第二十一話
霧雪青羽と霧雪碧柳。二人は数百年の昔の時代から幻術として魔法を受け継いできた。代を重ねた魔力炉は人間にしては強靭なほうで、魔法として魔力を現象に変換させることができる。魔族のように実体のある魔術にはできないが、形のない幻想ならば自在に操ることができる。
武装した兵士の幻想。本当に実体を持っているのは数少ない激流魔王の配下たちだけだ。あくまでも虚構だから、正体を知られたら無意味だ。嘘が嘘だとばれないように、仲間たちがその中に紛れ込んでいる。全てが偽物ではないということは、どれが本物か判別しなければならないということだ。敵を翻弄するにはそれが一番の手段だったが、それにも限界というものがあった。どうしようもなく、激流魔王の兵士は少なすぎた。なんとかこの場を保っているのは、冒険者夏目嘉一郎の技量が突出して優れているからであった。
「西区の防衛機能がこの程度ってのは、今回限りは俺たちに都合がいいからいいとしても、いただけないなア。鍛え直さにゃならんのじゃないか?」
刀をぐるりと回して敵を薙ぎ払いながら嘉一郎が言った。さらに向かってくる敵の頭を引っ掴んで軽々と持ち上げ、そのまま投げ捨てる。勢いよく飛んでいったその体を受け止めきれずに何人か沈んだ。
「……あなたが怪物染みてるだけな気がしますがね、夏目さん」
碧柳は集中するときにだけかける眼鏡を直しながら呟いた。嘉一郎は一人で何人分もの働きをしているように見えた。当の本人は「そんなことはないさ」と戦闘中というわりには呑気に返事をした。
「東区の魔術師に武器を鍛えてもらってる。冒険者組合ってのはいいもんだ。良い腕の魔術師もすぐ探してくれる」
「魔術関係ないでしょう、貴方今素手だったじゃないですか」
「碧柳クンももっと筋肉つけたらいいと思うよ」
「簡単に言いますけどねえ……」
「そりゃ無理だ、息子は私に似たからな。夏目にゃ敵わんさ」
幻術を使うのに体力を使わないわけではないが、戦い方となると別問題である。幻術という技術はそもそも直接ぶつかり合わないためのものでもある。父の青羽と同じように、碧柳もその幻術に慣れ親しんだ人間だ。専門家と呼ぶべきか。魔法に対する知識から魔法災害について調べるのにフィールドワークに出ることはあるが、だからといって特別行動的というわけではない。そして幻術の性質上、好戦的では成り立たない。
幻術師に戦士のような戦うための荒々しさは備わっていないのだ。そういったものはからっきしだ。この場においても幻を用意するだけ用意しておいて、足りない魔力は花火花の種を使って補い、幻想を維持をしながら戦いは他の仲間に任せきりである。
むしろそうしたことは妹の藍葉のほうが向いているかもしれない、と碧柳は思った。彼女はとても活発な気質だ。それに、思いこむと一筋である。その情熱はある意味で冒険者たちが外へ踏み出していくときの目に似ている。
碧柳と同じように幻術を学んだ彼女だが、彼と違って藍葉は術として魔力を外へ出すことが下手である。藍葉がそれで焦りを感じていたことは碧柳も、そして青羽も知っていた。だからこそこの事件から――危険から遠ざけ、東区へ送り出そうとしたのだが――もしかしたら、それはいらぬ心配だったのかもしれなかった。彼女は碧柳たちが思っている以上に、逞しく強かに育っている。
彼女が男に生まれていたら、幻術とは違う道に進んでいたのではないだろうか――否、男でなくともこれから幻術とは違う道へ進んでいくのではないだろうか。碧柳はそんな予感がしている。
「藍葉――それに魔王様たちはどうしているだろうか。ご無事だといいですが」
幻術が解けないように、魔力の調整に気を配る。幻術は人間の魔力でも扱えるが、それだけに繊細な魔法なのだ。
