第一話
転落死だったのだろう、と時也は思っている。
まるで何かに引っ張られるようにして、体はマンションのベランダから空中へ放り出された。
清々しい青空と薄汚れた灰色のコンクリート。
視界がひっくり返って、あらゆる全てが反転して、そして――どうなったのか、恐らくそのまま地面に叩きつけられて死んだのだろうが、時也の記憶はそこで途切れている。それより後は、全てこの世界で過ごした日々で構成されていた。
つまりは何のことかと言えば、転生したという話である。
時也がそれを誰かに語ったことはない。話したところで妄想も大概にしろと突き放されるか頭の心配をされるのがオチだろうと思ったし、何より自分がそんな記憶を持っていなければ誰かに「実は自分は転生者で、前世の記憶があるのだ」と語られたところで「こいつは夢の国の住人なんだろうか……」とまともに取り合わないだろうとも思ったのだ。そもそも輪廻転生というものを信じてすらいなかったのだから。
だから養父であり剣の師匠でもある夏目嘉一郎にも、自分の母代わりとなった音子にでさえ、そんな話は一言足りとも伝えていない。
それに、実際話して感傷に浸っているどころではなかった。そんなことよりも重要な問題があった。この世界には時也の前世には存在しないものがあったのだ。魔族、妖精、妖怪、そして――
害獣。
畑を荒らす鹿や猪ではない。体内の魔力炉と呼ばれる器官に異常をきたしたモノ。魔力に強い影響を受け、肉体的に大きく変質し、真っ当な生物の枠から大きく逸脱した怪物――それが害獣だ。
最初にその存在を知ったときは戦慄した。前世同様、多少文化や動物に違いはあれど平穏に暮らせるものかと思いきや、実は全くそんなことはなかったのだ。そもそも世界の構造が、生物のあり方が、根本的に圧倒的に異なっている。
頭を打ちつけられるのに似た――掌を返され裏切られたかのような錯覚。この世界に抱いていた幻想が一挙にして崩壊の音を立てたあの日。
「そこまで驚くほどのことじゃないと思うんだがなあ……?」と言った嘉一郎は心底不思議だという顔をしていて、時也は害獣の存在という事実がこの世界における逃れられない常識であることを知った。
――鍛錬を怠ったら死亡フラグ。
冗談のように軽やかに、されど冗談では済まされない言葉が脳内を駆けていく。それは確かに時也の背筋を震わせ、けたたましく警鐘を鳴らしたのだ。
◆◆◆
「私と結婚してください!」
少女の唐突なプロポーズに対し、時也は咄嗟に返すべき言葉が浮かばなかった。そもそもどうしてそんな告白を受けることになったのか、それすらよくわかっていなかった。
硬直すること三秒。早く何か返事をしなければ、今自分はどういう状況にあるのか確認しなければ――そんな焦る気持ちのせいか、或いは年頃の少女という普段接する機会のない相手に対しての緊張からか、混乱した彼の口から滑り出たのは、
「もっと自分を大切にしなさい」
――そんな、求婚に対する返答としては致命的に間違った説教染みた台詞だったはずだが、それから一時間経過した今。
時也は、連れを二人増やして神隠しの森を歩いている。
(どうしてこうなった……)
狩った獲物たちを積んだリヤカーを引きながら思う。
別に増えた同行者たちが気に入らないのではない。内訳で言えば気心の知れた同業者であり先輩にあたる峠茶之介と、初対面の少女である霧雪藍葉だ。特に嫌う理由はない。どうにも落ち着かないのは藍葉の求婚が衝撃的すぎたせいだ。まだ頭が混乱している。
状況整理をしよう、と時也は思った。自らの行動を振り返れば、少しは冷静になれるというものだ。
――そもそも時也が神隠しの森に入ったのは、害獣駆除の依頼を受けたからだ。
