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プロローグ2

 霧雪家家訓その二、使えるものはどこまでも使い抜け。



 その家訓に従ったからというわけでもないが、兄上が快く資金を全て出してくれるということなので、旅に必要なものはその日の午後と翌日のうちに兄上の財布で揃えさせてもらった。主に下着とかを。足りないわけじゃないが折角なので新しいのが欲しかった。もちろんそれだけではなくて何かに使うかもしれないゴミ袋だとか携帯雨具だとかそういうものだってちゃんと用意した。本当だ。

 それから、ホテルのほうは実は父上が既に手回ししていた。今から予約取らなくちゃと思っていたところでこれだ。突っ込まない、突っ込まないぞ。策略的な何かなんて感じていない。ハメられたなんて疑っていない。絶対だ。うむ。

 大体、楽しめと言うのならもっと以前から知らせておいてくれればいいのに――そうすれば旅のガイドブックなんかを買い込んで、念入りに計画を立てて、見たいものを全部見て欲しいものを効率よく買って、旅を存分に楽しむ方法を考えたものを。今手元にあるのは今からでも目を通せそうな、本屋で売っていた一番薄い東区の旅行ガイド一冊。ぱらぱらとページをめくる。

 兄上や父上の目論見なんてものは私には見当もつかない。想像すればするほど答えから遠のいていく感じがして、ついでに文句ばかりが浮かんでくる。こういうのはやめだ。精神衛生上よろしくない。となったら他に考えることは明日共に森を抜けるパートナーとなる冒険者のことくらいか。届け物の中身や受け取るべき荷物だって、きっと詮索しても最低限の情報しかくれないだろうし、かといって自ら中身を確かめるなんてこともさせてくれないだろう。兄上は幻術師だから、情報保護のためにそういう荷物にも術をかけているに違いないし、そもそも私自身、人の荷物を勝手に開けるなどというはしたない真似をするつもりもない。そんな不毛なことに頭を使うぐらいなら、危機回避はどうするか、ちゃんと守ってくれるような人なのか――明日の相棒に期待をかけすぎない程度に思いを巡らせるほうが余程ましと思える。

 父上に聞いた話では、優秀で頼り甲斐のある青年らしい、という曖昧な情報しか掴めなかった。どうも直接会って話したのは兄上だけのようなのだが、当の兄上は今日は仕事が忙しいから帰らないと言う。わざわざ電話がかかってきた。忙しない様子でやや早口のそれは用件を伝えてきたと思ったらすぐに切れてしまったから、詳細は一切聞きだせなかったわけである。

 明日の朝、出発の頃には立ち会うつもりらしいが、要するに本当に出発するそのときまで例の冒険者についての情報はなし、会ってからのお楽しみというわけだ――わざとやっているのか兄上の迂闊か、どちらにせよ私にとってはひとつの緊張の原因である。旅立ちの前くらい心穏やかでありたいというのに、困った話である。



 で。

「どうするんですか峠さん」

「厄介なことになったな。流石にあんなのをまともに相手にする気はなかったんだが」

「やっぱりまずい相手ですよね……」

「ま、可愛い子猫じゃないのは確かだが」

 結論から言って、今回護衛してくれるという冒険者の峠茶之介とうげさのすけという男は、当たりだった。兄上がそうそう外れを連れてくるとは思わないが、この人が外れならこの世の全ての冒険者はみんな外れだというくらい、立派な冒険者だった。

 剣の腕はいい。それは森を歩く中で害獣が出てきても慣れた様子で退治しているのをしっかり見た。私をそれとなく庇いながら、迷いのない太刀筋で、敵が襲ってくる前に素早く仕留めるのだから、腕前は確かだろう。

 それに気さくだ。冷たく見える整った顔も話してみれば決して冷血ではないとわかる。実力があるからといって尊大な態度を取ることもなく、薄暗い森の中を歩くのに何かと気遣って話しかけてくれるから間が持たないなんてこともない。折角の烏羽色の髪にこれっぽっちも似合わない、飾り気も何もない赤一色の着物はセンスを疑うが、そのちぐはぐさも愛嬌と思えば欠点などあってないようなものだ。

 まさに父上に聞いたとおりの青年。一時の旅の道連れとするには勿体無いほどの大当たり。護衛というのに自分一人だけでは完全には守りきれないかもしれない、と最初に言われたが、それでも私は実際しっかり守られてきた。だが、それも限界であるらしい。

