第十八話
激流魔王にとって、水津という男は単なる敵というわけではなかった。彼を配下に加えたときからもう百年ほどの付き合いがあったのだ。陰陽道に通じる水津は星や土地を見て魔法災害を予測することが得意で、その魔術の腕前は指折りのものだった。
だから、信用はあった。信頼できる、と思っていた。仕事に関しては水津は誠実であったと感じている。魔族の同朋とは上手くやっていたし、人間に対して少しばかりぎこちないところはあったが、それがもとで反乱を起こされるとは考えていなかった。甘かった。水津が人間を完全に排除し魔族だけの輪を作りたがっていて、それを計画立てて実行に移すほどの行動力と想いがあるということを理解しきれていなかった。だが起こってしまった事件は解決しなければならない。魔王として魔族の上に立つことは義務であり混乱をおさめる責務がある。
「先にこれを渡しておきますね」と茶之介が言った。激流魔王が受け取ったのは布きれであった。よく観察してみると何やら魔術式が縫い付けてあるようだった。
「いざというときに使えと、日次様から」
「……成る程な、アイツらしいが。奥の手として取っておくか」
「そうしてください」
幻術の部隊が騒ぎを大きくしてくれているおかげで、激流魔王と茶之介にとっても城の中へ侵入することは容易くなっていた。警備が手薄になったところを堂々と侵入した。数えるほどしかいない幻術部隊に敵をほとんど任せてしまうことは激流魔王にとって心苦しいことではあったが、優れた幻術師である霧雪親子が「任せてほしい」と言った言葉を信用することにしたのだ。信頼のおける嘉一郎もそこで幻術を補っているというから、敵の気を引くには充分なくらいに暴れてくれることだろう。彼は長寿の魔王と違って純粋な人間であるから、老いの兆しを見せてはいるけれども頼れる冒険者である。
他の魔族も人間も妖怪も、激流魔王を助けると言ったものたちはみな全力でサポートに当たっている。必ずや水津のもとへ至り、彼を引き摺り下ろさなければ。廊下を急ぎ足で進めば、待機していたらしい水津の配下に出会った。
「やはり来たか、激流魔王!」
「おっと、激流様に手を出されちゃ困るな」
茶之介が一歩踏み出してその米神を殴った。さらにふらつく相手に対し魔王が水の魔術でその口をふさいだ。酸素が足りず、暫くして意識を失いその場に倒れる。
「――こいつは暗示を受けていない」
「水津の手のものということですか」
「本来ならひっ捕らえて牢にぶち込むところだが、時間がない。この様子だとまだまだ起きはしないだろう。とにかく水津を優先する」
そして再び歩みを進めていく。このまま何事もなく奥まで行ければ、かつてこの城を建造する際にいつか使うかもしれないと大工に無理を言って設計図に盛り込んだ隠し通路の一つに辿り着く。執務室のすぐそばに繋がる階段がそこにある。いつか使うというのは建前で、本当は様々な仕掛けを置くことそれ自体が楽しみであったのだが、いざこうした事件が起きるとこのために存在したのだろうと思えてくるから不思議なものだ。
しかしながら。道がいくらあったとしても通れなければ意味はない。水津に操られたものたちが妨害してくる。
「こいつらはさっきのとは違って暗示にかかっているようですね。全く厄介なことだ」
「手は抜かなくていい」
激流魔王は、自分の意識を眠らされた部下たちを見た。その顔を目に焼き付ける。自分の不甲斐なさのために、水津の野望に付き合わされたものたちだ。よく知った顔ぶれだったが、操られるままに行く手を阻むその姿は人形以外の何者でもない。自分の意思を持つ自由を奪われた彼らは、哀れだった。
茶之介はただ「了解しました」と言った。他に言いたいことがあったかもしれないが、この場でそれを黙ったまま指示に従ってくれるのはありがたい。沈黙魔王の子飼いであるこの男を、激流魔王は存外気に入っている。沈黙魔王が上手くやっているのか、東区からは優れた冒険者が多く輩出されているから、西区でもその方面にさらに投資してもよいかもしれない。
操られているとは言っても道を阻むものたちは式神のように人ならざるものとは違う。あくまでも人としての動きから外れることはない。そこが隙だった。人の動きしかしないのならば、それを知っている人なら対応できるということだ。そして茶之介も激流魔王もそれをよく知っていた。