時也は冒険者だ。所謂危険代行業務というもので、ヒノモト帝国においては冒険者業は免許を必要とする専門職であり、冒険者組合という管理組織のもとで活動している。仲間同士で組んで国中を旅する者もあれば、拠点を定めてその地の組合の出先機関で仕事の斡旋を受ける者もいる。時也は後者であり、今回の依頼についても組合からの紹介があったから引き受けたものだ。
やることは至極単純な作業である。餌を仕込んだ箱罠を設置して、害獣がかかるのを待つ。真正面からの戦闘は避け、罠で身動きが取れなくなった獲物にとどめを刺す。どうせ食肉にはできないので、使うのは毒を塗った脇差だ。冒険者というよりは猟師の仕事に近いし、そもそも冒険と呼ぶにはかなり泥臭いやり方だが、時也にとっての害獣駆除というとこれだった。神隠しの森は、慣れた狩場だった。
そして、任務遂行のため一週間前から森に通い、今日になって巨大な害獣が人を襲っているところに出くわしたのだ。正確には害獣の咆哮が聞こえたので、様子を窺おうと引いてきたリヤカーを置いて自ら近寄っていったのだが、その際に目撃したのである。
その時点で既に平常心ではなかったのだろう。誰が襲われているのか、敵が自分の腕で倒せる相手なのかだとか、そんなことを考えるより先に飛び出して手持ちの毒の刀をそれに突き刺していた。
この森で初めて見るタイプの大型の敵だった。それでも、害獣が背後から駆け寄った時也に気付くのが遅かったこと。害獣がすでに誰かと戦闘していて傷ついており、肉の柔らかい部分が晒されていて剣を刺しやすかったこと。体が大きいわりに、毒が回るのが速かったこと。幸運であった。
奇襲を達成してようやく時也は襲われていたものが少女であることを認識した。落下する彼女を受け止めようとして、勢いに負けて下敷きになり、女の子って柔らかいなどと場違いなことを思っている間に聞き覚えのある声を聞いて害獣を傷つけていたのが誰かを悟り何故か少女に求婚され。
そして茶之介と「お赤飯か!」「違います!」という会話もした。
(うん、カオス……)
プロポーズに対しては突然すぎて答えようもなくその場はお茶を濁すことになったが、だからといってこの森の中で放置できるはずもなく、こと此処に至ってようやく彼女の名前を聞き出し、茶之介と共に東区の冒険者組合事務所へ行く道中だという事情を聞いて、安全を考え同行することにしたのだ。倒した害獣は巨体で運び辛いといえど折角仕留めたモノなのでリヤカーに積んで持ち帰ることにしたが――。
そこまで思考を整理して、何気なく彼女の様子を窺うと目が合った。彼女の、赤い紐で結い上げた柔らかそうな長い黒髪が揺れる。
「時也さん?」
涼やかな声だ。歳の頃は十五、六くらいだろう、顔立ちはやや幼さを残すものの色白で鼻筋が通っていて上品に感じられる。今彼女が着ているのは白を基調とした若者らしい軽装だが、きちんとした着物を着込んだらそれはよく似合うだろう。
「あの、何か?」
「いや、その、ええと――無事で良かったなと思って」
藍葉に見蕩れていたことを素直に吐き出すのは気恥ずかしく、時也は誤魔化すことにした。
とはいえ、無事で安心したというのも全くの嘘ではない。時也とて、新聞で読むような知らない他人の死を悼めるほど優しいわけではないが、目の前にいる誰かが死に直面しているのを捨て置けるほど割り切って生きているわけでもないのだ。彼女の、何が入っているのか大事そうに鞄を抱える手は痛々しく傷ついていて目につく。
「ふふ。時也さんが助けてくれたもの」
微笑まれて、思わずどきりとしてしまう。
「そうだぞ、時也。お前が来なかったらまずかった。俺では対処できなかったからな」
「先輩」
「お前がいて良かったよ。何せ刀がこのざまだ」
