夕陽のきみは美しい2
二人とも決して暇ばかりというわけではなかった。輝血には次の舞台公演のための準備もあったし、藍葉は本来自分の研究が目的で東区にいるのだ。
その中で暇を見つけては、輝血は藍葉から魔法の極意を習った。全ての自然物に備わっている魔力炉、人間の中にもあるそれを活性化させることで、魔法のためのきっかけを生み出す魔力を得る。ただ、輝血がまず教えられたのは、魔法は万能ではなく、無駄になってしまうかもしれないということだった。
「魔力さえ確保できれば、人間にも魔法を使うことができます。だけど私たちは魔族とは違って充分な魔力を持っているわけではないから、望む魔法がどんなものかによっては、魔術師の力を借りなければ実現できません。魔術師がいても可能とは限りませんけど」
「自分一人では魔法使いになれないということ?」
「私が幻術を使えるようになったのも、きっかけは魔術品でした。魔術によって魔力を籠められたものを使うことで、やっと幻術が使えたんです。私の兄はそんなものなくても平気だけど……」
「……こういう時人間って不便よね」
「魔族に生まれればどんな魔術でも使えるってわけでもないんですよ。こんな本には色々難しい理論が書いてありますけど、それを実現できるかどうかはまた別の話なんです。とりあえずは輝血さんの魔力炉を鍛えないと始まりませんね」
そう言って、藍葉は輝血に体内の魔力炉を呼び起こす方法を教えた。意識して炉を扱えるように、藍葉の魔力を使って輝血の炉を刺激し、訓練を開始した。
一方の藍葉だが、彼女も調査のことを忘れていない。やるべきことは輝血との対話の中で、紫道のことを聞きだしていた。
「父は彩華歌劇団の座長だったの。お人好しで世話好きで、劇団の仲間みんなに慕われていたわ。お酒は飲まなかったから、そういうトラブルはなかった。交友関係も広かったから、色々な人が芝居を見に来てくれたし、家に飾ってある珍しいものはみんな知り合いから貰ったものなの。私を拾って育ててくれた――自慢の父だった」
穏やかな顔で語る様子から、本当に彼女が父を慕っていたのだと藍葉は理解した。藍葉も自分の父を愛しているが、輝血の想いもまた特別なのだろう。
「あの日父はどこかに用事があるとか言っていたの。帰りが遅くなるかもしれないって言っていたけど、夜中になっても戻ってこなくて、みんなで心配していたわ。次の日の朝になって、あの人がもうこの世にはいないのだと知らされて……」
「紫道さんはどこかに出掛けていたんですか?」
「そうよ。その他はいつもどおりの態度だった。でも何処へ行ったのかがさっぱりなの。劇団員にも聞いた詩、知り合いみんなに連絡したけどわからないままだった」
輝血が言った。その顔には少しだけ疲労が見えた。
藍葉は輝血の調査資料を借りて、現在寝泊りしている夏目邸へ戻ることにしたが、その前に事件のあった橋へ立ち寄った。幻術の研究は大切な目的だが、明日明後日仕上げなければならないものではないから、輝血よりはずっと時間に余裕がある。
陽は暮れかけていた。橋の欄干が夕陽に照らされて赤くなって見える。人通りは多くないが、絵画の題材にもなりそうな風景だ。此処で七年前に悲劇が起こったのだ。
「輝血さんの話じゃ、この辺りよね……」
落ちないように気を付けながら下を覗き込む。かなりの高さがある。河川敷には小石ばかりではなく上流から流れてきたらしい岩も転がっている。此処から落ちれば確かにただでは済まないだろう。
「でも、こんなしっかりしてるのに」
作りは古い様子だが、丈夫に作ってあるように見える。高さも充分にある。特に修理したような跡もないということは、壊れたこともないのだろう。わざわざ体を乗り出して見下ろしたり、誰かに突き落とされたりでもしない限りは転落などしないはずだ。
「何があったんだろ」
事件は随分と昔の話だ。恐らく当時調べられることは全て調べ尽くしてあるはずだ。今更新しい情報もないだろうが、こんなところから転落死するというのは確かに違和感を覚えた。
正直なところ、藍葉は輝血に魔法は難しいと思っている。藍葉のように魔法を伝えてきた家系に生まれたわけではない輝血は魔力炉そのものがそう強くないのだ。人間の魔力はせいぜい生命維持に必要な分しかないようになっている。
勿論頼まれたことを引き受けた以上はきちんと魔法について教えるつもりはある。だが輝血が独学で学んだ以上のことを教えても、彼女が実践できるようになるかはあまり期待できなかった。しかも彼女が望んでいる魔法は魔術の域にあるもので、人間が真っ当に生きていてそれを使えるはずもないのだ。
それでも藍葉は輝血を放っておけなかったのだ。ヒノモトの有名人と知り合いになるとは思ってもみなかったが、今ではすっかり友人となった。輝血がこのまま追い詰められて深い闇に飲まれはしないかと――魔法が彼女の気を紛らわすのなら、それもまた一つの手段だと思ったのだ。
わざわざ資料を借りてきて過去を調べているのは、もしかしたら、誰もが見落としていた何かがあるかもしれないと思ったからだ。見つけられる自信があるというわけでもなかったが、改めて調査し直すほうが魔法よりは現実的――というよりは、マシなような気がしたのだ。
「ただいま戻りました、音子さん」
「あら、藍葉さんお帰りなさい。ちょうどお夕飯の支度ができたところですのよ」
夏目邸を取り仕切るのは女中の猫妖怪、音子である。夏目家の親子は冒険者であるためよく家を空けている。その留守を守っているのがこの黒い毛並みの音子であった。
