第十一話
走るしかないのは確かだが、ただ闇雲に駆けていてもいずれ体力が持たなくなる。先程から普段なら通らないような道を突き進んでいる。景色は暗い中でも目まぐるしく出鱈目に変化し、酔ってしまいそうだ。この状況をどうにか切り抜けなければ西区へ辿り着く前に死んでしまう。
どうして害獣があの式神に従うのかはわからないが、藍葉を仕留めるつもりでいるのは間違いないだろう。
(そういえば、俺のことも知ってるかもしれないんだっけか……)
何故かはわからないが、以前襲ってきた式神は時也に反応を示した。時也も相手にとっては殺すべき対象なのだ。相手が何を考えているにせよ、此処で間違えればアウトだ。
この場で取るべき行動は何なのだろうか。力で押し切れる数ではない。式神の弱点である火はマッチを使えば用意できるが、その前に害獣に食われる絵しか思い浮かばない。
土鈴が鳴り響く。また別の場所に繋がる歪みがあるようだ。
「あの、この先!」
「何だ!」
「凄く、変なところに、繋がってるんですけど!」
「変って……何が?」
「落ちます!」
(――落ち、るって)
嫌な予感がする台詞である。だからといって、このままただ足を止めるわけにもいかない。だが、藍葉が持っているものは花火花の種――強い衝撃を受けると爆発する危険物である。もしもこのまま飛び込んで落下すれば地面に叩きつけられて爆発を引き起こしかねない。そうなれば無事では済まない。
藍葉は足を止めて振り返った。
「藍葉っ!」
「……このまま此処で朽ちるわけにはいきませんからっ!」
そう言って、箱の蓋を開ける。そこから一掴み、花火花の種を取り出して追ってくる敵に投げつけた。それがばらけて害獣にぶつかった瞬間、花火のような鮮やかな火花を散らして種が弾ける。「しつこい人は嫌いです!」
爆発の衝撃でさらに種同士が誘爆し、害獣たちを吹き飛ばした。
(これやっぱり充分危険物だあ……)
藍葉が此処で花火花の種を使ったおかげで敵に隙ができた。この様子なら逃げられそうだ。
「今だ、行くぞ!」
茶之介が言った。敵が怯んでいる隙に、三人は空間の歪みの中に飛び込んだ。
◆◆◆
藍葉が「変なところ」と言ったとおり、捩じれの向こうに足を踏み入れた瞬間重力の向きが変わった。足元が覚束ない。
「って空中……うわあーっ!」
そのまま重力に逆らえるわけもなく、木の枝に三回ほど引っかかって、時也は地面に落下した。
「――いってえ!」
途中の木の枝がクッションになったおかげで大怪我にはならなかったが、それでも背中や尻を打ち付けたところが痛む。木の枝に引っかかって腕や足も擦り傷だらけで、着物の袖も少し破れてしまっている。
(つーか何故俺はこれで生きてるのか……)
かなり高いところから落ちたと感じたのだが、特に行動に支障が出るような怪我は何もない。高所から落ちて「痛い」で済むというのは時也の前世では考え難いことだが、もしかすると人の形は似ていても人のつくりは別物なのかもしれない。
一方茶之介は時也と違って上手い具合に受け身を取ったのだろうが、どうやって落下の衝撃を軽減したのか、これといった目立つ傷もなく、さほど衣服も乱れた様子がない。時也は自分だけで手一杯すぎて全く見ていなかったので、今後の参考にはできそうにない。そして上から降ってくる藍葉を受け止めて横抱きにしていた。
「ン。平気か、藍葉嬢」
「たっ助かりました……あ、時也さん大丈夫ですか!?」
「なん、とかね……藍葉も特に怪我はなさそうだね」
「はい!」
元気の良い答えに安心しつつよく見てみると彼女の腕の中にはまだ箱がある。
(もしかしてまだ中身が……)
ちらりと茶之介の顔を見ると目が合ったが、すぐに逸らされた。ついでに溜息を一つ貰った。茶之介の視線を追うと、やはり藍葉の箱へ辿り着く。どうやら中身はまだしっかり残っているらしい。
(俺たち爆破の危機だったのか)
命の危機を脱しようとしてさらに危機とはこれいかに。
「早く此処を離れよう。手頃な寝床を探さないとな」
(……あれ、でも此処どこらへん?)
