第二十二話
「思い出話をしてあげよう」と、秘密の回廊を歩きながら水津は言った。時也はただ水津の魔術による束縛に逆らうこともできず、それに着いていくだけだった。
「私は陰陽道を伝える魔族の家に生まれたんだ。代々伝えてきた魔術の遺産を受け継ぐのはとても楽しかったよ。魔族にしか扱えない、魔族だけに許された誇らしい技術だ。そして不思議に思ったのだ――こんなに素晴らしいものを持っているのに、どうしてこの国の魔族は人間などと同列に扱われているのだろうと」
時也はただ黙って話を聞いている。水津は別に返事を必要とはしていないようだった。声色は明るい。まるで心の奥底から楽しいというような陽気さがまた異様である。
「魔族であるなら魔界を築き、魔術を磨かなければ嘘だろう。だが、激流魔王も沈黙魔王もおかしなことに、脆く弱く短命な人間に傅くばかり。人間と魔族の境界も曖昧になり、幻術などという紛い物まで現れる始末だ。魔物たちでさえ妖怪などと呼んでヒトと同じように扱っている。嘆かわしいこの現状を覆すにはどうしたらいい?」
ぐい、と腕を引かれて時也はバランスを崩してふらついた。不安な足元を確かめて顔を上げると、すぐ目の前に真っ白な仮面がある。飾り気のない仮面の奥にある瞳に射殺されそうな気分がする。息が詰まる。
「そこで私は考えたんだ。生態系ではより強いものが他のものを食べるだろう。魔族は強い生き物だ――ならば間違いなく消費者の側に立つべきだ。そして人間と混ざらないよう区別をしなければ。今の魔王にはそれを期待できないのなら、新しい魔界を作ったらいい」
(魔界を作る――?)
それはひどくおかしな言葉のように聞こえた。魔族が暮らすコミュニティを魔界と呼ぶのなら、それは誰かが作ろうと思って作ることができるものではなく、魔王を中心として集まった不特定多数によって出来上がっていくものだ。そんなものの在り方を自由にできるのは神だけだ。魔王その人でさえそこに集まる魔族を選べないのだから。楯突くものを排除することはできたとしても、だ。
このヒノモトにおいては、魔界は人間が暮らす場所と重なっている。そして互いに混ざり合い、助け合い、妖怪たちと共に害獣を避けながら文化を発展させてきた。それがヒノモトでの魔界だ。それを強引に壊し作り直そうというのは容易な話ではないはずだ。
水津の話はまるでテレビやラジオで演説を聞いているかのようだった。ちょうど政治家が理想を語り民衆の支持を得ようとするのに似ていたが、時也の理解の度合いなど関係なく、その話は続く。
「新時代を築くのだ。適応できないものは淘汰されていくことになるが――魔族の未来のためにはそれも仕方のない犠牲というもの。新しい魔界のための、新しい魔王を用意する必要がある。体のほうはいくらでも調整して作りだせばよかったが、肝心の中身をどうするかだ――強靭な魔力炉に馴染む魂がいる。どこで調達したらいいのか――その悩みもすぐに解決した」
ある日古い魔術書を見つけてね、と水津は言った。
「魔術式を読み解くと、異界と繋がる手段が書かれていた。これだと思ったよ。ここから持ってくればいい。異界から召喚するのが最も相応しい……」
(あ、違う)
時也は初め水津が陽気に話していると感じたが、そうではない。これは恍惚というのだ。理想を掲げているのではない。自分の理想に酔っている。そしてそれは時也にとってとても良くないことでもある。何よりも水津は聞き洩らしてはならない言葉を口走っているのだ。
「――あんたは今、召喚って言ったのか」
時也が言った。水津は足を止めて、少しだけ頭を傾けた。時也の腕を掴んでいた手が緩んだかと思うと、今度は爪を立てられガリと引っ掻かれて出血した。
(またかよ!)
