脆い人間でも、その中でも病持ちで長生きしないとわかっていても、優しくて穏やかで、好いたものには情熱を傾けるのを身を持って知っている。全てひっくるめて愛している。
幸寿の手がそっとエリシアの金の髪に触れた。まるで高級な絹でも触れるかのように一房を丁重に手繰り寄せて、そのまま金糸に口づけた。
「いつかレイファンに行けたらいいんだけどね」
「蒸気機関を見に行くの?」
「あとは、エリーが愛した国の空気が知りたいと思うよ、今は」
「……レイファンなら、私が案内してあげる。いつか」
それ以上は互いに何も言わなかったが、幸寿は、それが不可能であろうということをわかっていた。そしてエリシアも、彼と共に母国を訪れることを夢想はしたが、現実として不可能であることを知っていた。
レイファンの戦争はエリシアがヒノモトで暮らしているうちに終わったが、戦争が終わればまた次の争いが待っている。混乱した政権をどうするのか、血を吸って疲弊した大地をどうするか。生き残ったものたちの利権が対立し蹴落とし合い、いずれ内乱となっていく。それが全て落ち着くまでには、まだ何年もかかるだろうと思われた。幸寿の寿命は、それまでもたない――。
◆◆◆
一年、また次の一年。年月を経るにつれて、幼い少女だったエリシアは大人の女性となった。少女として最も美しかった年頃は過ぎ、女性として美しい年頃を迎えた頃には、彼女自身の魔力によって老いが停止した。魔族は死期が近づくまで老いないのだ。
老いたのは幸寿だけだ。否、老いたというほどでもないのだ。青年期から壮年へと変わろうとしているだけだ。しかしながら彼はますます弱り、やつれ、衰えの兆しが現れた。痩せた体はいっそう痩せて、昔馴染みであるという黒狐も心配するほどだった。
「オペラの翻訳を頼んだけど、体調が悪いなら無理しなくていいんだよ」
「最近は調子がいいほうさ。ね、エリー」
「そうだけど、だからって無理して良い理由にはならないのよ」
「本当に無理はしてないよ」
「それならいいけどさあ……あ、これはお見舞い的な桃だよ」
「わあ美味しそう」
「ほんと。でもどうして桃なの?」
「ヒノモトの古い昔話でね、桃が悪いものを祓ってくれるお話があるんだよ。というのは建前で八百屋さんで安売りしてたから手土産にちょうどいいと思って」
だからどうぞ、と桃を二つ手渡されて、幸寿は嬉しそうに「後で食べよう」と言った。
「ほんとに魔除けの力があるの?」
「ヒノモトの古い魔術に桃を使うのがあるって話は聞いたことあるよ。えっちゃん冒険者組合にいるんだったら詳しい魔術師の一人や二人すぐ見つかるんじゃないかな。聞いてみたら?」
「そう、そうね……そうするわ」
「エリーは勉強熱心だねえ」
桃を抱えてほくほくした顔で幸寿が言った。魔術のことで学びたいことがあるとすれば、仕事のために必要なことでなければ、大体は幸寿のためなのだ――ということは、エリシアは黙っておいた。幸寿が呪われているとは思わないが、魔力炉の異常を癒すには魔法の力が必要だから、何らかのヒントになるかもしれないと――頭の隅のほうで、ちょっとだけ考えた、それだけだ。
黒狐はしばらく世間話をしてから、適当に切り上げて帰っていった。このオペラの翻訳が完成したら知り合いの劇団が演じるらしく、ちゃんと良い席も用意してくれることになっているそうだ。幸寿が「それなら気合い入れてやらないとなあ」なんて言うので、エリシアは苦笑した。
「体調管理も仕事のうちよ。頑張りすぎないようにネ」
「んん……それもそうか。エリーは『小鳥の祝福』は知っているかい?」
「あらすじだけネ。傷ついた小鳥を助けたら、色々良いことが起こるようになって、好きな子とも結ばれて万々歳。小鳥にお礼を言ったら、実は小鳥の正体は天上の神ベエルだった――ってやつよね」
困難が降りかかっても神の加護で容易く乗り越えていける――ひどいご都合主義というものだったし、要するにレイファンで信仰の厚いベエル神を称えるための話だ。エリシアとしては、一番つらいときに助けてくれたのは神ではなくて人の手だったから、ヒノモトで暮らしている今となっては故郷の神にはあまり興味がないところである。
古い神話は魔術書に近いところはあるけれど、エリシアにはそれを再現できるほどの魔力もない。彼女にとって故郷の神は既に重要なものではないのだ。
「案外僕の近くにも小鳥がいるのかもしれないなあって思うんだよ。何だかんだ言って楽しく暮らしてるし、こうしてエリーと一緒にいられるしね」
「……本当にそうだとしても、きっとベエルじゃなくて、もっと別の神様よ。ヒノモトには沢山神様がいるっていうじゃない。ユキトシさんはヒノモト人だし、私はその妻なのよ」
自身がベエルを信じられないのだ――とまでは言わなかったけれど。幸寿はいつものように、優しげで温かい微笑みを湛えて、エリシアのほうに首を傾けた。
もうじき、冬がやってくる。