「だがそれにしたってこう次から次へと……よくもまあここまで揃えてきたものですね」
「水津はそれだけ本気だということだ。あれも魔術師としては優れている。お前もいざヤツに会ったら暗示の餌食にならないよう気を付けろよ」
「その点は問題ありません。日次様に魔除けのまじないをかけていただいているので」
「沈黙のやつも抜かりねえな」
東区にいるもう一人の魔王を思い浮かべる。子供の頃から付き合いがあるから、霧雪の家よりももっと古くからの縁だ。激流魔王と違って沈黙の名を持つあの魔族は、体つきは細く顔立ちも伝承の仙女のような柔らかさだというのに、なかなかどうして強かなのであった。ヒノモトという国の中で東西に分かれ、互いに敵対する心もなく協力体制を取れているからいいものの、決して敵に回したくはない相手だ。あれは顔だけが価値なのではない。自分よりも周到で、大胆で、人を従えるのが上手いのだ――と、激流魔王は思っている。それは魔術の腕前よりも貴重な才能に違いなかった。
茶之介が刀の鞘を滑らせて相手を突き上げる。それが最後だった。どさりと倒れる音がする。
「斬らなかったのか」
「そうすると貴方は悲しむでしょう」
「まあ、」
返事をするのに、少しだけ息が詰まるようだった。
茶之介の言うとおりだった。自らの意思で反抗してくるものには何を想う必要もないのだ。ただ考えが違った。考えが違うと思わせてしまった。それだけのことであり、自分に向かって害をなそうとするなら同じだけのものを返すだけだった。けれども操られているものはそうではない。
「俺にもさして余裕はないので、力いっぱい殴りすぎて変な後遺症が残る可能性はありますが」
「……その時は妖精の医者でも連れてくるか」
この世でただ妖精だけが誰かを癒す魔法を持っている。決して安い治療費では済まないが、どんな怪我でも治せるはずだ。労災の手続きがややこしいことになりそうだが、それだけだ。「それはいい考えだ」と茶之介が言ったので、自分は間違いなくいい考えをしていると自信を持っていいのだろう。
埃臭い隠し通路を通って進めば、誰と会うこともなかった。当然だ。この通路は激流魔王しか知らないものだ。城の中の通路は霧雪の若者たちに教えたものもあれば、他の妖怪や魔族に教えてきたものもあるが、自分だけしか知らないままに本当の秘密にしてきたものもある。今共にここを進んでいる茶之介は、激流魔王の貴重な秘密をひとつ共有することになっているわけだが、一度人に教えた秘密は最早秘密ですらないのかもしれなかった。自分の直属の部下でもない相手にこれほど隠し事を曝け出すことになるとはつい最近まで思ってもみなかったことだが、それだけ自分はこの茶之介という男に、ひいては沈黙魔王に心を許しているということになる。付き合いが長くなると多少の線引きはあっても気が緩んでしまうのは弱点かもしれない。水津の反乱を予見できなかったのもそのせいだ。沈黙魔王に笑われてしまいそうだ。あの美しいかたちの唇を歪ませて腹を抱えて大笑いするところが目に浮かぶようで、そのイメージにもそれをすぐに想像できてしまった自分にも腹が立つ。それだけ深い付き合いをしている。魔族らしくもなく。
魔族とは力を示し上下関係を作るものだ。世界には何人か魔王がいるが、自分の支配下の魔族たちの相手が忙しいからほとんど交流することはない。つまりは対等な存在が身近にいない。しかしヒノモトという国の中では、魔族や妖怪といった魔力と深い繋がりを持つものの多さから魔王と呼ばれる存在が二人もいる。その二人ともがもう一方を陥れようとはせず、また人間や他の種族を厭うこともなく、穏やかに調和を保っている。保ってきたのだ。それがヒノモトでの魔族の在り方だ。人間たちと手を取り合い、古い霊地を守りながら、科学と魔術によって発展してきたのだ。
水津はきっとそうやって積み上げてきたものの全てを壊してしまうに違いなかった。もうすでに人間が編み出した科学技術は生活からは切り離せないものとなっている。水津はそれをわかっているのだろうか。やはり魔王の座は譲れない。彼にだけは譲ってはいけない。激流魔王とてそう呼ばれるに至った力だけでなく、それと同じだけの矜持を持っている。
出口を隠す板を蹴破って出て行くと、目的の階段が目に入る。だがそれ以外のものも見える。獣がいる――牙を剥いた角のある獣だ。それが襲い掛かってくる!
