第九話
藍葉は護衛を依頼した。時也と茶之介は、彼女を無事に西区へ送り届ける義務を負った。契約は成立した。
茶之介は西区への用事があるらしいが、その点については藍葉と同じということで、元々の仕事に支障がでない限りは藍葉たちに付き合ってくれるという。
「俺にも妹がいてな……どうにも放っておけん」
茶之介は言った。彼の言う妹と重なって見えるのか、年下に甘いというか、元々世話焼きの気質の男だ。時也も冒険者業に就いたばかりの頃はやたらと世話を焼かれたものだが、今回の藍葉の依頼を引き受けたのもそれと似た親切心から来るのだろう。
必要な書類は恵理が手早くまとめてくれたおかげで、あとは時也が出発準備をしたり、藍葉がホテルの滞在日程を訂正するのに明日以降の部屋のキャンセル料を払ったり等明日に向けて支度するだけだ。非常に忙しない。
恵理は魔法の代用品として時也にマッチ箱を握らせてくれたが、果たして的確に殺しにくる式神に対して悠長にマッチを擦っている暇があるかどうかが問題である。
「時也さんも明日からしばらくお帰りにならないのですね」
藍葉を促した音子は、そういえば西区にいたことがあったのだと思い至り、時也は聞いた。
「音子さん、西区には詳しいんですか」
「わたくしの知識は古びていますから、お役に立つものではございませんわ。もう二百年も前になるのですもの」
人の暮らす場所は数年もあれば様変わりするものですし、と音子は言った。
「聞くと見るとは大違いとも言います。ご自分の目でお確かめになるのが一番ですわ」
「そっか……」
「でも、これも縁というものでしょうか。何だか不思議な気分ですわ……」
一体何の話だろうか。時也が首を傾げていると、音子は目を伏せながら、言った。
「時也さんのご両親は、西区で暮らしていらしたのですよ」
「……え」
それは、時也が初めて聞く話だった。
時也が知っているのは、両親が死んだことと、嘉一郎に引き取られたということだけだった。幼い頃は修行のためにいっぱいいっぱいで、他のことに気を回す余裕がなかったので、両親の話を聞くどころではなかった。前世の記憶に対する悩みもあったし、自分の出自について興味を持つことができなかったのだ。
それゆえにそんな話をする機会は一切なかった。それが今、音子の口から零れ落ちたのだ。時也の知らなかった、彼自身のルーツについて。
「二十年前、時也さんのお母様がこちらにいらしたとき、少しだけお話しを伺いました。魔法の研究をされていたのだとか」
「……もしかして魔族?」
その疑問に、音子は否と言った。人間であって魔法を研究していたとなると、幻術師の家系として魔法に親しみを持っている藍葉と似たようなものだったのだろうか。知識を受け継いでいない時也には憶測しかできない。
「より詳しい事情は、嘉一郎さんにお聞きするのがよろしいでしょう。わたくしも細かいところまでは存じ上げておりませんもの」
「そう……嘉一郎さん、次はいつごろ帰ってくるかな……」
「何事もなく、無事なら構わないのですけれどね――時也さんも、充分お気をつけくださいまし」
「うん……音子さんもね。街の中でも何があるかわかんないし。暫く一人にすることになるけど、大丈夫?」
「わたくしのことはご心配なさらずに。おばさんは逞しいのです。夏目家の留守はこの音子がしっかり守ってみせますわ。ですから、時也さんは藍葉さんをお守りすることにだけ集中なさってくださいな」
そう宣言して、自信満々に小さな胸を張る。愛らしい猫である。時也の口許が緩んだ。
おおよその支度を終えると、あとは何もすることがなかった。明日に備えて寝るだけだ。時也はいつもどおりに飾りっぱなしになっている太刀を見て、音子の言葉を思い返す。
『時也さんのご両親は、西区で暮らしていらしたのですよ』
不思議なほどに、時也は自分の親に対して関心が薄かった。
理由をつけることは幾らでもできる。前世への未練、現実での生への渇望。切羽詰まった状況で最も優先されるのは自らの生命維持であり、安全の確保であった。
