それは祝福すべき糸3
暫く静かな日々が続いた。父の暴力がぱったりと止んだのだ――さゆに対しては。茶之介を殴るのはいつもどおりだったが、さゆが傷つかないことは喜ばしく、そして疑惑に満ちていた。茶之介は自分の父親がそう簡単に善人になれるような在り方をしていないことを知っている。決して良いとはいえないような理由がそこにあるのではないかと、茶之介は警戒を強くしていた。
その間日次との接触もなかった。彼女がまたと言ったのだから、再び姿を現すだろうとは思っていたが、根拠もなく信じ続けるには少しばかり間が空いていた。彼女から貰った金にはまだ余裕があったが、そろそろ新しい仕事を探さなければならない頃だろうかと茶之介が思い始めたようなときに、事態は大きく動いた。
坂島屋が取り立てに来る日だった。客の注文を受けて商品を運ぶのは茶之介の仕事の一つだった。真新しい藺草の匂いがする畳を届けて、その日は足早に帰宅したのだ。
家の前に見覚えのある車が止まっていた。この辺りで車を個人で所有できる家は少ないから、なおさら記憶に残りやすい。黒くて大きい――車名がどうのこうのというのは茶之介の知識にはなかったが、とにかく、高そうな車だということだけは認識できた。坂島屋の使っているものだ。
そして家に入ったところで、茶之介は、自分の妹が借金のかたに売られかけているところを目撃した。
「さゆッ!」
妹の名を口に出せば思ったよりも大きな声が出た。さゆの肩を掴んでいた男が振り返る――坂島屋の主人だ。隣に用心棒らしき男もいる。
「やあ、お帰りかい」
「に、兄さん……」
「さゆをどこへ連れてくつもりだ」
「怖い顔をしないでくれたまえ」
これは正当な契約に基づくものだよ――と優男が言った。優しげな笑顔で、それがひどくこの場にそぐわない感じがして、気味が悪い。
「私の本業が魔術薬だというのはきみも知っていると思うが、研究も容易くはないのでね。助手がほしかったところなんだ――」
「助手だって?」
わざわざ目の見えないさゆを助手に選ばなければならないほど、人手に困っているようには見えない。一体さゆに何をさせるつもりだろう――あまり良い予感はしなかった。さゆを選ばなければならない理由があるとすれば、目が見えず逃げられないからとしか思えない。
「……あんたの薬を試すために?」
「野暮だね」
それがつまり答えだった。
茶之介は父親に掴みかかった。
「あんた娘を何だと思ってる!」
「お前は口を出すな! これが一番いい方法なんだ、俺はあんな出来損ないは養えないんだ!」
「ふざけるなっ」
理不尽だ――周囲を取り巻く何もかも。確かに茶之介は妹を父から引き剥がしたかったが、こんな形は望んでいない。腐った父親が憎い。それにつけこむ金貸しが憎い。薄汚い大人がどうしようもなく忌まわしい。
「ふざけるなよ――ふざけんな――」
「しつこいねえきみも。まずは金だよ、それがないなら私に文句をつけないでくれたまえ。さて、峠さん……?」
「すみませんねえ、坂島の旦那、すぐに黙らせますから」
ただの子供の茶之介にはこの状況を覆す力はない。さゆが連れ去られてしまう――そんな危機に妹の手を握ることすらできないのが、兄として悔しく、耐え難い。父が拳を振りかぶるのを見て目を伏せ歯を食いしばったが、しかし、予想した衝撃はなかった。
「……?」
一体どういうことかと思えば、父も、他の誰も茶之介を見ていなかった。視線を追えば、見覚えのある真っ赤な着物を纏った、言葉にも表せないほどの美人――日次がそこにいた。
「……今取り込み中なのがわかりませんか」
「そのようだね。だが金ならあるよ」
日次が札束をちらつかせると、坂島屋は狼狽えた。それはちょうど峠家が借りているのと同じ額だけある。坂島屋の手がさゆから離れた。
「あなたが肩代わりすると?」
「そうとも。それで、もう一つ……お前に用事があるんだよ。――憲兵!」
日次が声を上げると、外から国家憲兵の制服を着た男たちが入ってきて、坂島屋を取り囲んだ。
「憲兵団っ!? なっ、何ですか一体ッ」
「魔術薬の違法取引で逮捕する」
「く……おい、お前、薬を使えッ!」
用心棒が何か薬の瓶を取りだして呷った。
「これがあれば、力が湧いてくる――どけえ!」
「憲兵、取り押さえろ」
「無駄だ!」
狭い場所で用心棒が暴れ始める。その隙を突いて坂島屋が逃げ出そうとするが、それは憲兵たちが許さなかった。
