第十三話
一晩世話になった祠に礼をして出発だ。結界から外へ出る。生い茂る木々が光を遮っているため薄暗いが、すっかり朝になった。
こちらが移動するのはいいが、相手の出方がわからない。森の中にはまだ式神がいるかもしれないと時也たちが言うと、「眼があればいいんだろう」と、激流魔王は魔力で水を作り上げた。それは何羽もの鳥の形へと変化し、空へ羽ばたいていく。
「これって、魔王様の式神?」
「魔術式そのものは俺も知らんわけじゃないからな。専門の水津に比べりゃ性能は多少劣るが、これでも充分事足りる」
水で出来た鳥は、激流魔王と視界をリンクしているらしい。偵察ができるのだ。これで敵の目も掻い潜ることができるだろう。
(これが、魔王の魔術――)
時也は式神の恐ろしさは知っているけれども、こうしていとも容易く難しい魔術を操る様子を目撃すると、まるで前世で思い描いていたような魔法そのもので、感動的な気分がするというものだ。時也と親しい恵理も優れた魔術師には間違いないが、彼女にはこれほどのことはできまい。
(やっぱり魔王ってスゲーんだな……)
その魔王を追い詰めた水津という男を相手にしなければならない。気を引き締めなければいけない。まずは森を抜けるところからだ。
「……お怪我は、本当に大丈夫なんですか?」
「小娘に心配されるほどのことはねえよ」
「あっやめてください、せっかく結んだ髪が!」
激流魔王の武骨な手が藍葉の髪を乱暴に撫でる。本当に仲が良いようだ。
「さて、行くか」
◆◆◆
道中は害獣と式神に注意しながら、今後の予定について再度確認する。
まずは森を抜けて、それから西区に入る。そして魔王城奪還のための作戦を開始する。
「どうやって西区へ入るか、だが」
そういえば、魔王はどうやって西区を脱出したのだろう。西区なら魔王の顔を知る者も多く、何よりその尾は目立ちすぎる。隠れて逃げ出すにも限界があるのではないだろうか。それを時也が問うと、激流魔王は藍葉を指さした。
「小娘の馬鹿兄の幻術だ。別れる前に色々と仕込んでいったからな。夜の暗い中で門番の目を誤魔化すくらい可能だ」
そしてそのまま、顔も尾も戦闘の傷も隠して西区を出たのだ。水津の手から逃れるために。そうしなければ追手を振り払えなかったのだ。
「とはいえ入るときはそうもいかない。もう誤魔化しはきかないだろう。あいつらに水津の息がかかっていたら困る。そうでなくても坊主の言うとおりこの尾は人目につく」
激流魔王がいる。目撃情報はすぐに誰かの口か、式神によって水津に伝わるだろう。できるだけ隠れて行動するべきであるのは確かだ。しかし、西区へ至る正門を使わないとすると、どうやって目的地へとたどり着けばよいのだろう。
激流魔王は「一応隠し通路がある」と言った。
「ここ数十年ほど放置しているが多分使えなくはないはずだ」
「えっ、そんなものあったんです?」
「隠し通路は隠しておくもんだ」
激流魔王の話では、西区にはいくつかの隠された道があるらしかった。遠い昔に彼が創らせたものだという。中には西区と外を繋ぐものもある。それを使おうというのだ。
(本当に大丈夫なんだろうか……)
激流魔王の話では長年使われていなかったもののようだ。使える道なのかどうか不安が拭えないが、どうせ逃げ場はない。作戦が失敗すれば窮地に立たされる、それだけのことだった。
「ともかく西区に入ったら、浅瀬亭へ行く。そして準備を整えたら、魔王城に潜り込み、水津を引き摺り下ろす。何としても」
そして一旦足を止める。
「どうかしたんですか?」
「この先に式神がいるようだ。迂回するぞ」
真っ直ぐ前を見ているようで、その視線はどこか別の場所を見ているようだった。