首に傷をつけられたときと同じように、柔らかい肌を裂いた苦痛がじわりと蝕む中で、水津の声ははっきりと聞こえてくる。
「魂だけを上手く引っ張り出さなくてはならなかった。その魔術式を現実に再現するのに、妖怪たちの血が入用になったよ。獣でも魔物というだけあって充分に役割は果たしてくれたが、あれだけの手間をかけたものをあの女に横取りされたのは本当に腹が立ったものだ。異界に触れられたのは後にも先にもあの時だけだった」
そうしてお前を手に入れた――彼の答えは決して親切ではない。少し早口気味で、説明はしているものの、時也の反応を期待している様子がない。それでも時也は全て聞き取って、そして全て理解した。
――すとんと胸に落ちる感覚がする。時也が時也になる前は、前世の生活は充足していた。日々の生活に満足していて、明日が来ることを疑いもしていなかったのに、どうしてあのベランダから落ちたのか。徐々に思い出して、年を経るごとに忘却しそうになる疑問。それでも時折夢に見て、死の恐怖を叫ぶ記憶。ようやくしっくりとくる答えを得た。まるで引き寄せられるかのように体を空へ放りだしたのは、本当に引き寄せられたからだったのだ。
(そう、そうか、そういうことだったんだな)
この国に生まれてくるより以前、時也は水津に殺されたのだ。そのことをどうして今まで気づかなかったのか、不思議なくらいだ。時也だった過去の彼が自分から理不尽な死を選ぶはずがないのだ。身を投げ出す理由が一つもない。本当なら、そのまま歳を重ね、誰かと結ばれて家庭を持つかもしれなかったし、緩やかに老いて納得した死を得るはずだったのだ。時也がこんなにも死を恐れなければならないのはかつて理不尽に奪われたからであり、水津をどうしても受け入れられないのは根源的なところに理由があったからなのだ。
一度そのことを意識すると、次に心に湧きあがったのはもっと荒々しいものだった。それは心のうちに抱えておくには重く、苦しく、尖りすぎている。そして何より灼熱のような熱さがある。腹の底が熱を持ったような気分がしている。それでもその熱のままに水津に斬りかからなかったのは、単純に彼の魔術に逆らえなかったからだった。
どうせ思うままに動けないとなると、ひとつゆっくりと息をすれば頭は冷えた。とにかくこの状況を抜け出さなければならない。慎重に隙を窺う必要があった。――出し抜かなければ。
「夏目喜久子に計画を知られ邪魔されたことだけが誤算だったのだ。あの女ときたら魔族でもないくせに私の魔術式に勝手に手を加え、呼び出した魂を自らの胎の子に宿したのだぞ――女は子を実験材料にはできないものだと思っていたのだが、こればかりは予想外だったよ」
時也の考えを見通しているのかいないのか、水津の思い出話は続いた。二人分の足音以外に話を邪魔するものもない。
魂だけにされて召喚されたモノは器がなければこの世に留まっていられない。だからこそ水津は魔族の器に入れようとし、それを夏目喜久子――つまり時也の母にあたる女性だが、彼女が自らの子を器とした。そうして時也と名付けられ産み落とされた。
(俺の出生……)
魔術の話は時也にはよくわからない。そもそも魔法の存在をわかっていても本能的に魔術を理解している魔族や本格的に学んでいる魔法研究者とはわけが違っている。
「元々の胎児の魂と呼び出した魂はよく馴染んでいるらしい。強く結びついて簡単に剥がせそうにない。何の健康障害もなく成長してきたことがその証だ……これがあの女の目論見というわけかな」
水津は自分の話が通じているかどうかなど気にも留めず、ただ彼の中で結論を出してそれを確認するかのように言葉にしているだけだった。思い出話と言ったとおり、彼の中の記憶を整理する作業だったのかもしれない。時也には顔すらもろくに覚えていない母親が何を考えていたのかなど知らない。わかるのは、水津も母も魔術によって自然な状態をひとつ歪めたという事実と、今時也が人間として生きていることは水津にとって都合が悪いということだけだ。
(でも、こいつはそれを解決する気だ)
「さあ、始めようか」
辿り着いた先の扉が開かれる。時也は魔術の力に引きずられて膝をつく。顔を上げると、目に映ったのは式神に取り囲まれる激流魔王たちの姿だった。
「なッ――」
薄汚れた格好の藍葉、疲労した様子の見える茶之介と激流魔王を見て思わず声が漏れる。それにいち早く気が付いたのは藍葉だった。
「と、時也さん!」
彼女の悲鳴を煩わしそうにしながら、水津が一歩前に出る。「観客はお揃いか」
