老いの兆しはまだ見えぬ1
十六歳のエリシア・フェアファクスにとって、それは正しく冒険であった。物語に描かれるような大冒険にも等しい感覚。少女は今、人生で初めて異国の地を踏んだ。
潮の匂いも、土の固さも違う。当然話す言葉も違って、港に集まる人々の話し声が何を言っているのかはよく聞き取れなかった。それでも彼女はこれから此処で生きていかなければならない。彼女にはもう帰る場所がないのだった。
エリシアは魔族である。故郷はレイファンという、多くの魔族と少しの人間が暮らす王国で、代々薬草魔術を受け継ぐ家に生まれたが、近隣国との激しい戦争から逃れるためにエリシアは家族と離れてヒノモトへやってきた。
船に乗って海を越え、逃げる先にヒノモトを選んだのは、偶然に知り合った賢い猫の魔物に勧められたからだった。魔族を嫌わない国で故郷から遠く離れているから、戦禍を免れることができると教えられたのだ。
その猫の言ったとおり、ヒノモトには人間も多くいたが種族の違いを嫌がられることはなかった。辺りを歩く人々は、人間と魔族が当たり前のように混ざっていて、そこに壁はなかった。此処では故郷であったような種族の違いによる戦争がないのだ。それは少しばかりの寂しさと、深い安堵をもたらした。
まずエリシアがやるべきことは冒険者組合に行くことだった。猫に紹介状を書いてもらったのだ。流浪の旅を続けている猫が言うには、冒険者組合に頼ればとりあえずは宿や仕事にありつけるということだった。幸いエリシアには魔術があるから、全く何もできないということはないだろう。暫くはそこで仕事を得て食いつながなければならない。
だが、一つ大きな問題があった。エリシアは予めヒノモト語を件の猫に教わっていたが、まだ完全にマスターしていなかった。港の観光案内所でどうにか地図を手に入れたのだが、読めなかったのである。
「お嬢さん、どうかしましたか」
これからどうするか――と悩み立ち尽くしているエリシアに救いの手を差し伸べたのは、一人の人間だった。草臥れた感じの山高帽を被っていて、痩せ気味で頬がこけているが、優しげで人の良さそうな顔をした青年だった。頼れるもののないエリシアは、少しだけ迷って、その彼の手を取った。
彼の名を、要幸寿といった。
◆◆◆
幸寿は顔のとおり親切な男だった。発音は下手だったがレイファンの言葉を知っていて、彼が助けてくれたことでエリシアは無事冒険者組合事務所に辿り着いた。薬草魔術は需要が多いのだと歓迎され、組合の魔術師として仕事を貰うようになり、あっという間に時は過ぎていった。薬草魔術を扱えるものはいても専門家自体は少なかったらしく、エリシアの腕前はすぐに評判になった。彼女はヒノモトでは珍しい金髪だったから、目立ちやすかったのかもしれない。
その場限りかと思われたが、幸寿との交流は意外にも続いた。というのも、彼が魔術薬を求めて冒険者組合にやってくるからで、自然と顔を合わせる機会ができたからだった。そして言葉の壁に苦しむエリシアを何かと手助けしてくれたのだ。
そうしていつしか親しくなって聞いた話では、幸寿は魔力炉に生まれつき病を抱えており、特製の魔術薬で症状を抑えているということだった。レイファン語の翻訳を仕事にしており、その収入の大部分が薬代に消えていくと苦笑していた。
「本当は妖精の魔法医療を受けられればいいんだけどね。僕の稼ぎはそんなにもよくないから」
妖精族は人を癒す魔法の力を持っている種族だが、非常に数が少なく、その技術は高値で取引されている。金さえ積めばどんな病や怪我でも治してくれるとの噂だが、庶民に手が届くものではなかった。
そこで重宝されるのが魔術薬である。魔族が魔術によって作りだす薬はそれなりに効果があるということだ。特に魔力炉という器官は通常の医学や薬学では対応が難しいため、魔術師の領域になる。
随分難しい病気を抱えているものだ、とエリシアは思った。魔族は人間より老い始めるのが遅く、ずっと長く生きるが、幸寿の薬を担当している魔術師はかなりの高齢で老いの兆しどころか顔には深く皺が刻まれ髪は真っ白で薄くなっていた。この魔術師が引退したら、次の信頼できる魔術師を見つけなければ幸寿は生きてはいけなくなる。魔力炉の異常は存在の異常なのだ。