「……様子がわからないな。トランシーバーに連絡が来ない」
「連絡がないのは元気の証拠」
「夏目、手紙じゃないんだぞ……連絡なんてしている場合じゃないほどマズイ状況って可能性もある」
そう言った青羽に向かって敵が刀を向けてくる。それを嘉一郎が横から弾き飛ばした。「向こうもこんな状況かもしれんだろ、なあ」
「確かめに行くか? どうせ幻術ってのはそろそろ相手方にもバレてる頃だが」
「だからって此処を放棄はできませんよ――あと僕たちを置いていったら百年先まで恨みます」
勢いのまま行ってしまいそうな嘉一郎に釘をさす。「行かないさ」と言うものの、その返事に碧柳は小さな違和感を感じて首を傾げた。
「何か気になることでも?」
「――ああ、いや。昔のことを少し思い出しただけだ」
そう答えて、嘉一郎は再び敵に向かって駆け出した。昔のこととは一体なんだろうかと疑問を抱いた碧柳は青羽に聞くことにした。「父上は何かご存知ですか?」
青羽は難しい顔をしている。幻想の兵士たちの陰に隠れながら、静かに口を開いた。
「二十年前だ。西区の魔法学者の夫婦が行方不明になった。理由はわからないが、姿を消した。私も事情に詳しいわけじゃないが、仕事で捗っていなかったわけじゃないし、別に金に困ったなんて話も聞かなかった」
「それは……奇妙な話ですね」
「ただ、妻のほうは――夏目の従妹だった、夏目は西区に因縁がある」
◆◆◆
流れる水の魔術によって害獣たちを駆逐した激流魔王たちはようやく先へ進むことができた。それから後は簡単だ。人の動きしかしないものは怪物と違ってどうにでも対処できた。まるで誘導されているようだとわかっていながらも、後ろは振り返りはしなかった。退路はない。そもそも此処は魔王城であり、激流魔王の本来あるべき場所だ。退く理由などそもそもない。
「……獣臭い。まだ害獣がいるのか……? 妖怪どもも獣だが、あいつらはちゃんと身綺麗にしてくるから気にならないってのに」
「たとえ汚れていても貴方が無理矢理でも洗っていそうですね」
「否定はしないな」
激流魔王の雄大な尾がゆらりと揺れた。それと同時、ガタ、と音がした。何かがいる。
「どこだ。上か」
目線を上にやると通気口があった。そこに隠れているらしい。激流魔王と茶之介が戦闘に備えて構える。ガタッとまた音がして、通気口のカバーが外れて床に落ちる。「けほっ」と咳き込みながらそこから顔を出したのは、色白の肌と柔らかな黒髪を持つ見慣れた少女――藍葉だった。
「うう……あっ魔王様! 峠さん! ――きゃあ!」
藍葉が気を散らして通気口から滑り落ちるのを、激流魔王の操る水がクッションとなって受け止める。
「よそ見するな」
「はあっ助かりました」
「……お前このダクトを通ってきたのか?」
普段人の手が入らない場所である。小柄な藍葉でなければ、通ることも難しいほどの狭い場所だ。まさかこんなところから現れるとは思いもせず、激流魔王は驚いた。此処を通れるものでしか思いつかないアイデアかもしれなかった。藍葉は埃を被っており、袖も薄汚れていた。おおよそ年頃の乙女とは思えない汚れっぷりがまるで雑巾のようだが、彼女は「ちょっとしたお掃除……ですよ」とふいっと目を逸らした。自覚はあるようだ。
「藍葉嬢、時也はどうした?」
一緒にいたはずの時也の姿が見えない。茶之介が問うと、藍葉はその瞳に暗く不安の色を滲ませて「はぐれちゃったんです」と言った。
「はぐれただと?」
彼女がこれまでの顛末を説明する。水津の式神や追手に追い詰められ、城の罠を利用されて時也と藍葉が引き離されたこと。たった一人で廊下をうろつくよりも、誰も待ち伏せていないであろうダクトを通ったほうが安全だと判断したこと。その結果が今の彼女の状態である。戦闘能力のない彼女が生き延びるという意味では間違った判断ではなかった。