 木の影に隠れてそっと覗くと、禍々しい角を持った害獣が見える。大きさは私の体の四倍くらいか。角さえなければ、猪に似ている。金色に光る大きな目がこちらを探している。隠れている場所がわからないということは、猪とは違って鼻は利かないのだと思う。耳はどうだかわからないが、こちらの話し声は聞こえていないみたいだから、小さな声で密やかに喋る分には作戦会議もできよう。しかし見つかったらお終いだ。体当たりでもしてきたらあの巨体は避けようがないし、あの角で貫かれようものなら即死に決まっている。


 あんなものがいるなんて聞いていない。あんなものがいるなんて知らなかった。何故あんなものが此処にいる――疑問は尽きないが、深く追及する時間はない。


 出ていくか否か。姿を見せれば確実に襲ってくる。私を守る剣士がいくら卓越した腕を持っていようとも、真正面からあんなものとぶつかっては刀のほうが折れる。そうなったら対抗手段はない。では打開策はあるのか。打開策は何か。何か。

 此処からは逃げられない。神隠しの森は空間そのものが捻れている。捩れ潰れ歪み開いた此処では、ただ闇雲に駆け抜けても脱出などできないようになっている。あれに気づかれないまま離れようとしても、後ろは空間が閉じている。そちらへは進ませないぞ、と森が告げている。逃げられない。逃げられるはずがない。この場は前へ出るしか道が用意されていない。

「藍葉嬢」

「へ、あ、はいっ」

「俺が時間稼ぎをするから、あんたは駆けろ。全力で走れば逃げ切れないこともないはずだ」



 ――思考停止。



 それは、つまり、その提案は、この素晴らしい冒険者をあの恐ろしい害獣に突き出して、見捨てて逃げろということだ。

「む、無理! 無理です! だって、そんなの、大体、貴方はどうするんですか!」

「どうするもこうするも、俺はまだ報酬分働いていないからな。こいつくらい対処しないと仕事をしたという気がしない。中途半端に放り出す形になるのは不本意だが――」

 ざり、と青年の足が地面を擦る音がする。彼は既に眼前の敵に意識を集めている。ゆっくりと、その得物に触れる。それはつまり、臨戦態勢そのものだった。撤回されることのない警報である。

 私も一歩。踏み出した左足に体重をかけていた。



「運が良ければ死なん。走れ!」



 叫ぶような命令と同時に私と彼は真逆に駆けた。いや、違う。駆けたのは私だけで、彼は跳ねたというほうが近い。弾丸の軌道は直線。勢い良く飛び出した剣士はその勢いのまま鞘から剣を滑らせ抜刀する。私は振り返らない。ただひたすら、できるだけ速く足を前に出すだけだ。

 まずは走る。その後のことは逃げ切ってから考える。ただ走る。後ろで何が起きているかなんて知らない。鉄と何かがぶつかる音がする。走る。何も構っていられない。肉が裂け、獣の咆哮が響く。駄目だ。足を止めてはいけない。あれはまだ死んでいない。こちらへ向かって、その荒々しい足音を近づけてくる――!



 ……追いつかれる。

 このままでは追いつかれる。

 何処かに隠れるしかない。隠れるしかないが、隠れ場所など限られている。それでも一秒でも長く生き延びるためには隠れるしかない。

 木。目に入るのは木だけだ。長い蔓が巻き付く目の前の巨木、それがこの足の向かうべき最短だ。棘の痛みなど瑣末事に過ぎない。その強かな蔓を伝い一気に木を駆けあがる――最も逞しい枝に飛びついた瞬間、ごうと音を立てて木が揺れた。

「ひぐっ」

 激しく木が揺さぶられる。ミシミシと厭な音が鳴る。追いかけてきた害獣は剣士によってつけられたであろう傷だらけの血塗れの巨体を木にぶつけ、その角で幹を削っている。この酷い振動では身動きも取れず、私はただ蔦を掴み、木の皮に手をかけて、振り落とされないようにするだけだった。兄上から預かった荷物を入れた鞄が投げ出されてしまったが、それを気にしている余裕もない。

 失敗したか。失策だったか。でも他に思いつかなかった。此処から近くの木に飛び移ろうにもこれだけぐらつく足場では、私の頼りない脚力では超えられるものも超えられそうにない。今できることは、ただしがみついて、それこそ僅かしかない隙を探して離脱する方法を考えることだけだ。

