第十話
東区の門を出ると、時也の見慣れた光景が広がる。街道側に行く道を逸れて神隠しの森へ入っていくと、歩き慣れたいつもの歪んだ景色だ。
神隠しの森などと呼ばれるだけあって、この森には神霊が宿るという。豊富な魔力を宿す土地であり、それゆえに魔法そのものに包まれている。森のどこかには神霊を祀るための祠があるという言い伝えが残っているが、その場所に至る方法は失われている。そもそもこの迷宮は完全に解き明かすには難解すぎる。
ヒノモト帝国では東区で信仰の篤い豊穣を司る神である陸朱穂尊の他、海の神の鳴風龍神、天空神の天灯媛大神の三柱の神を中心とした神話が伝えられ、宗教としての形が作られているが、あらゆるものに神が宿るという宗教観は時也が思い返す前世での日本とよく似ている。八百万の神というそれだ。
だからなのか、時也は神社に赴くことに対して違和感がなかった。特別信仰心を自慢できるほど熱心ではなく、神話について詳しくもないのだが。せいぜい教育の一環として知識を植え付けられた分くらいしか知らないが、生きていくうえではそれだけ知っていれば充分であった。常識以上の知識は日常生活ではいらない。
ちりん、ちりんと魔法の土鈴が鳴る。鈴の音が行くべき道を示す。歩く距離を短縮できる道を駆使して一歩一歩確実に先へ進む。遠くのほうで害獣の鳴き声らしきものが聞こえるが、今日の時也の仕事は駆除ではないので、近寄っていく理由もない。害獣除けの魔法薬を撒きながら進んでいくが、だからといって全く遭遇しないというわけでもないので、ときどき出てくる害獣を退けるのが時也の役割である。
前に見せてもらった茶之介の鍔が砕けた剣は修復されたらしい。壊れた鍔の代わりに新しいものが使われていた。
「ついでに補強の魔術をかけ直してもらったからな。これで簡単に折れたり砕けたりしない。切れ味は変わらないが」
「恵理さんですか?」
「いや。だが、素晴らしい魔術師には間違いない」
(魔術って本当に便利だなあ……)
決して万能ではないが、役に立つ技術であるのは間違いない。冒険者が危険を冒す作業を生業にできるのは、こうしたサポートがあってこそだ。特に優れた魔術を扱える魔術師を頼ることができれば、冒険者業における仕事のしやすさというのは格段に上がる。時也も恵理という魔術師がいたからこそ戦えるようになったのだ。
藍葉は花火花の種に余計な衝撃を与えないよう大切に持ち運びながらそろりと歩いている。
「俺は詳しくないけど、それってそこまで危ないものだっけ……?」
「あっ、いえ、そんなことないんですけどね。兄上も投げ飛ばしたりとかはしなくても、そこまで丁寧に扱っているふうじゃなかったですし……でも頼まれたものだと思うと、つい。やっぱり変ですよね」
「まあ歩き方は変……」
「はう」
「だけど気持ちはわかる気がするよ」
緊張してしまうことは仕方がない。しかしあまり呑気にしていて害獣に襲われてはいけないので、もう少し早く歩くように促す。
神隠しの森は時空が歪んだ場所だが、上手に道を選べば近道にもなる。より早く西区に辿り着くためにはこれを利用するしかない。どうしても危険は付き纏うが、こればかりは仕方がない。
(しかし何だろうな、この感じ。いつもどおりのはずなのに、何か違うものが混ざってるような――……?)
緊張のためか、それとも本当にそんな要因があるのか。答えは茶之介の声に現れた。
「――伏せろ!」
それと同時、時也が藍葉の背を押して頭を下げながら体を前に押し出し、茶之介が抜いた刀の下を潜り抜ける。金属同士がぶつかる音が耳に突き刺さる。
「ひゃあ、何!?」
(こいつは、あの時のと同じ――式神か!?)
藍葉を庇いながら体勢を立て直す。振り返れば、茶之介がちょうど相手の刀を受け流したところだった。
「……成る程。これは確かに人の力って気がしないな」
「し、式神……」
「藍葉、下がって」
何としても藍葉を守らなければならない。今は茶之介が押さえつけているが、どうやらそれも容易ではない様子だ。再び刀がぶつかり合うが、茶之介のほうが押されているように見えるのは恐らく剣の腕の問題ではなく相手の力が強すぎるからだ。
(そうだ、火!)
