エピローグ2
夏目喜久子は西区の魔法学者だった。夏目家の親類であり、それなりに古くから続く家系であるために知識が豊富で、霧雪家とも親交を持っていた。
そんな家柄の出身であれば、魔法を専門に学ぶのも自然な道であった。そして彼女は仕事の上で知り合った相手と恋に落ち、結婚し、子を宿した。そこまでは当たり前にある幸せな夫婦の話だった。違ったのは、喜久子が水津の研究、その目的を知ってしまい、それを妨害するために彼女自身も常識を逸脱した手段を取ったということである。魔法学者であった彼女は成果を愛し、手段を問わない女であった。
彼女は水津の研究施設に忍び込み、水津が用意していた魔術装置を奪い、自分の胎の子と召喚された異世界の魂を融合させた。そのまま西区から逃亡したのだ。水津の追跡を受けながらも、夫は喜久子を守って散り、彼女は命からがら東区へ辿り着き――当時唯一頼れる親戚であった嘉一郎を頼ったのだ。
「俺があいつから聞いた話はこうだ。匿ってやっているうちに、騒がしさもなくなった。その後はお前を出産したが、それまでの無理が祟ったのか体調を崩してそのまま逝ってしまったよ」
「……じゃあ、父親のほうはどんな人だった?」
「お前の親父のことは親戚同士で集まったときに話したくらいだが、喜久子よりまともで、喜久子のことを大事にしていた。そんなところか……お前は顔は母親に似ている。性格は父親に近いかもしれん」
水津のやろうとしていたことを止めるために尽力したのだから、喜久子は決して悪人ではなかった。だが善人というわけでもなかった。
喜久子のやったことは自分の体と子供を使った人体実験そのものである。器が人間だったとしても、水津が魔族の体を用意してやろうとしていたことと同じことをやったのだ。結果としてそれは西区の転覆計画を二十年も遅らせることとなり、水津の計画は時を経て突き崩されることとなった。
「俺が本当の時也の人生を奪ったとか、そういうアレだったら嫌だなあ……たとえそうでも返してやれないけど」
母の狙いどおり水津は失敗したが、その代償はどれほどのものだっただろうか。彼女が自分の子に異世界の魂を入れなければ、生まれてきた時也は今ほど臆病ではなく、自然な存在であったかもしれない。
嘉一郎は言った。
「歪んだかもしれんが、奪ったということはないだろう。喜久子の言葉が本当なら、元々のお前に異世界の魂が混ざって一つになっただけだ。異世界ってものが本当にあるのかは知らんが……ともかくだ、そうさせたのは喜久子だ。お前以外に時也はいない」
真相はわからない。こうした状況を作る原因の一つである喜久子はもうこの世にいない。当の時也は今までの人生の中で、前世の記憶を思い出してから、本来の人格が変わったのか変わっていないのかもわからないのだ。
考えても答えは出ないことだった。答えがない以上は、今嘉一郎が言ったことだけが全てだ。前世の記憶があるということはやはり打ち明けられなかったが、異質のものであっても受け入れてもらえるということは、時也を安心させた。最早彼は彼自身の心すら、異邦人ではなくなったのだ。
「夏目の跡継ぎはお前なんだ。あんまり頼りねえ顔をするんじゃねえや。なア」
「嘉一郎さん結婚すればいいのに」
「この歳になったら相手も見つからないよ。探す気もない。若い頃はそういうのより旅のほうが楽しかったしな」
「それは今もでは」
「まあそうだが。とにかく俺にはそういう縁はなかったんだ。旅好きな女とも出会わなかったし、良い女は大体他の良い男が捕まえていたからなア。それにお前がいるから、別にこれ以上子供が欲しいとかそういうのもないんだ」
それから、時也の頭をゆっくりと撫でた。
「喜久子の忘れ形見だ。あいつらも研究者なんてやってなければ早死にしなくて済んだだろうに、どうしてかなア」
冒険者として死を身近にしているはずの嘉一郎よりも、本来そのような危険からは遠いところにいたはずの喜久子たちが若くして死んだことは、彼にとって衝撃的なことだったに違いなかった。残された時也に冒険者としての教育を施し、学問の道に進ませなかったのは、もしかするとそうした過去からくる嘉一郎の想いがあるのかもしれなかった。
