それは祝福すべき糸2
日次は噂の魔術薬と、その流通ルートを探っているという。話の中でわかったのは彼女が政府の役人であること、違法な魔術薬について把握しなければならないと考えていること。そして茶之介という協力者を引き込んだ理由だが、それはこの辺りの事情について詳しく、信用のおける誰かが必要だったからだった。
「きみのことを気に入ったからね」
彼女が知りたがっていた町の事情で茶之介が知らないことはなかった。近所のことならどこの家が何人の家族で箪笥の中身も交友関係も知っていたから、人から人へ辿っていけば魔術薬がどれほど浸透しているのかすぐにわかった。副作用のひどさは実際に倒れたものに会えばわかった。
また、その頃の茶之介はどこにでもいるただの子供で、日次のように目立つこともなかったから、日次が欲しい情報を集めてくるのにも役に立った。ちょっと気になる素振りを見せて聞きだせば、薬には人の血が使われているとか、闇市で出回っているのだとか、本当か嘘かもわからないような怪しげな情報がいくつも拾えた。調査は全く順調というわけでもなかったが、茶之介の手柄を日次はとても喜び、そして他の仕事などしなくてもいいほどの駄賃をくれた。
日次は子供を甘やかすのが好きらしかった。彼女が自分のことを話さない分、茶之介の話を聞きたがった。隠すことなど何もなかった。父と妹と暮らしていて、親のことは嫌いで、妹が何より大切で、いつかあの家を出て幸せに暮らすのが夢だった。こんな話を聞きたがり、それで辛いことを慰め、慈しんでくれるような存在は、妹の他には日次しかいなかった。
そんな話をした後から、駄賃の他に土産が増えた。懐に隠してしまえるだけの、しかしいつもなら絶対に手が届かないような高級な菓子を貰うようになった。
「妹と食べるんだ。他の誰にも内緒でね」
貰うものは饅頭だったりカステラだったり、その時の日次の気分で違うものを貰った。腹を空かせ痩せ細った妹が美味しそうに土産の菓子を食べるのを見るのが、茶之介の新たな楽しみになった。
期限付きの関係だとはわかっていたが、それでも茶之介は楽しかった。今まで色々な仕事を引き受ける中で身に着けた大人へ取り入る術はどこへ行っても役に立った。そしてある日畳の注文を聞いている時に、客が魔術薬を買ったと言った。
「……そんなものどこで買えるってんです?」
茶之介はできるだけ冷静に、冗談でも話しているかのような態度で、聞いた。彼の内心の焦りなど客は気づかなかったようで、あっさりと白状した。
「魔術市場の薬売りさ。ホラ、昔からずっと店を出してる――最近代替わりしてから面白い品が増えたが、んん、あの薬は本物なのかねえ」
違法なのは体を壊してしまうという強すぎる副作用のせいだ。この客は面白がって買っただけで、試してはいないようだった。
だが、それが、本当ならば。
茶之介が唾を飲み込んだ。今度はこの客も見逃さず、にやにやとしながら茶之介の額をつついた。
「なんだい、お前さん、興味があるのかい」
「あはは……店の名前は何て言いましたっけ?」
「坂島だよ、坂島屋。市場の南側の端のほうにある店さ。でもなあ、お前さんじゃとても手を出せない値段だぜ、ハハハ」
用事も終わり雑談もきりがいいところで終えて、帰っていく客に頭を下げる。茶之介は自分の鼓動が速くなったのを自覚していた。
魔術市場の坂島屋は、よく知った名前だった。知らないわけがなかった。それは――峠家が金を借りている相手だ。
魔術市場に店を出すのは技術や叡智を切り売りできるような魔術師か妖怪だけだったが、彼らがそれだけしかやらないというわけではなかった。