「日次様!」
「……粗悪品にもほどがあるね」
薬で強化された用心棒は憲兵たちを薙ぎ払ったが、前に出た日次に腕を捕まれて動きを止めた。
「お二人とも、こちらへどうぞ」
「あ、ああ……」
さゆと茶之介は、これも憲兵の仲間であるらしい鎌鼬に助けられて、隅のほうに避難した。邪魔をしようとする坂島屋の用心棒を押し止めたのは、その鎌鼬が起こした風であった。
「な、何? どうなってるの? 何が起きているの……?」
「魔法だ……魔法で戦ってるのなんか初めて見た……」
「おや、そうなのかい。ではよく覚えておきなさい。魔術がどういうものかを」
日次は言った。用心棒の腕がみしりと嫌な音を立てる。
「ぐ、ぐわああア!」
細く頼りなく見えたはずの彼女の腕は、しかし屈強な男を捻じ伏せる逞しさを持っていた。普通の人とは思えない力に、それが彼女の魔法であるのだと、茶之介は直感した。
その後は用心棒など形無しだった。あっという間に憲兵たちが取り押さえ、坂島屋の若き主人には手錠がかけられた。
「きみがいいことを教えてくれたからね。憲兵たちに調べさせたら裏が取れたのさ。流通ルートも法律で禁じられている素材が使われていることも――まあ色々とネ」
「あんた、憲兵団を動かせるような人なのか……」
「これでも沈黙魔王と呼ばれているからね。東区で事件が起きて、放っておける立場じゃないんだよ。特に魔族の事件ならなおのこと……そういえばまだ言ったことはなかったんだったかな?」
「あんたが、魔王――」
確かに坂島屋が怪しいことや、取り立ての日がいつかを教えたが、まさか憲兵団を動かしてくるとは茶之介の予想外だった。沈黙魔王。東区のトップ。魔王が権力者であることなど学舎に通っていない茶之介ですら知っている。彼女が政府の役人だろうとは予想していたが、成る程、魔王というのなら金があるのも納得だ。日次に関しては何もかも予想の範疇を超えている。
「でも、憲兵を動かせるんだったら、あんたが出てくる必要はなかったんじゃないのか……」
「魔術薬がどんなものか気にかかっていたし――それに、今日はきみとお話したかったから。この子が妹のさゆかい。可愛い子だね」
こんにちは、私のことは日次と呼んでね――などと、さゆに優しく語りかける笑顔は坂島屋の優しげな顔と似ているようで全く違った。坂島屋の厭らしさとはまた違う強かさとでもいうのか――彼女もまた優しいだけの人ではないのだ。ただ、茶之介は彼女の慈愛に満ちた笑みは嫌ではなかったし、さゆもそんな兄に倣ってか日次に対する警戒は薄かった。
いきなり状況がまるで変わってしまったことに驚いていたのは茶之介だけでなく父も同じで、ことが終わってようやく理解したのか、上手く笑えていない顔で諂った。
「こ、これはこれは、魔王様とは露知らず――」
「茶之介くんのお父上だね。実は折り入って相談があるのだけれど――」
「そ、相談?」
「私はこの子の将来に投資をしたいと思っているんだ」
そう言って茶之介の肩を抱き寄せた。
一体どんな交渉だったか、茶之介はあまりに驚いていたものでその時のことはほとんど記憶に残っていないのだが、日次は上手く父を丸め込んだ。そして「ぜひ私の手を取ってほしい」と言われて、どぎまぎしながら返事をしたのだけは覚えている。
「妹も一緒でいいなら」
「もちろん構わないとも」
ようやく胸を撫で下ろす気分だった。父の暴力に虐げられ、磨り潰される痛みはもうなくなるのだ。少なくとも峠家の中で閉じこもっているよりはずっと良い。どうせこの家にいてもどんどんひどくなっていくだけなら、彼女の手を取らない選択肢などありえない。
改めて握手をしながら、茶之介はずっと抱えていた疑問を口にした。
「あんたって女だよな?」
「さあ、どうかな」
◆◆◆
坂島屋の事件はこうして終結し、違法魔術薬は全て押収されて町は落ち着きを取り戻した。そして日次に引き取られることとなった茶之介とさゆはそれまでとは全く違う生活を歩むこととなった。
体を綺麗に洗われ、髪を整えられ、新しい着物を与えられ、美味い飯を食わされて――将来日次のもとで働くために必要な知識を与えられ、技術を仕込まれた。兄妹揃って勉強ができるとは夢にも思わなかったが、日次はそれが可能な環境を用意した。