「水津……!」
「無様だなあ海堂汲出。あなたともあろう方が、この私の式神に屈服しなければならないなんて」
「――激流魔王と呼べ」
「それも今日で終わるのですよ。霧雪のような紛い物が生まれない、不純物のない魔界が誕生する時が来たのです」
怒りに声を震わせる激流魔王を嘲笑し、水津が指を鳴らした。彼の魔力によって空間が歪み、現れたのは時也が研究室のようなあの場所で見たのと似た大きな水槽だった。
「ひ、人の体……!」
「お前の新しい器になるんだよ……とはいっても、お前は前の体のことなんて忘れてしまうだろうけれど」
水津は時也の耳元で嬉しそうに囁いた。水槽の中で、人の体らしきものが何かの液体に浸かっている。人が眠っているように見える様子はまるで棺のようですらあるが、これは棺ではなく胎というほうが近かった。中身は生きてはいない。だが、だからこそ入れ物になる。時也のために器を育ててきたのだ――正しく自分の望みどおりの魔王を用意してきたのだ。
「水津、貴様そいつに何をするつもりだ」
「あるべき器に入れ替えるだけさ。ずっと研究を重ねてきた――夏目喜久子の邪魔もあったが……」
「貴様――あいつの死に関わっていたのかッ」
水津は魔王が声を荒げるのをせせら笑う。少しばかり大袈裟なくらいに肩をすくめる様子は芝居がかっていて、見る者の心を逆撫でする。
「私は何もしていない。あの女の強かさは称賛に値するよ。あの女は夫すら捨てて逃げ延びたのだから――今はもうそんなことはどうでもいい。今、時代が切り替わる――人間に寄りかかる必要のない、完成された魔族の世界が来る。二十年越しに完遂するのだ、私の計画が!」
水津の腕が時也を引きずった。式神が魔王たちに襲い掛かる。時也は慌てた。
(冗談じゃないぞ――!)
渾身の力で水津を振り払おうともがく。こんなところで、こんな男に、再び殺されなければならないなんて――そんなことは絶対に受け入れられない。
――嫌だ。死ぬのは。また天寿を全うできないというのか。
そんなことは絶対に嫌だった。今まで積み上げてきた過去を忘れるのは。何よりも――自分の仇が抱く野望に加担したくない。
「時也さんッ!」
視界の端で、手を伸ばす藍葉が見えた。
(そうだ――藍葉が泣く)
死への恐怖だけではない。まだ死ねない理由がある。ここで時也が殺されて魔族の体を得たとして、時也はそれを記憶していられる保証がないだけではない。人間や水津の考えに賛同しないものを退けるための道具にされるのだ。人を――藍葉を傷つける道具だ。
「藍葉!」
式神に殺されるかもしれない危険を顧みず駆け出した彼女の腕で、赤い光が煌めいた。あれは時也が彼女に渡した――
「時也さんに触らないでっ!」
――部屋の中が白い霧で満たされる。
「何だッ……幻術かッ!?」
水津が動揺しているらしい声がする。目の前が真っ白になって辺りのことがはっきり認識できないが、どうやら水津の魔術はこの霧に驚いた拍子に解けたらしい。体が動く。
(今しかない!)
水津の手をすり抜けて先程の赤い光が見えたほうへ向かって飛び出す。もつれる足で床を蹴る。この白い闇の中でなら時也が何も見えないのと同じように式神でも何も見えない。
視界は悪いがそこに何かいることはわかる。微かな赤が見える。時也が手を伸ばすとようやくその手に触れた。
「藍葉っ、これは、きみの――」
「時也さん、私……これ、私の、幻術――?」
藍葉は現状について頭の中で整理が上手くいっていないのか、少し震えて、それでも時也の顔を見て安心したように息をついた。彼女の手首で、赤い石飾りのブレスレットが光を放っている。その輝きが、まるで生きているように藍葉の腕に纏わりついていた。
「忌々しい霧雪の小娘め」
霧の中では自慢の式神も思うように動かせないとわかると、水津が苛立たしそうに声をあげた。
「我が僕たちよ!」
彼の僕は式神だけではない。彼が作り上げた人の命令を聞く害獣がいる。
(足音!)
鼻が利くものならすぐに見つかり餌食にされてしまう。神経を研ぎ澄ませて気配を探る。数はどれだけだ。どこからやってくるつもりだ。
「左を斬れッ」
茶之介が叫ぶ。時也はその言葉に従った。足音から距離を測り、左側から向かってきた害獣を斬りつける。そして右側から迫ってくるものを――茶之介の剣が斬り伏せた。すぐそばでどさりと死体が崩れ落ちる。
「さあ、こっちへ」
周囲を警戒しながら一旦後ろへ下がる。此処から反撃の糸口を見つけなければ。