無論、それだけで充分生きていけるものも多い。ヒノモトには魔族が少なくないが、それでも魔術は限られたもので、魔術品そのものを求めるものもいれば、他で扱っていない素材を探す魔術師も訪れる。此処ではいいモノを揃えているなら流行るようになっている。その収入で充分にやっていけるのだ。
それでも器用なものなら他の商売にも手を付ける。金貸しなどはよくある話で、坂島屋も先代の頃からそうだった。茶之介の父はそこからよく金を借りていて、結局はそれが峠家の家計を火の車にしているわけだが、ともかく縁が深いことは間違いなかった。
坂島屋の二代目は人の良さそうな魔族の好青年であったはずだ。親身になって相談に乗るようでいて、高利で金を貸し付けるのを知っているから、その顔が本当だとは思ってはいなかったが――それにしても、あの男が危険な魔術薬を取り扱っているというのか。
果たして次の返済期日はいつだったか。次に会うとすればその時だ。日次には何と言ったらいいだろう。
いつもどおりに振る舞いながらも、茶之介は緊張していた。彼の動揺に気づいたのは、家族の中では奇しくも人の顔色を見ることのできないはずのさゆだけだった。
「兄さん、何かあったの……?」
肉のついてない少女の細い指先がそっと袖を掴んで、頭を摺り寄せるようにしながら、小さな声で囁いた。
茶之介は妹の背中を撫でながら、「――いや、何でもないよ」やんわりと否定した。何かあるとすれば、それはこれから起こることだ。
ごろん、と空っぽの酒瓶が転がってくる。茶之介が視線をやると、最後の一滴まで飲み干して、父が不機嫌そうにグラスを傾けていた。茶之介は咄嗟にさゆの前に出て、自分の後ろに隠すように立った。
「生意気な顔をしやがって」
酒焼けしているのかやや掠れて痰の絡んだような声をしている。ひどく酔っている。顔はいっそ赤黒いくらいになっている。これはよくない、と茶之介は直感した。
突然、がつんと殴られる。次の瞬間には視界が反転していた。体が打ち付けられた衝撃で跳ねた。鉄の味がする。口の中が切れたらしい。
「どうしたの、兄さん、何の音……?」
「喧しい!」
「ヒッ」
小さな悲鳴がしたかと思うと、今度はさゆがずるりと引きずられる。
「痛い、痛い、やめて」
「この穀潰しめ」
床に倒れながらも父を見上げるが、どうにも目に映る全てがぐらぐらと揺れている。体中が痛い。ぶれる視界に突き放されて崩れ落ちる妹が映り込む。
「お前なんかいらなかったんだ」
父親の呪いのような声がする。茶之介は這いつくばって口の中の血を吐きながら、睨むだけしかできなかった。いつかこの男と妹を引き剥がすのだと腹の奥に煮えたぎる灼熱を抱えて、襲い来る暴力に耐えるのだ。
痣がまた増える。
◆◆◆
坂島屋のことは恵理も知っている。薬草魔術は彼女の得意分野で、彼女の研究と近いところの話で興味深い事件だったのだ。同じように魔術薬を取り扱う誰かが法を破ってろくでもないことをしているのは悲しかった。話題に出てきたが、まさか茶之介にも関わりがあったとは――。
「なんか懐かしいわね」
「あんたはそういうのは作らないのか」
「やろうと思えばできるわよ。昔からそういう研究は盛んだし、ちゃんとまともに使える薬だって幾らでもある。でもあんまり好みじゃないの。ああいうのは使うのが下手な人が多いから」
魔術薬で一時的に実力以上の力を手に入れると、それを忘れられなくなるのだ。それが自分の本来の力だと勘違いし、己を過信してしまったり、力の加減が下手になったりする。それは恵理の望むところではない。
「奥の手に取っておく分には悪くない手段だと思っているわ。でも、普段からそれに頼るようになったら冒険者としてはおしまいよね」
いくら薬で力を得ても、本来の自分の実力を超えているということは、何かしらの負担があるものだ。一度使うだけで体を壊すほどの副作用がなかったとしても、常用するべきものではない。そもそもそんな薬は基本的に値が張るものだ。冒険者の収入と見合わなくなれば続かなくなる。
