それは祝福すべき糸1
ある夏の真昼の話であった。
街道の修繕が終わってから東区と西区の行き来がしやすくなったこともあって、藍葉と時也は気軽に会えるようになった。時也が西区を訪ねることもあったし、藍葉が東区を訪ねていくこともあった。その日は藍葉が、兄である碧柳も連れて東区へ遊びに来ていて、時也はそんな二人を案内していた。
東区の魔王城の庭は美しいと評判で、二人を連れて行くにはちょうどいい場所だった。鯉の泳ぐ池、青く繁る夏草、木陰に吹く風は涼やかだ。
「あ、あれって峠さんじゃないですか?」
藍葉が言った。彼女の視線を追いかけてみれば、見慣れた赤い着物の男がいる。その隣には、茶之介同様に赤い着物を着た女性が立っていた。時也はその女性を知っていた。以前彼に写真を見せてもらったことがある――長く艶やかな烏羽色の髪と、鼻が高くすっきりとした顔立ちは、どことなく隣にいる茶之介と似ている。彼女は茶之介が溺愛する彼の妹に違いなかった。
ふらり、と先に歩きだしたのは碧柳だった。どうにも碧柳と茶之介は相性が悪いようで顔を突き合わせる度に喧嘩のようになってしまうが、今日もそうなるのだろうかと思えば違った。茶之介を無視し、その隣にいる彼女の前で跪き、その手を取って言った。
「僕と結婚してください」
いきなりのことで完全にこの場は渾沌と化したが、時也はこっそりと藍葉と碧柳を見比べて、特に脳もしっかり働かないまま「この兄妹似てる……」と思うのだった。
それから茶之介が荒れに荒れた。
冒険者組合の中では特に対人の戦いを得意とする男である。彼の怒りを買って痛めつけられたくないと冒険者たちは彼を避け、遠目から様子を窺っている。彼がそれだけいらついている理由については、とっくの昔に噂が広まっていた。
――何より可愛がっていた妹に恋人ができた。
時也が目撃した碧柳の告白劇であるが、当然茶之介は納得するわけもなく腹を立てた。それでも碧柳は一目惚れしてしまった相手を諦めず、熱心に例の妹を口説き続け、今ではすっかり懇ろになったのだ。碧柳は彼女を嫁に取るつもりで、彼女もまたそれを望んでおり、兄である茶之介は気が落ち着かないのだった。
そんな噂で持ち切りなのだ。ひそひそと話し合う声も本人にまで届いている。それでいて誰も彼とは目を合わせたくないのだ。茶之介は精悍な顔立ちをしているがゆえに、いらだって眉根を寄せているのと目が合うと、それこそ体が凍り付くのではないかというほど恐ろしいのだった。
「そういうのシスターコンプレックスって言うんじゃないかしら……」
冒険者組合事務所を仕切る恵理は、この話題にはあまり触れたくないという顔をしていた。しかしながら、茶之介が目つきを悪くしていると、客や他の冒険者たちが恐ろしがって仕事に支障が出ることになりかねない。茶之介は組合の中では名のある冒険者であり、沈黙魔王日次のお気に入りだ。彼の影響力は小さくない。
そろそろ放っておけない頃かと恵理のほうが悩み始めたところで、ちょうど休憩スペースで自販機に向かっている茶之介を見つけ、彼の腕を掴んだ。それに特別驚いた様子はなかったが、暫く逡巡して、茶之介が言った。
「恵理、死体解剖してもバレないような毒はないか」