時也は前世の記憶と現状認識を擦り合わせながら成長してきた。その過程で親という存在については彼の中で問題にはならなかった。そこには猫の姿とはいえ愛情を持って接してきた音子という母の存在があり、いっそ厳しすぎるくらいの訓練を施しながらも寝る場所と食事を提供してきた嘉一郎という父がいたからだ。
――嘉一郎。時也の養父にして、夏目家の当主。
時也は彼のことをあまりよく知らない。両親のことも知らなかったけれども、その両親と何らかの繋がりがあったらしい嘉一郎のことでさえ、付き合いが長いはずなのに知らなかった。
あまり良い思い出はない。教育を受けさせてもらったし、刀の振るい方を教えてもらった。神隠しの森の歩き方も教えられた。そこまではいいが、害獣のいる場所に放置されて自力で逃げ出さなければならなかったことも多々ある。襲ってきた害獣の爪を上手く避けられずに腹が裂けて死にかけたこともあった。
流石にその時は何処かに隠れて見守っていたらしい嘉一郎に回収されて、医者の治療を受けた。この世界に他人の傷を癒せる魔術などという便利なものは存在しないが、腕のいい外科医はいる。時也はその時初めて命拾いというものを経験した。生き延びた時也の頭を撫でた嘉一郎は、父親の顔をしていたように記憶している。
その後からだ。時也は嘉一郎が父親の顔であると気づくようになった。気が付けば戸籍という紙の上だけのものでなく親子だった。
一体、嘉一郎は時也の両親とどんな関係にあり、何を思って時也を養子に迎え入れたのだろうか。時也ほどの年頃の子供がいてもおかしくない年頃の彼はしかし妻を娶る様子もなく、傍にいる女性といえば夏目家の女中である化け猫の音子だけなのであった。
音子が二百年も前から仕えているという夏目家。広い屋敷と蔵を備える夏目邸は、古くから受け継がれてきたはずのものである。嘉一郎の私有財産も、恐らくは彼が一代で築き上げたものだけではないはずだ。それなのに、彼は子を成す気がない。
家を空けることの多い人だから、家庭を持つと縛られることが多くなって嫌なのだと言われれば結婚しないのも納得できなくもないわけだが、それならば時也と親子になった理由が説明できない。少なくとも時也は面倒くさい子供だったはずだ。自分の子でもなく、前世の記憶を持った時也は子供らしさにも欠けて可愛げが足りなかったはずだし、戦闘技術においても才能に乏しく、弟子としても教えがいがあったとは思えない。
(俺の両親、か……)
親というのなら間違いなく嘉一郎と音子が思い浮かぶのだけれども、深く考え始めると、どうにもよくわからなくなってくる。
(本当に俺何にも考えてなかったな。考えてたつもりだったけど)
どうして自分が生まれてきたのかについてはよく考えていたはずなのに、そのヒントになるかもしれない出自のことを、時也は知らないのだった。
(俺は何者なんだ)
恐らくその答えの欠片を持っている嘉一郎は此処にはいない。次に彼に会ったなら、その話を聞き出せるだろうか。
音子の話では、西区は両親が住んでいた場所だという。それならば、今回の護衛の旅の中で何か得られるものがあるかもしれない。
(……変なフラグっぽくて嫌だなあ)
帰ったら何かをするとか、次に会ったらとか、前世では死亡フラグの定石だったような――ふとそんな考えが浮かぶのを心の中で打ち消して、時也は布団を被って目を閉じた。
◆◆◆
――夏目時也は夢を見る。
これは知っている。前の自分が死んだときの夢だ。時也になる前の彼は洗濯物を干している。怪物はいない。武器も持つ必要はなかった。今では信じられないほどに平穏で、前にも見た夢のままだ。
誰かの声がする。
「――――」
よく聞き取れないが何となく、その声の主に呼ばれているような気がする。誘われるようにしてベランダへ行き、下を覗き込む。
「――――」
そしてそのまま引き寄せられるように落ちて死ぬのだ。これも記憶どおり、いつも夢に見るまま、思い出すままの内容だ。さて、その呼び声は一体何と言って時也を誘ったのだったか。
「――――」
言葉は反響するように胸に染み渡る感覚がするのに、どうしてかその台詞が何だったかわからない。どうしてだか、その言葉が何だったのか気にかかって仕方がない。まるで靄がかかっているかのように、はっきりとしないそれの正体は何か。否、知っているはずだ。確かに時也になる前の彼がそれを聞き取っている。
