第二十三話
藍葉は人間にしては強い魔力を持っているが、魔族から見ればとても微弱である。まじないをかけられたブレスレッドが彼女の力を高めていたが、やがて霧の幻想を生み出していた魔力が尽きると、石の輝きは失われて砕け散る。次第に視界は晴れてくると式神たちや生き残っている害獣たちも動き出す。
ハッキリとしない視界の中に敵が見える。目を凝らして姿を確認する。いくつかの影が床に映る。
(ちょっと待て、なんだアレ!)
ぼんやりとした影ははっきりしないが、式神は数多く、体の大きい害獣の足音が床を軋ませる。一番奥にいるのは鳥だ。翼のある鳥の害獣に違いないのだった。無論体が大きいためにこの室内では思うままには動けまいが、それでも侮れない力があるはずだ。水津の魔力は無尽蔵だとでもいうのか、此処にいる敵はまともな生物は水津自身だけだというのに、彼が従えるものの力が巨大すぎる。
(どうやって対処したらいいんだッ!?)
こちらを認識すると人の形をした式神たちが一斉に剣を向けてきた。素早く刀を構え直して斬りかかってくる敵に抵抗する。ガチリと金属がぶつかる音がした。重い。衝撃が腕に伝わって痺れるようだ。
「折れたらどうすんだよッ……!」
口では反抗しつつも時也は焦っている。力では負ける。そして次こそは間に合わない。後ろにいる藍葉を守らなければならないのに、それを実行できるだけの力が足りていない。激流魔王にも近づけさせてはいけない。彼が無事でいなければ、そもそも此処へきた意味がないのだ。激流魔王は強いが、今まで何度も魔術を使っているし、時也は自分が見ていないところでも戦いがあったのだということはわかった。激流魔王は疲弊している。すぐ傍でも茶之介の剣が閃くのが視界に入る。
(やば、)
そう思ったその瞬間、時也を押していた式神が真っ赤な何かに吹き飛ばされた。茶之介ではない。彼は別の害獣を相手にしていた。彼以外の赤といったら、時也が知る中では一人しかいない。
「思ったよりは、手応えがないものだね」
男とも女とも判断のつかない中性的な声がする。白魚のような指が式神の腕を捻り、芯を潰す。人の姿を形作る魔力の流れを絶ち、掻き乱してその在り方を歪ませると、たちまち式神は人の形を失って本来の紙に戻っていく。
「な――沈黙魔王が何故此処に!」
水津の動揺とちょうど全く同じことを時也も考えていた。どうやって此処へ。なんというタイミングで。式神を相手にするのは時也の力では防御するだけでいっぱいいっぱいどころか、防ぎきることすら難しい有様だったというのに、鮮烈な赤の着物の魔王日次は容易くそれを弾き飛ばし、消滅させてしまった。
「やあ、また会ったね」
式神を壊したその手で時也の頭を撫でる。圧倒的に強靭な力でもって敵を制したその手が思いのほか優しく時也は面食らった。そしてすぐそばにいた藍葉にも声をかける。
「赤い石のブレスレッドは役に立ったかな。まじないをかけたのだけど――きみが持っていたはずだね。彼に貰ったんだろう」
「は、はいっ。今は、あの――砕けてしまったんですけど」
ついさっきまで――と続ける藍葉に穏やかな笑顔を浮かべて「そうか」などと相槌を打つ。まるで日常そのままのような態度は何なのだ。此処は激流魔王の座を奪い取ろうとしている水津との、それこそ時也はつい先ほどまで殺されかけていたような戦場であるというのに!