(別の場所も見ている、っていうのが正しいか)
見えているものが複数あると混乱してしまいそうなものだが、激流魔王の中ではそういった情報整理は全く行動に差し支えないもののようだ。そうでなければ式神を使って偵察するという発想もないだろうが、本当に時也とは規格が違っているのだった。
式神を避けた先に害獣の巣があった。襲われる前に時也と茶之介で駆逐する。いつも通り、急所を狙って刀を突き刺す。
(こいつは普通の害獣だな)
昨日の式神が指揮していたような知性ある生き物ではなかった。力もさして強くはない。いつも時也が狩るものと変わらない。
傷口から刀を抜き取ると、そこからどろりと黒ずんだ血が溢れ出る。時也が何度も経験してきたことだ。この光景も臭いも慣れている。藍葉には少しつらいものがあるかもしれないと思ったが、当の本人はけろりとした顔である。「お料理でお肉とかお魚を捌くのと似たようなものですよね!」とのことだった。彼女の事情を聞く限りでは箱入りのお嬢様のように感じられるのだが、時也が思う以上に藍葉は逞しさを持っている。
「そういえば、昨日の害獣――何かおかしかったな」
茶之介が口を開く。
「何かあったか」
「式神が害獣を連れていました。上手く操っていたように見えたので、少し気にかかりまして」
そうだ。昨日の害獣は式神の指揮下にあった。指示を理解し、指示に従い、指示どおりに時也たちを襲ったのだ。害獣らしい凶暴な力はそのままに、害獣らしくない知性を持っていた――そんな風に感じられる。
「害獣を操る、か……」
「暗示の魔術って害獣にも応用効くんですか?」
「どうだろうな。難しいことは間違いない。頭こそ単純だが、馬鹿力で向かってくる獣にご丁寧に魔術をかける余裕をどうやって作るか」
魔術とは魔族の技術だ。魔力を現象に変換する。そこには過程がある。暗示の魔術が難しいことは、以前恵理から聞いた。害獣に暗示をかけるなら、害獣が襲ってくるより先に魔術をかけなくてはならない。容易なこととは思えなかった。
そもそも、あの害獣たちから感じた知性が謎めいているのだった。暗示によって完全に支配下に置いていたからその行動が理知的に感じられた、と言われれば納得してしまいそうだが、それも正しくないような気がした。
暗示はあくまで右を左と、表を裏と、白を黒と思わせ、意識を誘導するだけのものだ。それが暗示だ。暗示にかかったからといって知性が身に着くわけではないだろう。それならば、やはり、あの害獣たちは元からある程度の知性のある生き物だったことになる。
(害獣っていうより、犬みたいだった)
時也は思う。あれは調教された犬だ。人の命令に従うことを教え込まれた犬そのものだ。暗示をかけられているのではなく、躾けられているといったほうが合っている――。
(東区を出るときには情報はまだ出回っていなかったから、新種なのか……)
しかし、水津はその存在を知り、理解している。だからこそ式神を使って害獣たちを操れるのだ。とうの昔に発見し、研究できているということに他ならない。
その時だった。がさり、と落ち葉を踏むような音がした。
時也は瞬間的に身を反転させて地面を蹴り、そこにいたものに刃を向けた。刃をさっとかわしたそれは、尾を掴もうとした時也の手からするりと逃げていく。時也はそれが走り去った森の奥を茫然と見つめながら、呟いた。
「……やばい」
「時也さん、今のって」
「居場所ばれた、かも」
「昨日のと、同じ害獣――?」
時也は頷いた。
「間違いないと思う。あれ頭いいやつだ。俺たちを襲ってこなかった」
(血の臭いを嗅ぎ付けて調べに来たのか?)
