第六話 才能を気づかせるのは周囲の仕事だ。
この家に来てから少しばかりの日数が過ぎた。
屋敷は見違えるように変わっていた。
僕が夜中にこっそり魔術で手を入れた箇所が多い。
フィレーネには「夜のうちに乾いた」「風で汚れが飛んだ」などと適当な理由をつけているが、そろそろ苦しくなってきた。
十二歳というのは意外と賢いものだ。
「リアンくん。玄関の床、なんであんなにぴかぴかなの」
「磨きましたから」
「いつ?」
「昨日の夜に」
「わたし、夜中に一回起きたけど物音しなかったよ」
「静かに磨きましたから」
「……」
疑惑の目。しかし追及はされなかった。フィレーネは不思議と僕の不自然な部分を深く問い詰めない。
聡い子だ。
もしかしたら問い詰めて僕がいなくなることを恐れているのかもしれない。
どちらにせよ助かってはいる。
この一週間で、フィレーネについてわかったことがいくつかある。
まず、この子は頭がいい。
手順を一度教えれば、飲みこむのが早い。間違えた箇所は自分で気づいて修正できる。
スープの味付けはもう僕が口を出す必要がない。
……結構焦がすけど。
パンは三回目で合格点に達した。
次に読書量が多い。
歴史書、地理書、経済の入門書。
「ここに書いてあるんだけど、百年前のクラウティア家は、この地域の徴税権を持ってたんだって」
「ほう。今はどうなってるんです?」
「隣のヴェルディア伯爵家に取り上げられた。お父様の代で」
「取り上げられた理由は?」
「……政治的な理由、としか書いてない」
フィレーネが本のページを繰る指が、少しだけ強張った。
「つまり、正当な理由じゃなかったってことですかね?」
「たぶん。お父様は人が好すぎたって、ベティおばさんが言ってた。貴族同士の駆け引きが苦手で、いいように利用されたって」
没落の原因は、先代当主の政治的手腕の欠如。珍しくもない話だ。善良であることと有能であることは別で、貴族社会ではその差が致命傷になる。
「フィレーネ様は、この家を立て直したいと思ってますか?」
何気なく聞いた。
フィレーネの手が止まった。
「……わからない。立て直すって言っても、どうすればいいか」
「どうすればいいか、じゃなくて。やりたいかどうかです」
「やりたいか……」
フィレーネは本を閉じ、窓の外を見た。修繕が進んだ庭。
雑草を抜いた花壇。まだまだ手付かずの場所のほうが多いが、以前とは別の場所のように明るくなった景色。
「お父様とお母様が好きだった場所なの、ここ。お母様はよく庭で絵を描いてた。お父様は書斎で本を読んで、夕方になると二人で庭のベンチに座って」
「……いい思い出ですね」
「うん。だから……なくしたくない。でも、わたしにそんな力があるかどうか」
「それは、これから調べればいいのです」
フィレーネが怪訝な顔をした。
「調べる?」
「フィレーネ様がどんな力を持ってるか。まだ誰もちゃんと調べてないでしょう」
十二歳。人間の子供としては、何にでもなれる年齢だ。
可能性の塊。焼く前の粘土。前世風に言えばキャリアの方向性を定める前の新入社員。
上司として──いや、使用人としてだ。使用人として、雇い主の潜在能力を把握しておくのは当然の業務。
「明日から、少し勉強してみませんか?」
「勉強って何を?」
「まず算術。家の帳簿を見たけど、帳簿のつけ方がめちゃくちゃでした。先代からの問題だと思うけど、収支を正確に把握できてないと何も始まらない」
「算術……苦手なんだけど」
「大丈夫。教えるのは得意ですから」
この世界の算術がどの程度のレベルかはまだ把握しきれていないが……ハイエルフの脳味噌の回転と前世の知識があれば大丈夫だろう。
翌日から午前は屋敷の作業、午後はフィレーネの勉強という日課が始まった。
教材は書斎から引っ張り出した帳簿と地図。実学だ。机上の空論ではなく、クラウティア家の実際の財務状況を題材にする。
「ここ。去年の支出。薪の購入費が月によって三倍も違うのはなぜだと思います?」
「えっと……冬は薪をたくさん使うから?」
「それもあるけど、単価を見てください。冬の単価をね」
「あ、本当だ。なんでこんな高いの?」
「それを考えるのが勉強です」
フィレーネは眉間に皺を寄せて帳簿を睨みつけた。この子は考え込むと、唇をきゅっと尖らせる癖がある。
「薪は冬場に値上げする?」
「もう少し。何故か、を考えましょう」
「冬は需要が増えるから、足元を見られた?」
「正解です。じゃあ、どうすればよかったでしょうか?」
「夏のうちにまとめて買っておく」
「百点」
フィレーネが目を丸くした。正解できると思っていなかったのだろう。
フィレーネには素地がある。数字を読む力というより、数字の裏にある理由を考えようとする思考回路。
商才と言い換えてもいい。磨けば光る種類の能力だ。
苦手だと思い込んでいるのは教える人間がいなかったからだ。才能は引き出す者がいなければ一生埋もれたままになる。
前世でも同じだった。新入社員の中に、明らかに素質があるのに自信がなくて力を発揮できない子がいた。
上司が気づかない。先輩も気づかない。本人も気づかない。
だから、気づかせるのは周囲の仕事だ。
「次。この地図を見てください。クラウティア家の領地の位置。ベルデの街、街道、森……じゃあここは?」
「川かなぁ」
「そう。この川は、どこに繋がってるでしょう?」
「えっと……王都のほうに?」
「うん。水運が使えるってことです。この領地、立地だけ見れば悪くないんですよ」
フィレーネが地図から顔を上げた。瞳に初めて見る光が灯っている。
午後の勉強を終えて、夕食の準備に取りかかる。
今日はフィレーネが主導で僕は横で見ているだけだ。もう簡単な煮込み料理なら一人で作れる。手際は初めて会ったとは比べものにならない。
「リアンくーん!ご飯できたよー!」
ことこと鍋が鳴る。夕暮れの台所に、いい匂いが広がる。
──この景色を、僕はたぶん何千年も覚えているのだろう。
フィレーネはいつか老いて、この世を去る。それは変えようのない事実だ。
この匂いも、この声も、夕日に照らされた横顔もすべて有限のもの。
でも、僕の記憶の中では永遠になる。
それがいいことなのか残酷なことなのか、今の僕にはまだわからない。
「リアンくん、食べてみて!」
差し出されたスプーンを受け取る。
「おいしいです」
「ほんと?」
「でも、本当は使用人の僕が料理作らないといけないんですけど」
「やだ。私も料理したいの!楽しいから!」
わがままを覚え始めた。いい傾向だ。人に甘えることは、信頼の第一歩だから。
「じゃあ今まで通り交代制です。一日おき」
「約束ね」
「はいはい」
一日おきの約束。人間にとっては何気ない取り決め。僕にとっては、有限の日々を数える目盛りのひとつ。
窓の外で最初の星が光った。
人間の世界の夜は、ちゃんと暗い。アエテルヌムにはなかった闇。
闇があるから、星が光る。
──完璧じゃない世界は、やっぱり美しい。