藍葉が夏目邸に宿泊しているのは、夏目家の跡取り時也の厚意である。藍葉とは縁があって現在は懇ろな仲だが、当の本人は最近は冒険者の仕事が忙しくあまり帰っていないのだった。何でも天景山脈で鉄道工事があるので、邪魔をする害獣を狩るのに駆り出されているのだとか。害獣は凶暴な怪物だから、退治は重要な仕事である。
時也がいない間に部屋を借りるというのは藍葉としては悪い気もするのだが、部屋は使ってこそだと時也と音子に言われているので、ありがたく客間を借り、食事の世話をしてもらっている。ただ居座るわけにもいかないので、滞在中は掃除や家事などの手伝いをしている。音子たちがとてもよくしてくれるので、最早もう一つの自宅のような感覚に近い。
「最近、とても熱心ですね。研究が上手くいっているんですか? それとも、別に気になることでもおありかしら」
「……研究はぼちぼちです、音子さんのいうとおり他に気にかかることがあって」
「何にでも興味を持つことはよいことですわ」
音子は言った。
「やりたいことがあるのなら、やりたいと思ったときにやっておかなくてはいけません。そうでないとやりきれませんから」
「やりたいこと……」
「若いうちは何にでも挑戦できますわ。わたくしは陰ながら応援しておりますわ。でも、あまり危ないことには踏み込みすぎないようになさいませ。藍葉さんに何かあったら悲しむ人が沢山いるのですから」
「……ありがとうございます、音子さん」
「さあ、お腹が落ち着いたらお風呂にどうぞ。汗を流してすっきりしてくださいね」
年嵩の猫の応援を受けて、藍葉は少しだけ心が軽くなるようだった。音子は可愛らしい猫だが母親のような、そして揺り籠のような温かみを持っている。
ここは彼女の言葉に甘えて、疲労回復してから考えよう――その前に食事の後片付けが必要だ。
藍葉は部屋に戻ってから輝血に借りたファイルを開いた。輝血が調べたことが全て此処に書いてある。
彩華紫道。輝血の育ての親であり、七年前橋から転落死した、以前の彩華歌劇団の座長。
七年前の日付が書かれた舞台のチラシが挟まっている。当時紫道が出演する予定だったものだろう、名前と写真が載っている。写真を見る限りでは老いてはいるが目つきはきりりとしていて、化粧と衣装を整えて芝居のために舞台に上がれば格好がつきそうな顔だ。
享年六十二歳。生きていれば六十九歳だ。輝血の正確な年齢は藍葉は知らないが、恐らく彼女は二十代前半というところだから、それを思うとかなり歳が離れている。血は繋がっていないそうなのでそんなものだろうか。
紫道は用事があると言って出かけた。そして次の日の朝には遺体となって発見された。転落事故として処理されたが、藍葉が見た限りでは何か特別な事情でもなければ転落などありえなさそうな場所だった。紫道は酒も飲まなかったそうだから、酔って誤って転落したということもないだろう。だから輝血は事故死とは認めなかった。
既に調べがついていることとしては、紫道と親しかった誰かの犯行ではないということだ。警察や輝血が見落としてさえいなければ。思い当たる知り合いには全て連絡したのだろう、名前と連絡先のリストにバツがつけられている。これは個人情報なので特に気を付けて扱わなければならない。藍葉に悪用するつもりはないが、このファイルは他人には見せられない。
もうすぐ新しい芝居を始める予定だったことや、いつもと変わらない様子だったということは、自殺したという線も薄いだろう。死ぬつもりだったなら輝血が何か異変を感じ取っていたはずだ。それがなかったのなら、彼は死ぬつもりは全くなかった。彼が死んだのは誰かに殺されたか、転落事故を引き起こす何かがあったということだ。そういう想定で調べていくことにする。もうすでに一度調べられたことだろうが、藍葉は自分自身でそれを確認したかった。何かあったのか、何もなかったのか、解き明かさなければ輝血は過去から目を離せないのだ。
その結果がどうあがいても謎が謎のままであったなら、藍葉は友人として輝血の新しい中身を作る努力をするだけだ。まずはできそうなことからしていこうとしたら、調査の洗い直しに思い当たったからやってみようと思っただけだが、やれるだけはやると決めている。本来の幻術という目的を外れて全く違うことに熱中することになるわけだが、音子の応援もあったので開き直ることにする。
ファイルの資料には当日の紫道の動向を調べたものがメモのように書きつけられていた。彼が出かけたのは昼を過ぎてから。この記録はその後のことだ。
目撃情報はほとんど見つからなかったようだが、全くなかったわけでもないようだ。夕方頃にビル街へ向かって歩いているところを見た人物がいたようだ。簡単な地図が描いてある。この地図にある辺りのどこかのビルに用事があったのだろうか。
「実際に行ってみるのがいいかしら……七年も経ってたらちょっと変わってるのかもしれないけど」
藍葉は東区の地理は覚え始めたところで、まだまだ詳しいわけではない。道を覚えるついでに調べられそうなことがあれば調べてみようか――藍葉は次の予定を考える。
「私東区に何しに来たのかしら。何だか探偵みたいなことをしている気分だわ」
尤も本当の探偵でもなければ、事件はかなり昔の話で、解決できる自信はないに等しいのだが。そもそも解決しなければならないような謎があるのかもわからないという時点で謎解きとしては破綻しているような気もする。
幸い時間だけはたっぷりある。音子の言うとおりやりきるには充分だ。