だがそのような病を抱えていようとも、幸寿は暗さを見せなかった。エリシアが知っているのは底抜けにお人好しの善人の顔だけで、それはとても好ましかった。故郷にはいなかった、戦争の痛みを知らない穏やかなだけのものだ。
魔族と人間は手を取り合えるのだということを、エリシアはヒノモトに来て知った。ヒノモトの人間は魔族も魔物も嫌わなかった。ヒノモトには害獣が生息する区域がいくつかあったが、薬草魔術に必要な素材を集めるのを人間の冒険者が手伝ってくれたし、日常の中で妖怪と呼ばれる魔物たちが人々と交流するのを見た。
新しい友達もできた。幸寿を通じて知り合うことが多かったが、その中でも気が合ったのは狐の妖怪の黒狐だった。
「よろしくねー、えっちゃん!」
「え、えっちゃん……?」
「あだ名! ダメだった?」
「……いえ、そんなこと、ないですヨ」
「ふふふ。いやあそれにしても幸寿にこーんな美人の知り合いがいるとはねえー!」
「からかわないでくれ……」
黒狐は真っ黒な毛色で、尻尾が二本ある化け狐だ。人の姿に化けて喫茶彼岸花の女給をしているが、本人曰く完璧な変化ではないので耳と尻尾を隠せないらしい。エリシアが見る限りではそれはそれで愛嬌があった。以前彼岸花のマスターが客の喧嘩の煽りを食って呪われてしまった時に解呪の薬を作ってからはいっそう懐かれている。一体どれだけ激しい喧嘩だったのか疑問だが、当時のエリシアはそれを咄嗟に言葉にできず、結局謎は謎のままとなっている。
彼女は流行だとか娯楽というものに詳しかった。彼岸花の近くに歌劇場がいくつかあるためか、役者や劇団の関係者とも知り合いで、彼女に誘われて幸寿と共にエリシアは色々な遊びをした。オペラを見に行ったり、見世物小屋で安っぽい作り物を見たりといったようなことだ。急用ができて行けなくなったからと歌劇のチケットを譲られたこともあった。
ヒノモトでの暮らしは、楽しかった。叙事詩に歌われるような大活躍をする冒険者はほとんどいなかったけれど、日常に根付いた冒険をする彼らはよい仲間だった。仕事はやりがいがある。幸寿や黒狐という友もいる。
充実していた。足りないものがあるとすれば、それはレイファンを出るときに捨てたものだけだ。決して小さくはなかったが。
「ヒノモトには慣れたかい」
ある時幸寿はそう話しかけてきた。いつもの、不健康そうだが優しい笑顔だった。
今二人がいるのは例の彼岸花である。幸寿は元々常連で、最近はよく彼に誘われてエリシアも此処に来る。小ぢんまりとした造りでゆっくりとコーヒーを飲むのには一番良い。窓に使われているステンドグラスから入ってくる色の付いた光が気分を落ち着かせてくれる。
今日はいつもより人が多いようだ。黒狐が忙しそうにしているのが見えた。エリシアはチップは少し多めにしようと決めた。
「きみはレイファンの出身だったね。ヒノモトでは色々勝手が違うかもしれないけど、どうかな」
「ここは……いいところ。みんな優しいし、屋根が焼けることもない。コーヒーも美味しい」
エリシアの故郷ではそうではなかった。そうではなかったから、こうして逃げてきた。そして今平穏を享受している。
「それから、クロコみたいに人になる魔物は初めて見まシタ」
「レイファンにはいないのかい? その、魔王の国だろう? 魔族と魔物が暮らしてる」
「そう、紅蓮魔王の国。魔物も沢山いる。でも、人の言葉は話しても、人の姿にはならなかったから……面白いデス。知らない魔術もある。ヒノモトにしかない薬草も」
興味深いことは探すまでもなく見るもののほとんどがそうだった。故郷でゆっくり集中することができなかった魔術の研究は、ここのような平穏なところでなら可能だ。故郷になかったものが、新たな刺激になる。
レイファンは魔族が中心の世界だった。だから優れた魔術師がいたし、魔術がそう得意でないものたちがさまざまな別の技術を生み出した。人間も僅かながらいて、時には手を取り合ったこともあるが、少なかった。
