第七話 赤字家計は見慣れた地獄だった
クラウティア家の財務状況を一言で表すなら。
死に体。
帳簿を洗い直すのに三日かかった。いや、帳簿と呼べる代物ではなかった。
先代当主の走り書きと使用人が残した買い物の記録と、商人からの請求書の束。それらが書斎の引き出しに時系列も無視して突っ込まれていた。
前世の経理部が見たら卒倒する。いや、まず泣く。
僕はそれらを一枚一枚広げ年月ごとに仕分け、数字を拾い上げて表にまとめた。
結果を前に、僕はため息をついた。
収入源は二つ。
一つ目は領地の小作料。クラウティア家にはベルデの街の周辺に小さな農地が残っている。
三軒の小作農が耕しており、収穫の一部を納めてくれている。ただし、額は年々減っている。土地が痩せてきているのだろうか。
二つ目は森の採集権。森で薬草やきのこを採る権利。これもベルデの街の採集人が少額を支払ってくれている。
ただし、ヴェルディア伯爵家が「この森はうちの領域だ」と圧力をかけ始めているようだ。記録には直接書かれていないが、ここ二年で採集権の収入が半減していることから推測できる。
「ええと……合計の年間収入はこれ。対して支出はこれ。食料、屋敷の最低限の維持費、領主としての税。銀貨にして約……」
……。
うん。
「フィレーネ様、率直に言っていいですかね?」
「……嫌な予感がする」
「このまま何もしなければ、二年以内に破産します」
フィレーネの顔から血の気が引いた。予想はしていただろうが、数字で突きつけられると現実感が違う。
「破産したら、どうなるの」
「領地は没収。屋敷も差し押さえ。フィレーネ様は……後見人がいないから、最悪の場合、教会の孤児院か、どこかの貴族に引き取られるか」
「引き取られる、って……」
「体のいい召使いです。没落貴族の令嬢なんて使い勝手がいいから」
きつい言い方をした自覚はある。でも、甘い言葉で現実を包み隠しても仕方ない。
前世の上司に一つだけ感謝していることがあるとすれば、「現実を直視しろ」と何度も言われたことだ。
あの人の言い方は最悪だったけど、教え自体は間違っていなかった。
フィレーネは黙って自分の手を見つめていた。花壇の土いじりで少し荒れ始めた白い手。
「……どうすればいいの」
「収入を増やすか、支出を減らすか、その両方」
「支出はもうこれ以上減らせないよ。これ以上減らしたら食べるものがなくなる」
「ですね。だから、収入を増やしましょう」
僕は窓から庭を見た。正確には、庭の向こうに広がる森を。
「フィレーネ様、この森に何が生えてるか知ってます?」
「薬草とか、きのこ……ベルデの採集人が詳しいと思うけど」
「実は一昨日、散歩がてら少し見てきたんですけど」
散歩。実際には森の生態系を魔力感知で隅々まで調べ上げた。
「あの森、薬草の宝庫ですよ」
「え?そうなの?」
「今採られてるのは、ごく一般的な種類だけです。でも奥のほうに、かなり珍しいのがいくつかありました。たとえば……」
僕は帳簿の裏に植物名を書いた。横に特徴を絵で描く。
「これ、星露草……?お父様の本で読んだことがある。すごく高い薬草で、解熱剤の材料になるって」
「それが群生してました。かなりの量」
フィレーネの目が見開かれた。
「嘘……」
「嘘つきませんよ、僕」
嘘はつく。しょっちゅうつく。自分の正体については嘘だらけだ。
でも、この件に関しては本当のことだ。
「問題は採取と販売のルートですね。今の採集権はベルデの採集人に貸してるだけで、クラウティア家が直接商いをしてるわけじゃない」
「じゃあ、直接売ればいいの?」
「そう簡単でもないんです。薬草の取引には商会の認可がいるし、品質の鑑定も必要。それに……ヴェルディア伯爵家の問題もある」
フィレーネの表情が曇った。
「……あの家がうちの森を狙ってるの、知ってる?」
「えぇ。帳簿から読み取れました。採集権の収入が減ってるのは、伯爵家の圧力で採集人が萎縮してるからですね」
「……うん。去年、伯爵家の使者が来て、森を適正な価格で買い取るって」
「適正じゃない価格だったんでしょう」
「うん……わたしが何も答えなかったら、勝手に帰った」
答えなかったのではなく、答えられなかったのだろう。十二歳の少女一人に、伯爵家の使者と交渉しろというほうが無理だ。
「また来ると思いますか?」
「来年の春には来ると思う。去年もその前も、春だったから」
春。あと半年ほどか。
それまでに、この家の財政を立て直し、伯爵家の圧力に抗える基盤を作る。半年。人間の時間感覚では短いが、不可能ではない。
「フィレーネ様。ひとつ提案があります」
「え?」
「明日、ベルデの街に行きましょう。市場の相場を見て、商会の情報を集めたい。あと、マルコさんに紹介してもらいたい人がいる」
「紹介?」
「薬師。薬草の価値をちゃんと鑑定できる人」
フィレーネは少し考えてから、こくりと頷いた。会ったばかりのときなら「わたしなんかが行っても」と尻込みしていただろう。小さな変化だが、確実に前に進んでいる。
「リアンくん……ありがとう。わたし一人じゃ、帳簿を見ることすらできなかった」
「見たくない気持ちはわかります。数字は残酷だから」
「でも、見なきゃいけなかったんだよね、本当は」
「……うん。その通りです」
フィレーネは帳簿を丁寧に閉じて、書斎の机に置いた。
「お父様も見たくなかったんだと思う。この帳簿のぐちゃぐちゃ具合を見ると」
「似てますね、フィレーネ様と」
「わたしは苦手じゃなくなるよ。リアンくんが教えてくれるなら」
生意気になってきた。いい傾向だ。
書斎の窓から夕焼けが差している。橙色の光が、古い本棚の背表紙を温かく照らしていた。
こういう瞬間を、僕はずっと忘れられないのだろう。
帳簿の数字、夕焼けの色、フィレーネの横顔。些細な夕暮れの一場面。でも……こういう一場面の積み重ねが、たぶん人間の人生なのだ。
永遠を生きる僕にはこういう時間の重みがわかりにくい。例え前世が人間だとしても、この身体はこういう風に出来ている。
だからこそ意識して、一つ一つ拾い上げておかないと。
「さ、夕飯にしましょう。今日は僕の番ですよ」
「何作るの?」
「帳簿を見た後は、甘いものが食べたくならない?」
「なる!」
「じゃあ、卵と蜂蜜でプリンもどきを作ろうか」
「プリン?」
「……この世界にはないのかな? まあいいや、食べればわかりますから」
台所に向かう僕の後を、フィレーネが小走りについてくる。
願わくば、彼女の笑顔が曇りませんように。