自らが相手をしていた害獣を斬り捨てると茶之介が声を上げた。
「日次様、こちらへいらしたのですか……」
「呼ばれたら来るつもりだったよ、元からね。やあ汲出、元気かい。お疲れみたいだけど」
「名前で呼ぶな」
振り返ると、激流魔王が何か布きれを持っていた。何か刺繍されている。それが魔術式であるようだった。布地がほんのりと発光しているのは魔力が通っているからのようだ。心なしかその布を握る拳が震えている。
「沈黙よ……これはどういうことなんだ」
「いざというときに使えって茶之介が言わなかったかな」
「それは聞いたがお前が来るとは聞いてないぞ……」
激流魔王が何の魔術かも知らずに発動させたもの。それによって沈黙魔王がこの場へ呼び出された。遠くにあるものを別の場所へと移す魔術を、時也は何と呼ぶか知っている。
「転送魔術――?」
「よく知っているね。そうだよ。東区の魔王城に穴を開けてきたというわけだ」
空間に穴を開けて異次元と通じさせることによって、別の空間と繋がる魔術。通じた穴から穴へと物資を移動させるための魔術。それは決して人が通る道になるようなものではないはずだった。それを通り抜けてきたというのだ。激流魔王があの布きれにあった魔術式で此処に穴を開けたから。
(ちょっと意味がわからない)
意味はわからないが、意味が分からないのは水津にとっても同じことで、それは大きな衝撃となったようだ。一歩二歩よろけながらも苛立ちを隠せず声色もより荒々しく変わっていく。
「此処に来て沈黙魔王だと! 西区の魔界の事情に干渉するつもりか――わかっているのか、沈黙魔王、あなた一人が増えたところで何ができる。この城の外には我が軍勢が控えている、ここで滅ぼされたくなければ……」
「この部屋に来たのは確かに私だけだが――そろそろ私の百鬼夜行が着く頃だ。西区に来たのが私だけとは、誰も言っていないからね」
◆◆◆
水津の兵士に押されていた碧柳たちを助けたのは、九尾の狐に化け狸、化け猫や夜雀といったさまざまな妖怪たちの軍勢であった。
「日次さんのとこのもんか」
嘉一郎が声をかけると、すぐ近くにいた貉がそれに答えた。
「ええ、ええ、そうですとも。それが我らに課せられた役割というものです。探し物も見つかりました」
「探し物――?」
碧柳と青羽が顔を見合わせる。それの意味を、嘉一郎はわかっていた。
「いなくなった仲間たちのことか」
妖怪たちの間で噂されていた失踪事件。人や妖怪が行方知れずとなる事件が増えていたのを、知っているものは知っている。
「我らが同胞の仇がこの城にいるという。ええ、ええ、受けた痛みは同じだけの痛みで返さなくてはなりません」
理不尽に運命を捻じ曲げられた同胞がいるのですと語り、貉がにいやりと口の端を吊り上げた。
「今宵はよい月ですねえ。兄弟の魂も安らぐでしょう」
◆◆◆
「ここ数年続いている妖怪たちの失踪事件を全く放置できるはずもない。重要参考人には話を聞かなくちゃね」
「知っていたのか……」
「私も私なりに色々調べようと思ってね。この辺りは嘉一郎に結構手伝ってもらったけど――ああ、まあ、そんなことはきみにとっては関係ないことか」
驚愕に肩を揺らした水津に向かって、日次の口調はいつもどおりに柔らかく、それでいてどこか冷たさを纏っている。
「私はただ魔族らしく考えているだけだよ。きみに好き勝手されると東区の安寧も脅かされる――そういう損は被りたくないんだよ」
「ああ……本来一つの国に二人も魔王がいることのほうがおかしいのだった。あなたにも消えてもらわなくてはならないようだ!」
ばっと腕を振り上げたと思うと、水津の魔術によって操られる害獣たちが襲い掛かってくる。日次がそれを見つめながら「茶之介」と名前を呼ぶ。茶之介はひとつ頷くと時也と藍葉の手を引き、後ろへ下がる。
「任せよう。藍葉嬢、俺や時也から離れるんじゃないぞ。時也も充分気を付けるんだ」