式神の材料が紙であるなら、弱点は火だ。その対応のために恵理がマッチ箱を時也に持たせた。どうにか隙を見て相手を燃やすことができれば勝てるだろう――が、迂闊に近づくわけにもいかない。藍葉が無防備になってしまうだけでなく、茶之介の邪魔になりかねない。
(って言っても悠長に悩んでる場合じゃないか)
此処で逃げてもすぐに追いつかれてしまうだろう。だとすれば此処で何とかするしかないのだ。時也は懐に手を伸ばす。
「茶之介先輩、そいつもう少し押さえつけといてくださいね」
「ああ――任せろ!」
恵理に持たされたマッチ箱を開けてマッチを擦る。茶之介は敵の式神の刀を弾き返して、思いきり腹部に向かって蹴りを入れた。式神の体勢が崩れたところを斬りつけ、そして右の肩を裂く。千切れたところから元の紙に戻っていく。間違いない、あれはやはり紙から作られた式神だ。それなら燃やせる。
式神が刀を持ちかえて茶之介に抵抗する。茶之介の真っ赤な着物の袖が切れる。
今ならいけそうだ。燃えるマッチを持って式神に向かって突っ込むと、式神の反撃に遭った。ちょうど刃が時也の頬を掠めていったが、こんなものはどうでもいいことだった。マッチの火を相手に押し付ける。暫くして火が燃え移り、式神は灰になって消えていった。
「や、やったか……」
(恵理さんがくれたマッチのおかげだな……)
とりあえずの危機は去った。人の形をしたものを燃やすというのはどうにも気分がよくないが、自分たちの命には代えられない。安心感から、ひとつ息をつく。
「時也さん、怪我しています」
「え?」
言われて先ほど刀が掠めた頬を撫でる。血が滲んでいるのか、指先は僅かに濡れた。
「……ああ、これくらい大したことないよ」
冒険者という仕事上多少の怪我は仕方のないことだ。時也もそれは承知している。血の様子からしてさほど重傷ではないから、痕に残るかどうかも怪しい。元々美形というわけでもないから顔にその程度の傷がついたくらいで悲しむような心も持ち合わせていない。
汚れていないほうの手で心配そうに顔を覗き込んでくる藍葉の頭を撫でる。そうすると、彼女は少し落ち着いたようだった。
「此処にも式神がいるんですね……」
「他にもいると考えたほうが良さそうだな。それに式神を一体倒したことで、向こうにもこっちの居場所が割れたんじゃないか」
「だとしたら、急いで森を抜けないと――あ、でも真っ直ぐ突き抜けて行ったら逆に見つかりやすいかもしれないな……」
そもそもこれだけ式神を操れる相手なのだから、式神を使って森を探索して色々な道を知っていてもおかしくないのだ。東区と西区を繋ぐ最短ルートを突っ切ろうとしても、向こうとてこちらを探しているのだから、わかりやすい道には待ち伏せしている可能性がある。罠を張って待ち構えている様子は想像に容易い。
「うーん、なんだかとっても厄介ですね」
「どうします、先輩」
「警戒して進む。道を変えよう。今日中には森を出られそうにないか――藍葉嬢、きっと野宿になるが我慢してもらうぜ」
藍葉は頷いた。
神隠しの森は自然に発生した魔法の迷宮である。空間は捻じ曲がり、道は閉じられていたり全く別の場所に繋がっていたりする。それゆえに進む道によっては近道にもなり得るが、逆に深いところまで迷い込んで出られなくなってしまう人もいる。
藍葉は魔力の淀んだところを見分ける目を持っているし、時也たち冒険者も迷わないように道を示して鳴る土鈴がある。だから危険な式神のいそうなところを避けて進んでも出られなくなるということはないだろうけれども、害獣が棲みつく森に安全という言葉はそもそも存在しない。式神を相手にするよりはましという程度だ。
(害獣狩りのときに何回か来てるけど……)
冒険者たちが作った最短の道を逸れるとほとんど獣道だ。あまり足場はよくない。一歩一歩踏み進めれば、湿った腐葉土の上に落ちた小枝が折れる音がした。
「わっ」
「大丈夫?」
「は、はい……ありがとうございます、時也さん」
「足元気を付けて」
害獣の咆哮が反響する。その中で、物陰に人の形をしたものが見えて、息を殺して隠れながらやり過ごす。式神らしきものは三人を発見できなかったらしく、空間の歪んだところからどこか別の場所へ消えた。
「……行ったな。進もう」
元々巨木の影になって薄暗い場所だが、葉の隙間から差し込む光が徐々に小さくなっていく。陽が落ちつつある。
「――ン、何かいるな」
「害獣……みたい?」
少し開けた場所に、鋭い牙を持った獣がいた。体にそぐわない異様に大きな頭は重たそうだ。開いた口からは涎が零れ、眼球は飛び出している。形だけを見るのなら狐に似ているようにも見える。
それが、こちらを向いた。どうやら標的とされたようだ。
(それなら倒すしかない)
時也が刀を抜き飛びかかる。それは牙を剥いて時也に襲い掛かったが、その牙に貫かれる前に首を刎ねる。害獣の血が飛び散った。
首と体が分離してもまだ害獣は生きていた。そして何か、体のほうが吠えるような動きをした。空気が震える。時也が心臓を狙って刀を突き刺すと、それはようやく動かなくなった。
「い、今のは……」
以前見た巨大な害獣と違って、この森によくいる小型の獣だったが、その割にはしぶとかった。害獣は奇妙なものと相場が決まっているが、もしかすると今のも新種の害獣だったのだろうか。帰ったら恵理に確認する必要がありそうだ。
「――あの……何か聞こえませんか?」
ざわり。暗い森の静寂の中に、何かが動いている気配がある。
(まさか、こっちに向かってきてる?)
「……おい、走るぞ! 急げ!」
茶之介に急かされて走り出す。すぐ真後ろから獣の叫びが聞こえてちらりと振り返ると、さきほど仕留めたものと同種と思しき害獣たちが数匹で隊列を作っている。その中に式神と思しき影がちらついて見える――それが時也たちを追いかけてきている。
「な、なっ、な、何ですかあれっ」
「敵だ! 黙って走れ! 死にたくなかったらな!」
害獣一体だけなら時也にも始末できる程度のものだったのでさしたる問題ではないが、それが複数いて、さらに式神がいるとなるとまともに相手をしていられない。退ける前に殺されるのが落ちだ。
神隠しの森のどこか歪んだところから別の場所へ逃げ込んで隠れられれば、上手くすれば逃げられる可能性がある――そのためにも、今はただ追いつかれないようにこの夜へ向かう森を駆けるしかない。
(けど、何で害獣がこんなにたくさん)
そもそも害獣というのは生物として破綻している存在であって、群れを成すことはまずないもののはずだ。
ゆっくり観察する余裕はないが、綺麗に列を作っているように見えた。式神に指揮されている様子だ。この害獣たちは、人の命令を聞いている。
(こいつら……知性があるっていうのか――)