式神に従うことを知っている相手だ。あれが式神のもとに戻れば、そのまま居場所が敵に知れる。
「……とにかく早く行かなきゃ、式神もきっとこっちに来る」
「だったらなおさら急がねえといけねえってわけだ。とりあえず次は右な」
「あっはい」
(ワーオ……)
再び害獣が時也たちの前に姿を現したが、激流魔王の「くたばれ」の一言で終わった。魔術によって生み出した水を矢の形に保ち、そのまま放って害獣の心臓を貫いたのだ。一瞬のことだった。時也はただ感嘆の息をつくほかない。憧れのままの魔術がそこにあった。冒険者である時也や茶之介が手を出すまでもなく始末がついた。
「ったく鬱陶しい……おい、左に進め」
激流魔王の指示どおりに、神隠しの森の迷宮を進んでいく。時也が持つ魔法の土鈴が鳴る音を聞きながら木々の隙間をすり抜けて歩いていけば、やがて森の出口に辿り着く。遠くに壁が見えるのは、西区の居住区がそこにあるという証明だ。
太陽の位置は高かった。陽射しは強い。そろそろ真昼のようだ。激流魔王は目立つ存在だ。誰にも見られないうちに西区へ侵入しなくてはならない。
「俺の庭に帰るだけなのにコソコソしなきゃならんってのが気に食わん」
文句を言いつつも激流魔王は道を示した。正門より南。彼の目はそこから外れない。
苔や蔦の生えた石の壁がそびえている。深い濠は害獣たちを寄せ付けないためのものだった。その濠に沿って南へ向かって歩く。街道からはどんどん外れていく。そのため人気はない。今のところはまだ式神や害獣たちが追いかけてくる様子もない。本来出入り口がある場所ではないので、水津もマークしていないのかもしれなかった。
「此処だ。此処に隠し通路がある」
激流魔王が足を止めた。時也が見る限りでは壁にも濠にも変わったところはないように見える。地面も今まで歩いてきたところと変わらない様子だ。何の変哲もない。時也だけでなく、藍葉や茶之介もわからないという顔だ。
「本当に此処に隠し通路が?」
「餓鬼どもはそこで大人しく見てろ」
言いながら、腕を前に出してぱちんと指を鳴らす。すると濠に溜められた水が意思を持ったように動き出し、割れるようにして場所を空けた。
(モーセの十戒的な……?)
それから、水が階段の形を作って固着される。激流魔王がその階段を下りていく。
「お前らも来い」
見るからに揺らめく水でできたそれは下が透けている。踏むのは勇気が必要だったが、いざ足を乗せてみると石の階段を踏むように足元は確かだった。全員が下へ降りたところで、激流魔王が何やら藻が生えた壁の石を触っているのが見えた。
「確かこの辺に仕掛けが……これだ」
他と何も変わらないようだったが、彼がぐいと押すと石は壁の中に沈んでいった。それからごうと石と石が擦れる音がして扉が現れた。どうやらそれが隠し通路らしい。
「なにこれかっこいい」
思わず声に出していた。藍葉が首を傾げる。
「時也さん、こういうの好きなんですか?」
「うん、秘密基地みたいでクールだ……」
「隠し通路なんだから秘密という意味では間違いじゃないな」
「どうでもいいからお前らさっさと入れ。溺れたいのか?」
もう水を固定させている魔術を解くから早くしろ、と急かされて扉を潜る。長い間放置されていたためか、かびの臭いが鼻を衝く。奥のほうは暗くてよく見えない。
激流魔王が扉を閉めると完全に視界は黒一色になった。小さく水が跳ねる音がするのは、激流魔王が魔術を解いたから石壁の向こうで水が元の状態に戻ったということなのだろう。
旅の荷物にはランプも用意してある。ランプに火を入れると通路の様子がぼんやりとだが見えてきた。「便利だな。貸せ」と言われて激流魔王にランプを手渡す。周りは石造りの壁と石畳の床だ。この先に、西区へ繋がる出口がある。
(西区……ついに)
とうとう此処までやってきた。後には引き返せない。前に進むしかないのだ。それは藍葉のためであり、魔王のためであり――時也が知りたい真実にも繋がる道だ。
求める答えに向かって一歩、暗闇の中を踏み出した。