かなり出鱈目に走ってきたこともあって、辺りが暗くなった今では現在地を確認するのが難しい。頼りになるものは星明りくらいだ。しかしながら茶之介は何か心当たりがあるようで、先に歩き始めた彼についていく。
「森の神を祀る祠の話を知っているか」
「言い伝えのことですか。でも何処にあるかわからないっていう」
「そうだな。今では一般市民は行けない場所になった」
そう言いながらもその歩みには一切迷いがない。そのまま暫く進んでいくと、行き止まりになっていた。向こう側が見えるのに、物理的には進めない。これも空間の捩じれの一つだ。
「開いていない、か……」
「これってもしかして結界かしら……?」
藍葉が小首を傾げながら呟いた。
――結界。空間を操作する魔術のひとつだ。神隠しの森自体もそれに近いものがあるが、天然に生まれた魔法の迷宮は魔術とは似て非なるものだ。つまり、此処は人為的に閉じられた場所ということだろうか。本来の森の歪みに、別の壁を加えている。
「ああ、そのとおりだ。この奥に言い伝えの祠がある」
「茶之介先輩、なんでそんなこと知ってるんですか」
「前にちょっとな」
茶之介が手を伸ばしても、そこには見えない壁が存在した。この先には通してもらえないようだ。
「どうします?」
「この近くで休む。この中には入れないが、この周りは害獣が寄り付かないようになっている」
「……本当になんでそんなこと知ってるんですか」
「色々の縁だ」
(一体どういう人脈なんだろう……)
茶之介が言うには、この結界は物理的な遮断をしているもので、周囲に害獣除けの結界がもう一つあるらしい。そう言われてみると、歩いている途中では何処かで咆哮する害獣の声が響いていたけれども、此処ではそのような音は何もない。
藍葉は興味深そうに結界の壁に触れる。
「峠さんって物知りなんですね……あら?」
「どうかした?」
「……開いた」
「えっ」
言われて先ほどの閉じた場所を確認する。時也たちを拒んでいた見えない壁がなくなっており、道が現れた。
「どうして結界が解けたんだ?」
「誰かが中に入ったんだろう」
「まさか、式神の……?」
「――この結界を解ける人物は限られている」
茶之介が言った。
「俺の予想では敵ではない、が」
「じゃあ中に入っても大丈夫そうですね!」
即断であった。味方と決まったわけでもないし、不確定要素がないわけではないが、藍葉の中では天秤の傾きがその不安を重くないものと語ったようだ。
(確かに、式神よりはまし、かなあ……)
式神を相手にするのはつらい。それは身をもって体験している。
生身の生き物なら最悪対害獣用の恵理特製の毒物がある。易々と殺されるだけという事態は免れるだろう。同時に敵が害獣でなかった場合に余計な揉め事も引き起こすこと間違いなしだが、万が一攻撃されるようなことがあってもとりあえずこの場を凌ぐ程度は問題ないだろう。
結界が閉じてしまう前に中へ侵入する。中にいるのが誰であれ、式神が襲ってくる危険を考えれば外にいるよりは良いだという判断だ。ちょうど三人が足を踏み入れた瞬間に結界が再び機能し始めたので、もう少し躊躇っていれば外に弾き出されたままっただろう。果たしてそれが良いことか悪いことかはまだ不明である。
少し進むと建物らしきものが見えた。どうやらそれが言い伝えの祠のようだが、人から忘れられた場所にしては小奇麗であった。此処を知っている者の誰かが手入れをしているのかもしれない。辺りには砂利が敷かれている。
(……なんだ?)
その砂利の上に、何かが倒れているのが見えた。龍を彷彿とさせるような、びっしりと鱗に覆われた長い尾が伸びている。しかしながらその体の主は、人の形をしていた――魔族だ。体の組織が変質するほどの膨大な魔力の持ち主である。藍葉が悲鳴を上げた。
「――激流魔王様!」
◆◆◆
結界の中で倒れていた激流魔王は血まみれだった。外に放置するわけにもいかないため、社の中で寝かせる。本来人が休む場所ではないのだが、怪我人が寝ることを許さないほど神は狭量ではない。
血を拭き取ると、傷跡がいくつも見えたが、どれも氷に似た結晶で塞がれていた。どうやら魔術によって強引に塞いだもののようだが、無理矢理継ぎ接ぎしただけのそれは決して癒えているわけではなかった。かといって、時也たちの手持ちのものでも充分な手当はできない。
「魔王様……」
「藍葉も休んだほうがいい。疲れているんじゃないか」
「……まだ、眠れそうにありません」
藍葉の視線は激流魔王から外れない。茶之介も何か考え込んでいる様子だった。
(激流魔王、か……)
雄大な龍の尾。それを除けば彼はただ体格の良い魔族の青年だ。テレビで見たことがある。西区の魔族を統べる王だ。それが今、時也の目の前で眠っている。
(なんでまた魔王がこんなことになっているんだか)
異常事態だ。西区の城にいるべき人物が此処にいることも、その彼がこれほどまでに傷つけられていることも。どうしてこのようなことになっているのか、本人から話を聞かないことには何もわからないが、彼は眠ったままだ。
「兄上も父上も一体何をしているのかしら。無事だといいんだけど」
「藍葉のお兄さんたちって幻術師なんだっけ……」
「はい。父は現役を退いていますが、兄は魔王様にお仕えする幻術師です」
話題に出すと家族を思い出したのか、藍葉は僅かばかり気を緩めたようだった。
(そういえば幻術師ってどういう仕事なんだろうか)
人間の魔法使いであることはわかっているが、それ以上のことはよく知らない。この機会に聞いてみることにする。そうすると藍葉は少し嬉しそうにしながら話し出した。
「幻術師は魔法の研究家でもあります。現象としての魔法を読み解く専門家ということですね」
自然物には魔力を生み出す魔力炉が備わっており、魔法というのは魔力によって引き起こされる現象の総称だ。魔族が操る魔術も、神隠しの森の歪みも魔法のうちだ。
その仕組みがわかれば、魔法災害への対応もできるし、生活に役立つ魔法の理論を考えることもできる――というのが幻術師の役割であるという。
「霧雪家は代々魔法の研究を受け継いできましたから、魔法には造詣が深いんです」
そこまで語って、藍葉は再び視線を魔王に戻した。
「魔王様あっての霧雪家です。魔王様に何があったのか、私の家族と連絡がつかないことに何か関係あるのか……本当にどうしてるんだろう」
「……寝ろ。激流様にお話を聞ければ何かわかるかもしれないが、それも明日の朝の話だ」
「でも」
「俺と時也で介抱しておく」
茶之介の説得で、渋々ながら藍葉は横になった。暫くすると寝息が聞こえてきたので、疲労は確かにあったようだ。むしろあれだけ逃げ回って、冒険者でもない少女が疲れないわけがない。
「全く手のかかる」
(この人絶対世話好きだよなあ……)
ともかく、ようやく休息の夜だ。激流魔王の介抱は必要だが、それも害獣に気を張らなくてはいけないことより余程楽だ。結界というのは便利なものである。
「さて……時也」
「はい、何です?」
「今回の仕事だが、どうにも厄介なことになっているかもしれない」