咄嗟に茶之介が刀を抜く。がちん、と嫌な音を立てて刃と角がぶつかり、そのまま弾き返す。
「こいつらは――妖怪、いや、しかし……」
ぱっと見た感じでは、妖怪のようだ。ふわりとした毛並みの化け狐だか化け狸だかに似ている。ただ、それにしては角があるのもおかしければ話が通じる様子もない。
「……魔力の感じがおかしい。害獣だ」
「害獣がどうしてこんなところに!」
茶之介が刀を振るい、激流魔王は魔術で水の矢を放つ。
「む、俺の矢を弾いたか」
矢が何か見えないものにぶつかってかたちを崩す。魔王の目には害獣たちが作りだしたらしい、魔力の壁が映った。
「手強いことですね」
互いに背中を預け合い、周りを囲む害獣たちから身を守る。何故居住区の中に、それも魔王城という場所に害獣がいるのだろう。
それにもう一つ気になることができた。この害獣たちは、妖怪や他の魔物たちのような理性や穏やかさのあるものに見えないのに、知性があるように感じられる。魔術の矢を弾くなど、自身の魔力を制御できていなければ不可能な話だ。そうだ。それはちょうど、神隠しの森を歩いた時に、自らの式神を通して見えた、水津の式神が引き連れていた獣の動きに似ているような――。
それを感じたのは激流魔王だけではなく茶之介も同様だったらしい。
「この感じは覚えがあります。森で襲ってきたやつに近い――が、こいつらのほうが利口そうだ」
「俺たちの匂いをたどって此処へ来たのか、水津が俺たちの動きを読んでたのか――こんなものを用意してくるあたり、やり方がいやらしいな」
魔術は魔力に形を与える行為だ。強靭な魔力炉が生み出す魔力が渦を巻く。激流魔王のイメージは水だ。水こそが彼にとって最も身近なものであり、彼が最も誇れる魔術だ。
「くたばってろ!」
水が研ぎ澄まされた鋭く固い刃となり、魔力の壁を壊して獣たちを貫く。しかしながら相手の数が多すぎる。いちいちまともに相手をしていたらキリがない。始末しただけどこかから集まってきているようだ。
「全部まとめて流しちまうか……?」
「激流様、何体か逃げていきます」
「坊主たちのことがばれたかもな。鼻が利くなら。心配か?」
激流魔王が聞くと、茶之介は一瞬目を伏せたが、太刀筋にぶれはない。食らいつこうと牙を剥く害獣たちの喉を裂き、心臓を突き、脳天から斬り伏せる。次々と害獣を倒しながら、彼はいつもと何ら変わりない様子で答える。
「時也は害獣退治のプロですから大丈夫でしょう」
それは信頼からくるのか、それとも実は若い冒険者を心もとなく思っているのを隠しているのか、見分けるのは難しかった。悠長に観察していられる場合でもないので、新たな魔術のために集中する。
「さて、こいつらをどうやって掃除するかな……」
「貴方は水津のもとへ行かなければ。一網打尽でお願いします」
できた道は俺が守りますから、という茶之介に「頼んだ」と返して、激流魔王は魔術のイメージを固める。全てを飲み込む暴れ川。激流とは、魔術の名前なのである。