「お二人とも、お夕飯の支度ができましたわ」
「ああ、今行くよ」
音子に返事をして立ち上がる。今日もまた食事ができるということは、とても幸せなことだった。今しばらくの平穏を、ゆったりと享受しよう――嘉一郎も交えての食事ができるのもいつまでかわからないのだ。尤も今日のところは音子のペンパルについて気にかかっているらしい嘉一郎が平穏ではないかもしれないが、それはそれで楽しい食事風景になるだろう。こういうのを、一家団欒というのだ。
◆◆◆
怖いものがなくなってやることといったら、やり直しである。藍葉の観光は途中で方向性が全く変わってしまったので、彼女は改めて東区を訪れて観光旅行をやり直している。今度は冒険者組合が管理している安いホテルに泊まって、旅の費用を抑えている。組合の信用問題に関わるのでセキュリティはしっかりしているため、少女の一人旅でも一応は安心というものであった。
案内を務めるのはやはり時也だった。碧柳たち藍葉の家族から、彼女のことを念入りに頼まれたのだ。
「きみになら安心して預けられる」
完全に藍葉の恋人か婚約者でも扱うような対応であった。実ははっきりとした関係があるわけではないので、その時は曖昧に笑って引き受けるしかできなかった。霧雪家と親しい激流魔王は、その様子を見て時也にこっそりと言った。
「あのお転婆を相手にするのは骨が折れるぞ。せいぜい苦労しろよ」
笑いながらの彼の言葉には実感が籠っていた。そして愛情が滲み出ている。幼い頃から彼女を知る激流魔王にとっては藍葉は娘や孫のようなものに近いだろう。実際に時也は知り合って間もないが、行動的な彼女の本質を充分見ている。
「……でも、藍葉は、いい女ですから」
「そうか。お前もなかなか愉快な餓鬼だ」
時也本人の意志を通り越して周りが公認していることはほんの少し複雑な気分であったが、それが悪いものかといえばそうではない。何より藍葉自身から向けられる好意を時也は心地良く思っている。時也にとって彼女は好ましい女性である。
今日は藍葉のたっての希望で、東区の魔術市場を見に来ていた。まだ昼にもなっていないが、人は多い。魔術師たちが集まっていることもあって他とは違った雰囲気の場所だ。彼女の幻術の研究のために、此処で必要なものを調達しようというわけだった。
「あの時、私が幻術を使えたのは、いただいたブレスレッドのおかげでした。たぶん、相応の準備をしておけば、もっと幻術を使いこなせるようになるんじゃないかと思うんです。此処なら色んな素材探しができそうだし……」
「それは確かに。色々試してみたらいいんじゃないかな」
「ええ、そのつもりです。西区にはないものもいっぱいあるみたい」
魔術市場では様々な魔術品が扱われている。普段時也が狩ってきているような害獣の角や皮のようなものも取引されていた。魔族や妖怪たちが多く集まっているが、魔術品にも様々なものがある。時也が冒険の際に使う土鈴のように、人間でも扱えるようなものもある。魔術の道具に限らず、魔術をかけた日用品も魔術品であるのだ。東区に暮らす時也でも、普段あまりじっくりと見て回ることがないので、魔術市場の散策はなかなかに面白い。「次はあれも見たいです」と藍葉に連れまわされるのもそれはそれで楽しみがあった。
「仲の良いお二人さん、ちょっと見ていきなよ」などと魔族の店員に声をかけられて店先を覗けば、石飾りのアクセサリーが並んでいた。どうやら魔除けの魔術がかけられたものらしい。色とりどりの石があり、目移りしそうだった。
「あんたたち観光かい?」
「案内中だよ。俺は地元民」
「へえ、そうかい。成る程ねえ……こんなのなんて彼女にどうだい、兄さん」
「ああ、じゃあそれ貰おうかな。幾ら?」
「時也さん!」
藍葉が驚いた声をあげた。だが、時也は構わず、一番右端にあった赤い石をあしらったペンダントを選び、さっさと会計を済ませた。トレンドなんてものは時也は知らないが、単純に彼好みのすっきりしたデザインのものだった。そしてそのまま藍葉に渡す。