「いいんですか?」
「もう魔術勝負になった」
魔術勝負。確かに水津は魔術によって時也たちを苦しめてきた。そして激流魔王が水の矢を放ち対応する。立派に魔術で戦っている。魔王級の魔力の持ち主同士でなければ見られない戦いだ。見た目にも派手で、巻き込まれたらひとたまりもない。
(――あれ? でも、日次さんの魔術って)
以前会ったときは、派手な魔術は下手だと自称していた。ではどんな魔術が得意だというのだろう。時也はテレビや雑誌の特集ですら、日次の魔術に迫るものを見たことがない。何かと顔は出しているが、その実態は露出せず謎めいている。
「待て、ここで逃がすかッ!」
「うわッ」
水津の式神が時也を取り戻そうと手を伸ばしてくる。害獣が牙を剥く。突然のことに驚きながらも、時也の刀が手前の一体の喉を裂き、茶之介の刃が後ろ側の獣を斬り伏せる。もう一体残る式神は二人が斬りつける前に、日次によって砕かれた。赤い袖がはためく。やはりその腕は細く白く、雄々しさなど欠片も見当たらないのに、異様なまでの力を持っているらしかった。
「ねえ汲出、私はきみのように派手な魔術は得意じゃないんだけど」
「……わかっている。沈黙だからな。だが俺も消耗が激しい」
「足止めでいいよ。ひとつ貸しね」
襲い掛かってくる害獣たちを激流魔王の水が網のように広がって捕らえる。そして動きが鈍ったところを日次が殴りつけていく。その細身の体からは、というよりも人の体であるとは信じられないほどの力が発揮されている。式神も害獣も物ともしない。一歩一歩着実に水津に近づいていく日次は冷静である。冷静に確実に敵を潰していく。
「な――貴様、化け物か――!」
無尽蔵とも思える水津の手下を蹴散らして、日次はゆるりと笑った。先程から浮かべている時也たちに向けるのと同じくらいに美しい微笑みには、しかしそこに慈愛がなく、ぞっとするほど凍り付いている。水津が懐から拳銃を取りだして構え、さらに最も体の大きい鳥の形をした害獣が日次の前に立ちふさがる。恐らく元々は鳥の妖怪だったのだろう。本来持っていたはずの柔らかな羽毛は硬い針と化し、空を飛ぶための翼は鋼のごとく変化している。その思考の中に妖怪の理性は残されておらず、ただ水津の配下としてその命令に忠実に従うだけの人形、式神と本質が非常に近いようでいて、けれどそれは命を弄ばれた成れの果てである。
「……なるほど、害獣の体そのものに魔術式を書きつけている。自分の魔力消費を最小限に抑えながら、害獣を意のままに操れるのはそういうからくりかな」
害獣の翼が室内に風を巻き起こし、暴力的な力が日次を叩き潰そうとする。その風圧が時也たちにも襲い掛かり、足元がぐらつく。
「きゃっ……」
藍葉の細い手指が時也の袖を掴む。倒れ込みそうになる彼女を支えながら、強い風に耐える。目を開けているのも苦しいが、それでもこの状況で目を閉じる勇気もなく、日次の背を見つめる。
水津の拳銃はヒノモトで流通している真鍮の空気銃のようであった。空気銃とはいえその威力は小さなものというわけではない。銃口が日次を狙い定める。乾いた破裂音がして弾丸が撃ち出される。一瞬のことだ。弾丸は日次の腹部にめがけて空気を抉った。
「日次さん!」
間違いなく外れていない。しかし弾丸が貫通していない。体内に留まっているのならそれは大きな傷になっているに違いないのだ。思わず駆け出そうとする時也を、破れた赤い袖の腕が引き留めた。
「時也、大丈夫だ。日次様は……」
「茶之介先輩……?」
彼の行動の意味がわからず、首を傾げる。激流魔王も何か眉間に皺が寄っている。改めて日次を見ると、撃たれたとは思えないほど平然としている。
「私が沈黙魔王と呼ばれている所以はね――」
ぱらり、と弾丸が床に落ちて跳ねる。それはつまり、体内にすら届いていなかったのだ。