エリシアは母国を愛していたが、魔王がいるということはそれだけで軍事力があるということでもあった。それは他国の人間にとっては恐れるべきものだった。周りには人間だけの国が多くて、レイファンの民と違って彼らは魔族を理解しなかった。それは戦争の理由の一つになった。
多くの魔術師は戦いには向かなかった。エリシアもそうだ。兵士にはなれない性質だった。
敵が人間だけだったわけでもなかった。利権の対立は同朋ですら敵に回す。レイファンの風がいくら愛しくても、その大地を愛していても、そこにはいられなかった。まだ死にたくはなかったのだ。
「……ユキトシさん、私も一つ聞いてもいい?」
「何だい?」
「どうしてレイファンの言葉を勉強してるんデスか」
これまで彼と交流してきて一番不思議なのがそれだった。
ヒノモトの科学はまだ発展途上といった様子ではあるが、戦争をしていない分技術開発に力を入れられるから、これからすぐに発展していくだろう。それに当たり前に魔族が暮らしているのだから、当然魔術も磨かれていくはずだ。害獣という危険な怪物はいるがそれに対応する冒険者もいる。
エリシアは故郷レイファンを愛しているが、わざわざヒノモトで生まれ育ったものが惹かれるようなものがあったかと、疑問に思っていた。魔族が多い国だから人間も時には立場を悪くする。それなのに人間である幸寿がレイファンの言葉を学ぶ理由がどこにあるというのだろう。
その答えに幸寿は「蒸気機関が好きなんだ」と言った。
「レイファンには蒸気機関が色々あるだろう……僕はそれが好きでね。レイファン語の専門書を読むために勉強していたら、いつの間にかそれが仕事になっていたよ」
「蒸気機関……飛空船とか、自動人形とか……?」
「そうだね。それもあるし、他の色んなものにも興味があるよ。ヒノモトではまだあまり浸透していない技術だ。憧れる」
そう語る幸寿は本当に楽しそうで、エリシアは彼が自分の国のものを好いてくれていることが嬉しかった。何となく誇らしく、何となく気恥ずかしくもある。そしてほんの少しだけ気まずくもあった。レイファンの技術は、戦争によって発展したものだ。
蒸気機関はとても身近にあり、便利だった。その便利さは敵から国を守るためという名目の道具、実際には敵を殺すための兵器が転用されて生まれたものだった。尤も、話を聞く限りでは幸寿は日常生活のために蒸気機関を利用することに想いを馳せているようで、争いごとからは離れているとわかってエリシアは安心した。幸寿にはそのようなものには触れてほしくないと思い始めていた。
「何だかつまらない話を聞かせてしまったかい」
「……いいえ。ユキトシさんの話、もっと聞きたい。アナタのことはよくわからないから」
「わからない、というと?」
「すごくよくしてくれマス。出会ったときからそう。見返りはないはずなのに。どうしてなのか、アナタのことを知ったらわかると思う。アナタのことを知りたい」
エリシアがそう言うと、幸寿は面食らって狼狽えた。あまり見ない表情だと思ってまじまじと観察していると、目線を逸らされてしまった。本当にあまり見ない表情だ。
「そういうことはあまり言うものじゃないよ……」
「何故?」
「……僕が聖人じゃないって話だ。きみはまず自分のことをよくわかったほうがいいよ。その……美人だ、とてもね」
そして顔を隠すようにカップに口をつける。そのせいで確かに顔はよく見えないが、すっかり隠し忘れられた耳は真っ赤だ。どことなく動きもぎこちない。取り繕おうとして失敗したような態度だ。
その意味がわからないエリシアではなかった。
「なら、もっと教えて」
にっこりと微笑んで囁くと、幸寿はようやく顔を隠すのをやめた。耳と同じだけ赤い。わかってはいたが何だかおかしい。ああ、とか、うう、とか意味にもならない呻きが零れている。
「……物好きなお嬢さんだ」
「そうですカ?」
助けてくれない神よりは手を差し伸べてくれる隣人のほうが良いものだ。エリシアは幸寿が、少なくとも彼女にとって信用のおける相手だと知っている。ひゅう、とどこかから口笛が聞こえたのは無視した。