(そうだ……俺は覚えているんだ)
覚えているのなら、思い出せるはずだ。糸口がある。それを手繰り寄せればいい。記憶の奥底から引っ張り上げたら、それが答えだ。
「――こちらへと来たれ、異の者よ」
青年は死して時也へと生まれ変わる。
――夏目時也は夢を見ている。
◆◆◆
じっとりと汗が噴き出す。あまり爽やかではない寝覚めだ。最近こうした朝を迎えることが増えてきている気がする。
夢はともかく仕事だ。昨日のうちに用意するものは用意してしまったから、出掛ける支度にそう時間はかからない。
いつもの脇差と、使い道のなかった太刀を持ち、音子に挨拶をしてから外へ出る。神隠しの森へ行くというのにリヤカーも罠も持たずに出掛けるというのは不思議な気分だ。毒はいつもどおりに恵理特製の魔法毒を持ち歩くわけだが。
まずは藍葉が泊まっているホテルまで彼女を迎えに行かなくてはならない。高級ホテルというのは警備が万全だから、一般市民からすれば最も安全な場所の一つという側面を持っている。式神に襲われたことを考えれば、此処まで迎えに来るのが一番良いのだった。
改めて外観を見ると如何にも金がかかっていると主張してくるかのような煉瓦の建物だった。藍葉はどこにいるだろうか。
警備員に冒険者免許を見せると中に入ることができた。身分証明になるものは持っておくと本当に役に立つ。自分が悪人でないことの証明は自分の言葉では難しいのだ。
決めた時間までに一階に降りてきている約束だ。ロビーを見回してみると、彼女の姿を見つけられた。
「おはよう」と簡単に挨拶をしてから、彼女のチェックアウトの手続きを待つ。彼女の荷物は最初に会ったときより当然に増えていた。
「これは……忙しい中でお願いするのもなんですけど、魔術で西区に送ってもらおうかなって」
「ああ、それがいいかも。一週間くらいなら組合の支部で荷物預かってくれるし」
それから冒険者組合事務所へ向かう。茶之介も恵理もそこにいた。
「おはようございます」
「来たわね」
藍葉は転送魔術を利用したい旨を告げて、恵理に荷物を預けた。送り状に必要なことを書いて料金を支払い、手続きは終了である。
「それじゃ藍葉ちゃん、これ、預かっていたものよ」
恵理は何か桐の箱を出してきた。ちょうど人の掌より一回り大きいくらいの幅だ。
「これは……」
「花火花の種よ」
蓋を開けると、植物の種のようなものがぎっしりと詰め込まれていた。
花火花――というと、その名前のとおり花を咲かせると線香花火のように火を吐き出すという魔法の植物である、と時也は図鑑に書いてあるのを見た覚えがある。東区の固有種だ。自分の炎で焼け残った後に種を残すという変わり種である。
「アナタのお兄さんに注文されてたものだけど――そうね、これってあんまり強い衝撃を受けると爆発するの。魔術であんまりにも雑に取り扱えるようなものじゃないから、こればっかりは人の手で運ぶしかないわ。今はトラックも使えないし」
ばくはつ。爆発。何とも物騒な響きである。時也が危険物と認識している一方で、藍葉は大した動揺もなくそれを受け取った。
「……これの扱い、大丈夫?」
「父上や兄上が使っているのを見たことがありますし、大丈夫……だと思います。幻術師って、基本的に魔力が足りてないので、大掛かりな仕掛けをするときはこういうもので補わないとですから」
魔族と違って人間の魔力炉は貧弱である。魔力が少ないから魔術として形に表すことができず、幻術として示すものは実体を持たせられなかったものだ。元から足りていない状態なら、自在に術を操るには補助が必要で当然だ。成る程、それならこの種が必要なのも納得である。何となく彼女の返事が不安を煽るのが気になるが。
「それじゃあ、出発といくか。準備はいいな?」
茶之介が確認する。時也も藍葉も頷いた。
「お二人とも、宜しくお願いします」
「――いってらっしゃい。気を付けてね」
恵理の見送りを受けて、建物を出る。西区へ向けての出発であった。これからが冒険だ。冒険者としての時也の仕事が始まる。