「犯罪の片棒を担ぐのはいやあよ」
随分切羽詰まった顔をしている、と恵理は思った。
「そんなに妹さんが気にかかる?」
茶之介は頷いた。捨てられた犬のような表情をするのがあまりにも似合わなくて恵理は思わず笑いそうになったが、ぐっと堪えた。折角捕まえたのに逃げられてしまうかもしれない。
茶之介は再び自販機に向き直ると、ボタンを二回押した。そして出てきた缶の片方を恵理に持たせる。
「ブラックが好みだっただろう」
「あらありがとう」
「女の時間をただで貰おうとは思っていない」
つまりそれはこれから長い時間をかけて身の上話と愚痴を聞かせるという宣言だろうか。恵理は元々そのつもりでいたので、それがいつであろうと問題はない。恵理はそこに備え付けてある椅子に腰かけ、コーヒーを開けた。茶之介も同じように椅子を陣取って話し始めた。
「さゆは生まれつき目が悪かった」
◆◆◆
今でこそ腕利きの冒険者として相応の稼ぎを得ている茶之介だが、十六年前、彼が幼い子供だった頃、峠家には金がなかった。
父は畳職人だった。それなりに腕は良かったので仕事はあったが、父は金の勘定が致命的に下手で、収入があればすぐに酒や遊びに使ってしまった。生活は苦しかった。毎日の食費を確保することすら難しく、僅かな金は借金の支払いに消えていった。貧乏暮らしの手本を地で行くような生活であった。
六つ離れた妹のさゆは昼が明るいことを知らなかった。生まれながらに暗闇しか知らない娘だった。酒飲みの父が酔うと髪を引っ張ったり殴ったりするので、さゆのいつも髪は短かったし着物の下は痣だらけだった。母親は嘆くだけ嘆いて、諌めることもできないまま不満を募らせて、やがて出ていった。残された茶之介がさゆを庇うにも限界があり、結局は、兄妹揃って傷ついただけだった。茶之介は家が大嫌いだった。
茶之介自身学舎に通うどころではなかった。いくら家が嫌いでも生きるためには家業を手伝わねばならなかったからだ。そしてそれだけでは足りなかったから、伝手を頼って新聞配りもしたし、色々と手当たり次第に日雇いの仕事にも飛びついた。稼いだ金が右から左へと消えていくのは虚しかったが、帰れば「おかえりなさい」とさゆが笑顔を見せるのが茶之介の癒しだった。
妹の笑みがあるだけで、茶之介は幸福だった。酒に溺れる父も、夫も子供も捨てて離れていった母もどうでもよかった。
いつかこの妹を連れて、家を出るのが夢だった。
その頃、茶之介が暮らしていた町では違法な魔術薬の取引が横行していた。それを使えば驚異的な力が得られると言われていたが、それを使ったら体を壊してしまうのだとも言われていた。
茶之介には縁のない話ではあったが、冒険者が害獣と戦うために欲しているとか、どこぞの商家の用心棒はその薬を使っているから強いのだとか、その薬を巡って乱闘騒ぎがあったとか――噂は色々と耳に入ってきた。
例の薬は高値で取引されていると聞いて、そんなものを買えるような金があれば、もっと美味いものを食えると思ったものだった。そして、そんなものを扱っている輩ばかりが上手く金を稼いでいることが妬ましかった。自分はこんなにも、勉強もろくにできずに、汗水たらして働いても、何も手元に残らないというのに――!