「私は冒険者には健全であってほしいのよ」
「……時也にただ働きさせておいて言う言葉か?」
藍葉が東区を訪ねてきたとき、時也がその案内を引き受けた――というよりは恵理によって押し付けられたのを、茶之介は知っている。健全というならあれも金をとるべきだったのではなかろうか――という純然たる疑問をぶつけると、恵理は言った。
「年頃なのに女の子とのお付き合いどころか出会い自体ないっていうのはまずいじゃない、ちょっとは慣れとかないと後々苦労することになるでしょ。プライベートでも仕事の上でも、人として生きているなら人と話さないではいられないんだから」
冒険者が人と話さない仕事であるということはない。依頼について詳しく聞いたり、場合によっては自分を売り込まなければならなかったりする。誰かと組むときだって、誘い文句を考えたり、連携をとるためにコミュニケーションを図ったりする。
とはいえ――だ。冒険者というのは危険を冒すから冒険者なのだ。つまりは体力仕事であり、若い女はほとんどそういった仕事にはつかないし向かない。恵理のような管理業務のほうはそれほど人数がいるわけでもなく、人の入れ替わりも少ない。そして組合で信用されるような魔術師は、大抵は修行を積んで実力のあるもの――見た目は若くともそれなりの歳を重ねたものばかりだ。いくら話す機会があったとしても、同じような年頃の誰かと仲良くなれる確率は高いとはいえない。
それでも同世代の依頼人が現れないとは限らない。そして誰かと親しくなりたいと思うかもしれない。その時に話せないのでは困ったことになるのである。
「勉強させるにはちょうどいい口実だと思ったのよね――人付き合いって、同世代が一番難しいものだから。まあ無理強いしたのはちょっと悪かったとは思ってるわよ。面白かったけど。だから回す仕事に気を遣ってるんじゃないの」
「一応自覚はあったのか」
「魔術も一回はサービスするわよ。時也くんは馬鹿だけど可愛いし――馬鹿だから可愛いのかしら?」
「年下は大体可愛い。……恵理が気を遣わなくても、時也にはさゆを紹介してやったさ。藍葉嬢が現れなければ」
茶之介が言った。
「――意外だわ。アナタ二人を応援してるかと思ってた……」
「勘違いするな、応援はしているぞ。時也と藍葉嬢は相性もいいようだし、それで幸せならそうあるべきだ。もし彼女が現れなかったらと言っているだろ」
「……藍葉ちゃんのお兄さんはダメでも、時也くんならいいんだ?」
「時也はいいやつだからな。きっとさゆとも気が合っただろう――と、話が逸れたな……坂島屋のことまで話したんだったか。その後は日次様が何か手を回したようで、事件は解決へ向かった。そして俺たち兄妹は日次様のご厚意で、その庇護を受けることになった」
◆◆◆
茶之介は結局日次に全て話した。坂島屋のことも、峠家との関係が利用できるかもしれないことも。隠すべきこともなかったし、彼女相手に隠し事ができる自信もなかったのだ。
日次は「よく話してくれたね」と茶之介の頭を優しく撫でた。温かい、茶之介が好きになった手だ。その指先が離れていったとき、茶之介は彼女との関係ももうすぐ終わるかもしれないと、名残惜しく思った。そしてそれはとうに覚悟していたことでもある。
「ありがとう。やはりきみは素晴らしい助手だ」
いつものように妹への土産として菓子を持たされる。有名な菓子屋の羊羹だ。また随分と高いものを――と思ったが、彼女にとってはさして大きな負担でもないのだろう。
「そう――坂島屋か」
彼女は何か思案しているようだったが、それを茶之介に教えることはしなかった。ただ、別れ際に目を細め「またね」と言った。