「はい、お土産」
「あの、悪いですよ、そんな」
「似合うと思うよ」
「……はい」
押し付けるような形で渡すことになったが、藍葉はそれを受け取った。前のブレスレッドが壊れてしまったのでその代わりのつもりだったが、やはり彼女にはシンプルなものが似合う。白い肌に赤い色が良く映えた。
(俺の見立ては合ってたな)
見たところ相場から外れた値段であったということもなく、時也は良い買い物をしたと満足した。そして、すっかり彼女に惚れこんでいる自分に気が付き、知らず知らず底なし沼に嵌ったかのような気分になった。恐らくは抜け出せない。藍葉が好きだと態度で表してくるのは満更ではなかったし、共に危険を乗り越えたことから奇妙な絆のようなものができたこともある。もしかしたら吊り橋効果かもしれないと思ったことは、すぐに打ち消した。全く浪漫も何もあったものではない。
「そうだ、時也さん、今度は西区に遊びに来ませんか?」
「西区か……それもいいかもね。初めての西区はゆっくり見るとかそれどころじゃなかったし」
事件のおかげで裏路地などを駆け回りはしたが、それを見て回ったとは言えないだろう。一度ゆったりと観光するのも良いかもしれない。今度は恐れるものもなく、追われることもなく、穏やかな旅になるはずだ。
(それに、母さんたちが暮らしてたところなんだよな……)
もう二十年も昔のことだ。時也が生まれる前の話である。顔すらろくに記憶に残っていない母と、顔も知らない父のことは、知る機会があまりなかったこともあって興味がある。嘉一郎や音子の話では西区で暮らしていたというから、その空気を知りたいという気持ちがある。考えてみれば、それがこの国に生まれた時也のルーツなのだ。
「魔王城からは離れますけど、テレビ塔とか、観光スポットは沢山あるんですよ。あと、美味しいものとか。この前みたいに一緒にパフェとか食べたいな、なーんて……」
「楽しみにしておくよ」
「……本当ですか?」
「嘘ついてどうするんだ」
一仕事終えてそこそこの報酬も貰ったことだし、時間もそれなりにある。暫くの旅行をするくらいの余裕はある。そう答えると、藍葉は嬉しそうに微笑んで時也の腕に抱きついた。時也は何となく慣れてきていることを自覚していた。
そのまま腕を組んで、ゆったりと歩きだす。昼食はこの近くに良い店があると、恵理から予め聞きだしている。彼女から聞いたことは無粋なので言わないでおく。藍葉と過ごす時間のなかで、余計な情報などいらないのだ。
「……幻術で何ができるでしょう。最近そんなことを考えているんです。幻術は魔術と違って形がないですから」
「それでも、やれることは何でもあるよ。どんなものも使いようだ」
「前はどうやって幻術を使うかのほうが大事だったんですけどね。私も成長したんでしょうか」
二人の足音は、市場の活気の中で掻き消える。
――太陽は、徐々に昇ってきていた。
『折れろ! 俺の死亡フラグ』いかがでしたでしょうか。
主人公の時也はただひたすらドヘタレで、周りに流されているだけのようでもありますが、本人はそれなりに必死でした。彼よりも周りのほうが大きな流れを作っていく人たちばかりだったとも言います。私以外誰が得するんだとも思いましたが、まあ創作なんてものは書いてる本人の需要を満たすためのもので、ついでに他の人たちにも楽しんでもらえたら万々歳みたいなもんかなと。書いている間は私だけが楽しい状態でしたが、読んでくださった方々にも楽しんでいただけていれば幸いです。
書きたいことは大体書きました。
このお話の続きも考えていますが、次はもっと違うお話を書きたいですね。謎ラブコメ()ファンタジー政略結婚モノ……ってなんだこれ盛りすぎか。
プロットがまとまったらまた投稿していこうかなあと思います。
でもその前にこの物語の外伝的なものも書きたいので、完結は完結ですが、もうちょっと続けます。いくつか考えているものがあるので、とりあえずそれを吐き出したいですね。
ご感想いつでもお待ちしております。
誤字・脱字等ありましたらご一報ください。