物騒な噂が蔓延り治安の悪くなってきていても、茶之介のやることは変わらなかった。日がな一日働いて、すっかり暗くなった頃になってようやく家へ帰る。
そんな暮らしをしていたある日のことだ。茶之介は畳を届けに行った帰り、橋の欄干に手をかけて夕日を見つめる美しい横顔を見た。
絹のような滑らかな肌、長い睫が宝石のように煌めく瞳に影を差す。人形よりも整った顔はお伽噺の姫君のようでありながら、纏う上等の赤い着物は男物であってちぐはぐだ。とはいえ、それが美しさを損なうものかといえばそうではない。その奇妙さですら麗しさに添える花だった。ただひたすらに綺麗なだけの人を、茶之介は初めて見たかもしれなかった。
それにしてもどうしてこんなところにいるのだろう。着ているものから考えてこの辺りの住民とは違うはずだった。間違いなく上流階級だ。身なりのいいものはカモとして狙われるだけなのに――と思っているうちに、誰かが近づいていくのが見えた。
見るからに粗悪な風貌の男だ。それが赤い着物の彼の人の肩に触れようとしている。茶之介は咄嗟に足元に転がっている石を拾って投げた。
「いてえッ、このガキ何しやがるッ」
男が石に気を取られて隙を見せた瞬間、茶之介は素早く二人の間に潜り込んで、赤の美人の手を取って走り出した。
いくつかの路地を抜けて追いかけてくる男を撒いたところで、ようやく足を止めた。かなり走ったと思ったが、連れてきた相手は薄っぺらな体つきをしているわりに全く息切れの一つもない。初め人形のようだと感じたはずの顔はうっそりとした微笑みを湛えていた。
居心地が悪いというわけではないが、不思議な気分だ。考える前に行動を起こしたが、これでよかったのだろうか。
「一つ聞くけど、さっきのヤツあんたの友達じゃねえよな?」
「違うよ、知らない人だ。ああいうのに声をかけられたことはあまり経験がなくてねえ。助かったよ」
男か女かわからない見た目だが、どちらの性別とも取れるような声でもあった。顔が女のようなので、正しいかどうかはともかく、茶之介はとりあえず女性として扱うことに決めた。
そして彼女の柔らかな手で頭を撫でられる。豆の一つもなく荒れたことなどないというような手指が髪を梳かすのは、慣れないことだったが、これも嫌ではなかった。だが、それと同時に警戒心の薄さに呆れた。
「あんた、そんな呑気してたら襲われるぜ。そのうち身包み剥がれるぞ」
身なりが良くて人を警戒しないなど格好の餌だ。今の不穏なこの町には合わない。今だって、茶之介がその気になれば財布を掏って逃げることだってできたかもしれない。それくらい無防備だ。
茶之介の言葉に対し少しばかり首を傾げるので、本当にわかっているのか不安になる。赤の他人で心配してやる義理などないはずだったが、どうにもこの美しい人を放っておけない。
「――きみ、名前は何て言うのかな。良かったら私を手伝ってほしいんだけれど、どうだろう」
そんな少年の気持ちを察しているのかいないのか、彼女は茶之介の手を取って言った。
「……あんた、人に名前を聞くときはまず自分から名乗るものだし、そんなわけのわからない誘い文句で今時ついていくやつがあるかよ」
怪しさ満点だ、と伝えれば、彼女はきょとんとした顔をして、それからまた笑った。茶之介は花が咲いたようだ、と思ってその顔に見惚れた。
「これは失礼した。私の名は日暮日次。今、人探しをしているのだが――きみはこの辺りに詳しそうだ。ぜひ色々教えてほしい」
背の低い茶之介にわざわざわざわざ目を合わせてしゃがみ、縋るように見られてはもう陥落せざるを得ない。その琥珀の瞳から逃れる術はなく、気が付いたら「峠茶之介」と自分の名を名乗っていた。
「そう、良い名前だね。茶之介か。それではこれからよろしく頼むよ」
痛いほどではないが予想より力強い握手に、本当に女性であるのかどうなのか一層自信をなくしたが、確かめる術はなかった。
この時茶之介はまさかこの美人が、東区を治める沈黙魔王であるとは露ほども思っていなかったし、自分が将来全てを捧げて尽くすようになるとも、全く思っていなかった。
◆◆◆
「……妹さんの話じゃなかったの?」
身の上話には違いないはずだが、予想していたのと違う――と恵理は疑問を抱く。
確かに妹は話題に出なかったわけではないが、もっと彼女をメインに据えた話がくると思っていたのだ。それこそ聞くほうが疲れるくらいの妹自慢をされる予想だった。
茶之介が心外だという顔をした。心外なのは恵理のほうだが、一応彼にも言い分があるらしかった。
「日次様が俺たちを拾ったんだから、日次様の話をしないでどうする」
彼の中では重要事項であるらしく、これはこれでやはり面倒くさい話のような気がする――恵理は顔に気持ちが出そうになるのを誤魔化すのに、コーヒー缶に口をつけた。話はまだまだ続くらしい。
「あの方が現れてから生活が変わった」