そう言って、鍔が砕けた刀を見せた。害獣との戦闘で破壊されたらしかった。刃は多少毀れたものの折れはしなかったようで、卓越した剣技を感じさせるが、それを見て改めて危機だったことを実感した。
「不幸中の幸いってきっと時也さんのことね、怖い目には遭ったけど大丈夫だったもの」
藍葉と茶之介に感謝されて、悪い気はしなかった。一歩間違えばそれこそ時也の嫌う死亡フラグというものだったが、今回は運好く上手くいった。反省点は多いものの、これはこれで悪くない結果だった。あくまでも幸運だっただけで、実力が伴っているかというと時也は自信がなかったが、今は深く考えないでおくことにした。とりあえずは森を出ることだけを頭に置いておけばいい。
(でも、なんか変な感じがするっていうか)
神隠しの森は害獣が棲みつく森だ。戦う術を持たない者にとっては危険極まりない場所である。そのうえ、魔力の流れが乱れているせいで非常に難解な迷宮と化しており、通り抜けるだけでも苦労する。これは魔力の探知ができれば正しい道がわかるので、魔族に道具を作ってもらえればどうにかなるのだが――時也も魔力に反応して音の鳴る土鈴を持っている――厄介なものは厄介だ。
変だと感じるのは、そんな場所を歩くのに藍葉と茶之介の二人で来た、ということである。
時也は茶之介の腕前は知っている。純粋な剣なら時也など足元にも及ばない相手だ。森を歩くだけなら何も心配する必要がない。それは別にいい。
ただ、藍葉という連れがいるから問題なのだ。
彼女は明らかに戦う人間ではない。普通はこんな森は歩かない人間なのだ。ただ、西区と東区を繋ぐ街道が害獣被害に遭い、現在通れないからあえて危険を冒してこの森を通らなければならなかっただけ。
茶之介が側にいる理由は彼女を護衛するためなのだろうという推測くらい時也でもできる。けれども、護衛という任務を一人でやるというのが、彼にしてはどうにも雑な対応に思えてならなかった。
実際、時也がいなければまずい状況に陥っていたのだ。果たして峠茶之介という男は、そんなに無茶をする人物だっただろうか。
疑問が表情に浮かんでいたのか、茶之介は苦笑して言った。
「まさか、こんなものがいるとは思わなくてな。お前、知っていたか?」
彼が指差すのは、リヤカーの上の屍骸である。
(――ああ)
それで合点がいった。要するに、この男は多少の無理は承知の上で護衛の任を引き受けたのだ。何故そんな依頼を強いられているのかまではわからないが、そもそも必要でない限り仕事の事情なんてものは話すことではない。時也はそれ以上追及することはせず、茶之介の質問に返事をする。
「――いえ、俺もこんな大物見るのは初めてです」
「とすると、もしかしたら新種なのかもしれないな。冒険者組合の情報にもなかったし、神隠しの森に慣れているお前が知らないとなると」
そこまで言って、何か考えるように顎に触れる。思考に沈んだのはほんの数秒で、その後は普通に歩き出す。「情報管理はちゃんとしておかないとな」と言う声は笑っていたが、その顔に表情はなかった。
(……見なかったことにしよう)
下手につつくのはよろしくない、と判断して前を向く。
「それにしても、時也さんって本当に凄いんですね。初めて見る敵でも手早く倒せるなんて」
「あ、いや、ええと」
「時也はほとんど害獣専門だからな。若いがしっかりしているし、実力もある」
「素敵です、時也さん」
「……ハハハ」
毒や罠や不意打ちが特技だから戦えるだけで剣は下手だし正々堂々戦う勇気もないんだ、とは言えなかった。二人の会話に割り込んで訂正できるような空気ではなく、時也はただ、乾いた笑いを零した。
この褒め殺しに来ているかのような空間で、出口までおよそ一時間二十分。獲物を積んだリヤカーがひどく重く感じる夏目時也十九歳の春であった。
夏目時也=主人公。誰が何と言おうとも。