「そうか――水津はもう俺の城を把握しつつあるということか」
水津が城の仕掛けを一部とはいえ利用しているということは、それだけ激流魔王の領域が侵略されているのと同義である。
「時也さん大丈夫でしょうか」
「お前の話を聞く限りだと無事に生きてる可能性は充分ある。あの辺りには確か隠し部屋を作った気がする。結局使ってないんだが」
「魔王様、わりと後先考えないで物事決めちゃうタイプなんですね……?」
城ができてからの年数を考えれば無茶な設計をしたというわけではないだろうが、数多くの仕掛けや隠し通路などのスペースは城が迷宮と化す原因になっている。外敵に対してはそれでよいかもしれないが、今回のように内部の者が反抗した場合には面倒が大きい。確かに城に侵入することはできたがその後は状況が有利にも不利にも変わるのだから頭を捻らなければやりづらいのだった。
「……水津の式神がそこに時也を落としたということは、やつがその部屋を使って何かしているという可能性もある……と考えられるのでは?」
茶之介の言葉に激流魔王と藍葉が顔を見合わせた。
藍葉と時也は分断された。彼女の知らないところで時也は一体何をしている頃だろう。一緒に落ちていった追手に殺されてはいないか、それとも彼らは対処できても、その奥の隠し部屋で何かよからぬものと出会っているかもしれない。激流魔王の目を盗んで水津がその部屋を使っていたとしたら、それは最早水津の支配下だ。
嫌な想像が頭を駆け巡って、藍葉はふるりと肩を揺らした。
「時也さん、本当に大丈夫かしら……」
「あいつは結構しぶとい」
茶之介が言った。
「……だが、あいつは俺に似たのかな。途中であんたを放りだす辺りが」
「でも、あなたも時也さんも、私を守ってくれました」
「中途半端な仕事はよくない」
茶之介は東区へ向かっていたときの神隠しの森でのことを思い出している様子だ。放りだしたといっても状況としてそれは仕方のないことだったと感じている藍葉はそれを悪いこととは思っていない。ただ、時也と出会うきっかけとなったことだったので覚えているだけだ。茶之介と時也が親しげに話していたことも記憶にある。
「峠さんは時也さんと仲が良いですよね」
「まあそれなりにな」
藍葉から見て茶之介が何を考えているかは正確には読み取れなかったが、そこには信頼があるのだろうと思った。そしてそれが少し羨ましくも感じる。藍葉は信頼できる友達というものが少ない。
激流魔王が藍葉の頭を撫でた。
「行くぞ」
「――はい」
もう目の前は執務室の扉である。警戒を強めながら扉を開くと、激流魔王のよく知る風景が広がった。
人の出入りが多いために、かなり広めに作られた執務室。一見何の変哲もないようで、注意深く観察すると以前とは違っていた。それがわかるのは魔王くらいのものだが、激流魔王がいない間にこの場はすっかり水津に制圧されていた。獣の匂いが染みついている。部屋の隅には知らない鉄の檻があり、それは解放されている。
「此処に害獣を連れ込んでいたのか、あいつめ」
激流魔王は歯噛みした。魔王として、ヒノモト女帝より西区を拝領するものとして、仕事は全部此処でやっているのだ。自分のスペースだ。それが侵されていることの何と不快であることか。
「――! 魔王様っ」
藍葉が叫んだ。それに一瞬遅れて人の形に切り取られた紙の束が部屋を舞った。――水津の操る式神である。バラバラと音を立てて飛び、激流魔王たちを取り囲むようにヒトの形を取り、武器を向けてくる。
「最悪だ」
激流魔王は舌打ちした。