「俺が冒険者になる道はあの方が用意した。冒険者組合の設立には日次様が深く関わっているから、俺にモノを教えるにもちょうどいい人員は沢山いたわけだ。レールを敷くのも容易い話だった」
そして茶之介は魔王の戦士となり、主に尽くすようになった。さゆも今では魔王の使用人として働いている。元々の生活を考えれば信じられないような待遇だ。兄妹にとって、これは手放せない幸運であった。他の道を選ぶことはできなくなったが、それはもう考えられないことでもあった。風の噂で父が蒸発したらしいことを知ったが、最早その行方を知りたいとも思わない。
「ずっと妹と二人で、日次様のために生きてきた。それを、あんな……碧柳なんかに取られるとは思わなかった。しかもいつかは時也にも兄と呼ばれるようになるのかと思うとさらに腹立たしい」
「ええと……なんていうか、ねえ……」
恵理が知っている限りでは、碧柳は西区の激流魔王に代々仕えてきた家系の、いわば生まれながらのエリートである。魔王に大事に扱われるという意味では茶之介と近い立場にいるが、似た年齢のわりに二人が歩んできた人生はかなり違っているはずだ。血筋の正統性にすら溝がある。恐らくはその辺りが二人の対抗意識に火をつけることになっている――と恵理は予想するが、思いのほか、茶之介は重症のようだった。
「ライバルが羨ましい?」
茶之介は小さく頷いた。
「それに大切なものは全部近くにあるほうが安心する。日次様も、さゆも、それに時也も」
「……お茶くんって結構欲張りなのね」
それに否定の言葉はなかった。茶之介自身自覚しているところがあるようだ。そんな彼に恵理の正直な感想を無神経に言うのは――気落ちしている相手に、面と向かって気持ち悪いと言ってしまうのは憚られた。
「あんたはどうだ。手放すのは平気なほうか」
「そうね。慣れてるわ」
温くなってきたコーヒーを飲み干す。恵理は見た目こそ若くとも、茶之介の三倍ほどは長く生きている。その間コーヒーと同じような苦みを味わわなかったわけではない。
「あのねえ、さゆちゃんと縁が切れるわけじゃないのよ。もっとゆったり構えていなさいよ」
「碧柳を一発ぶん殴るのはありだろうか」
「死なない程度にならネ……」
その辺りから愚痴に碧柳への小さな復讐計画が混ざりこむようになってきて、とりあえずは茶之介の気持ちが持ち直してきているようで、恵理は安心した。だが、もうそろそろ本気で面倒くさくなってきたのも事実だった。コーヒーはもうない。缶の一本では割に合わない。
「恵理、あんたいい女だ」
「そ? ありがと」
――やっぱりチャラにしてやろう。顔のいい男に褒められるのは悪い気分はしないものだ。
碧柳は茶之介に会うたびに嫌味の応酬をするが、どうにも考えを変えたのか、反対をするより「絶対にさゆを幸せにしろよ」と念押しするようになった。何が彼をそうさせたのかわからないが、碧柳としては良いことだと思っている。ただし、そうなるまでに一発顔が腫れるほど強く殴られたことについては許す気はない。
さゆの手を引いて歩く。彼女の狭い歩幅に合わせてゆっくりと歩くのも、より長く共に過ごせると思えばひとつも苦にならない。美しい景色を共有はできなかったけれど、さゆはさゆなりに辺りのものを感じ取っている。碧柳は彼女の感じる世界を知りたいと思っている。
「碧柳さん」
「うん、どうしたんだい」
「お顔に触ってもよろしいかしら。よく考えたら、私、あなたのお顔を知りませんから……あなただけが私の顔を知っているなんて、少し不公平でしょう?」
「いくらでもどうぞ!」
さゆの唐突なお願いというのは幾つか経験している。慣れないがそれもまた楽しみでもある。ぺたぺたと顔を触られる間身動きが取れず、妙に緊張してしまった。そして彼女が言うのだ。
「碧柳さんは思っていたより柔らかいのね」
「そ、それはどういう意味なのかな!」
さゆがにこにこと笑う。彼女は何も見えていないはずだが、どうにも全て見透かされているような気分がする――しかしその笑顔に見惚れて、碧柳は細かな疑問は忘れ去った。
何はさておき、赤い糸は結ばれている。
外伝第一弾でした。
茶之介先輩の過去話ですが、とても楽しかったです。
日次の趣味の服を貰っているので峠兄妹の服はほとんど赤ばっかりです。
外伝はまだいくつか書く予定ですが、このキャラ好き! とか言われると積極的に話に絡ませようとするタイプなのでご感想いただけたら嬉しいです(露骨)。