日次が腕を振り上げた。そこに魔力を放出させるような動きはない。そのまま害獣の心臓を抉るように腕を突き刺す。それをずるりと引き出したら、黒ずんだ血液に塗れた手が害獣の心臓だったと思しきモノを掴んでいる。
「――魔力をモノの外に出さないからさ」
ぐしゃりと潰れたそれを床に捨てると同時、害獣も倒れて部屋全体が振動する。
「おわっ」
「魔術は地味でもやることが派手なんだ、あいつは……」
後片付けをどうするかな、と呟く激流魔王の苦い顔に、時也は心の中でお疲れ様ですと言った。城中駆けまわって戦いで汚してきたが、きっとこの部屋が一番ひどい。むせ返るような血の臭いが染みついて、きっとなかなか落ちないだろう。
どさりと崩れ落ちた害獣を踏み抜く。完全なる死である。とても日次の嫋やかな腕がやったこととは思えないが、それがまさに沈黙魔王の魔術なのだった。
――沈黙。音すら誰も聞き取れない。その魔術の本質は、モノの外に魔力を出さないということだ。激流魔王のように魔力を体外で水に変換して操るのとは違う。水津がやるように魔力を使って他者を操るというのも違う。以前ブレスレッドの赤い石に魔力を閉じ込めるようにまじないをかけたのは、そういった日次の魔術そのものの一端である。
今やっていることは何か――魔王たるに相応しい膨大な魔力をあえて体外に放つことなく、体の中で凝縮し、循環させ、自らの体に影響する。通常ならば体が変質し異形と化すところを、日次は巧みに制御し、自身の筋力を強化することに使っているのだ。美しいままの姿でありながら異形よりも偉大な力を操る――決して見た目にわかりやすいものではないが、しかし、魔王らしい破壊力を生み出す日次の魔術だ。
「水津くんって言ったっけ。きみは優れた魔術師だね。これだけ多くの式神や害獣を従えて、多少工夫はしてあっても、魔力の消費はそこそこ激しいと思うのだけれど――魔王を相手に喧嘩を売るくらいだもの、確かに相応の実力はあるようだ」
距離を詰め、いざ間近に対面してしまえば、水津に対抗する手段など存在しない。それでも己が望みのために彼は喉を震わせた。
「……そこをどけ、沈黙魔王、私の、二十年を、それは私の、激流を廃し、新たな時代を築くための」
おぞましい執着が体に纏わりつくような感覚がして、時也は腹の奥から何かせり上がってくるような気持ち悪さを感じた。仮面の奥でどんな形相をしているというのだろう、心臓に突き刺さるような視線を感じる。日次は時也たちを庇うように前に出た。水津の腕を捻り、決して日次を貫けない銃を弾き飛ばし、彼を床に打ち付ける。衝撃で仮面が割れ、水津が唸った。彼の腕を覆うのと同じような鱗が頬にもある。ああ、やはり、彼は蛇なのだ――と時也はぼんやりと思う。
「汲出、何か言うことは?」
呼ばれて、激流魔王がややふらつきながらも前に出た。魔術を多用し疲弊した彼に生み出せる水はほんの僅かなものだったが、今はそれで充分だった。水津の目が激流魔王を見た。魔術の水がゆらりと揺れて、次第に槍を形作る。
「同志が集い、害獣すらてなずけた今なら、貴方を排除できると思ったのに……」
「俺を殺すのなら、最初で仕留めきるべきだった。お前にしては詰めが甘かったな、水津よ。――ヒノモトの民は国の宝だ。お前の野暮な野望に付き合わされてやる義理はない」
「そのようですね」
水津が言った。そのまま、鋭い槍が水津の胸に突き刺さるかと思われたが、突然水津が暴れ出し槍が外れる。一瞬の隙を突いて逃げ出した水津は自分の手を離れた銃を素早く拾った。
「なッ――」
「確かにあなたがたは魔王であった。私に作れるものではなかったようだ――ああ、残念だよ!」
そしてそのまま引き金に手をかけた銃を自らに向け――
「藍葉、見るな!」
時也が咄嗟に彼女の目を塞ぐ。耳を劈くような音がした次の瞬間には、全ての首謀者は口を利かぬ骸となっていた。