 一撃で肉を抉られなかっただけマシ。神経は全部繋がったまま、まだ脳髄も腕も脚も機能している。

 どうすればいい。どうすれば――この絶望的な状況を覆すには、どうするのが最善なのか。私はまだ――死にたくない。

 死にたくなんかないのに、凶刃は遂にバリバリと耳障りな叫び声を上げさせながら木の枝を折り皮を削って私の眼前にまで突き付けられる。

 これが、最後なのか。人間死ぬの呆気ないにも程がある。こんなものに砕かれて終わりだなんて、嫌だ、そんなの。

「ひ」

 息が詰まる。こんな死に方ってない。まだ人間の寿命の半分も生きてない。

 死なない。死ねない。死にたくない。死ぬ気なんかあるもんか。私の運命はこんなところで尽きてなんかない。だって私は、こんなにも死の恐怖に晒されながら、未だ自分の生還を諦めていないのだから――!



 再びごう、と木が唸る。

「ぐうううっ!」

 耐える。蔓の棘が食い込んで手が悲鳴を上げているが、そんなことは問題じゃない。私にとって問題となりうるのは今ここで死ぬか生きるかただその二択だけ。

「うぐ、わっ、ああうッ」

 ――しくじった。元々不安定な木の幹だったが、足を滑らせたのは完全な失態だ。私の体を支えるのは棘だらけの蔓を掴む両手だけで、つまり私は今になって完全に無防備になった。

「――――ッ」

 手を放して飛び降りたところで高さが高さだけに全く無傷での着地は難しい。というか無理だ。絶対足捻る。そんなことになったら走れないし逃亡の余地すらない。どちらにせよ、これで詰んだ。逃走失敗、残念無念、また来世。



 ――ドスン。



「……え」

 詰んだ――はずだった。いや、確かに詰んでいた。死ぬつもりはなかったが、死ぬことは確定だった。だが、一瞬の間に、害獣の耳を劈く咆哮は鼓膜を破ろうとする絶叫に変わり、生物は屍になっていた。低く響いた音は即ち生命線を絶たれて害獣が肉塊に変貌したそれだった。わけがわからない、一体何が起きた。

「いっ、あ――きゃっ」

 死の圧迫から解放されたという安心感のせいか、限界をとっくに突破していた腕は私の意思に反して体を支えることを放棄し、そのまま、真下へと落ちる。受け身を取る余裕はない。「藍葉嬢っ」と、遠くで声がする。あ、よかった、貴方も生きてたのね。一瞬のはずが全部スローモーションのようだった。痛みを覚悟して目を閉じる。



 ぼすんっ、と間抜けな音がした。少なくとも地面に叩きつけられるのとは違う。恐る恐る下敷きになっているものを覗き込むと、自分より少し年上くらいの青年が倒れていた。

「あ……ッ、ご、ごめんなさいっ」

 何時までも上に乗っかっているわけにはいかない。謝りながら慌てて退くと、青年と目が合った。彼こそが私を窮地から助けてくれた張本人。状況からしても間違いない、あの害獣を倒し、そして木から落下する私を身を呈して救ったのはこの青年だ。

「無事か!? ……時也ときや、お前、なんで此処に」

 駆けつけてきた我が道連れは、この青年の知り合いだったらしく、ひどく驚いた様子だ。それはそうだろう、周りを見渡しても彼に他の仲間がついてきている様子はない。

「彼が助けてくれて……」

「時也が?」

 青年の名は、時也というらしい。

 彼のおかげで、生きている。大きな怪我をすることもなく。私の運命は尽きなかった。彼によって繋がれたのだ。



「あの、時也さん」

 だから、言葉は勝手に紡がれる。本当に怖くて、どうしようもなかったところへ貴方が来てくれた。助けてくれてありがとうございます。貴方のおかげで私は死なずに済みました。あんな恐ろしいものを倒せてしまうなんてお強いんですね。素敵です。そんな想いを全部ひっくるめて、私が言わなきゃいけないことは、心のままにたったひとつ。棘のせいで傷だらけの手だが、しかし躊躇いは無用だ。彼の手を取って、今はただ真っ直ぐ伝えるのみ。

「私と、結婚してください!」



 霧雪家家訓その三、欲しいものは他人に奪われるより先に手中に収めるべし。



 ――これが私霧雪藍葉と愛しの時也さんの、記念すべきファーストコンタクトである。





※主人公は未だ一言も喋っていません。

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