第五話 人間の一日は驚くほど短い
クラウティア家での生活が始まって三日が経った。
たった三日。されど三日。
アエテルヌムでは瞬きほどの時間だが、人間の世界ではこの三日で驚くほど多くのことが起きる。
屋敷の主要部分を清掃した。
壊れた蝶番を直し、詰まった排水溝を掃除し玄関の門扉の錆を落とした。
二階の廊下の雨染みの原因を突き止めて屋根裏に上がり、割れた瓦を三枚差し替えた。
もちろん、人目のないところでは魔術を併用している。
フィレーネの前では器用な子供の範囲内で立ち回り、彼女が寝た後や離れている間に本気を出す。このバランス感覚が案外難しい。
「リアンくん、朝ごはんできたよ」
台所からフィレーネの声が聞こえた。
そう。三日目にして、ひとつ変化が起きていた。
フィレーネが、自分から料理をすると言い出したのだ。
理由は簡単。僕が作る料理を見ていて「わたしも覚えたい」と言ったから。
今まではどうしてたのかと言うと……今までは食材を適当に似たり焼いたりしてるだけだったらしい。
どこの蛮族だ。
僕がいなくなった後のことを考えれば、彼女自身が作れるようになったほうがいい。
(僕がいなくなった後……か)
まだ三日しか経っていないのに、もうそんなことを考えている。
バカだな、僕は。
台所に入るとフィレーネがおたまを片手に鍋の前に立っていた。
昨日教えた野菜スープ。材料を切って、水から煮て、塩で味を整える。手順はシンプルだ。
「味見して」
差し出されたおたまを受け取り、一口。
「はい」
「どう?」
「薄いです」
「えっ」
「塩がもう少し必要。あと、煮込みが足りないかな。野菜の芯がまだ硬いですね」
フィレーネの肩が落ちた。
「昨日リアンくんが作ったのと同じようにやったのに」
「同じようにやっても、火加減で全然変わりますから。竈の薪の量、昨日より少なくないですか?」
「……あ」
フィレーネが竈を覗き込む。確かに火が弱い。
「薪、足しますね」
「わたしがやる!」
フィレーネが薪を一本掴んで竈に押し込んだ。手つきは危なっかしいが、慣れてないから仕方がない。
「十分くらい煮込んで、もう一回味見してみて」
「うん」
フィレーネが鍋の前に陣取る。おたまを握る細い手は白くて、指先にはまだ包丁に慣れていない浅い切り傷がふたつ。
僕なら魔術で一瞬で治せる。
でも、治さなかった。
傷は学びの証だ。治してしまったら彼女は包丁の怖さを覚えない。
人間は痛みから学ぶ。永遠の体を持つ僕には、もう得られないものだ。
「リアンくん、屋根、直してくれたでしょ。昨日の雨、寝室に雨漏りしなかった」
「よかったです」
「ありがとう」
「……仕事ですから」
「それでも」
フィレーネが振り返った。まっすぐこちらを見ている。
「嬉しかったの。雨が降るたびに桶を並べなくてよくなったんだって思ったら」
「……」
雨が降るたびに、一人で桶を並べていたのか。
こんな子供が。
「……次は西側の窓を直します。板で塞いだままだと冬がきつい」
「冬までいてくれるの?」
また、この聞き方だ。確認するような、恐る恐るの声。
「いますよ。冬どころか、当分は」
「当分って、どのくらい?」
どのくらい。
「……」
僕の当分は百年かもしれないし、千年かもしれない。
でもフィレーネの人生は、長くて七十年か八十年。僕にとっての当分は、彼女にとっての一生だ。
「フィレーネ様が困らなくなるまで」
曖昧な答えだった。でも、嘘ではない。この子が一人で立てるようになるまで。それがいつかは、まだわからない。
「変な約束」
「変ですかね?」
「うん。でも、いい」
フィレーネがかすかに笑った。出会った日より少しだけ自然な、小さな笑み。
鍋がことことと音を立てている。湯気が台所を温かく満たし、野菜の素朴な香りが広がる。
穏やかな日だ。
こういう朝が、この先いくつ続くのだろう。
百回? 千回? 一万回?
僕にとっては、どれも大した数字じゃない。
──でもフィレーネにとって朝は有限だ。
彼女の人生に朝は、せいぜい数万回ほどしか来ない。そのうちの一回を今、僕と過ごしている。
「味見してみました?」
「あ、忘れてた」
フィレーネがおたまでスープを掬い、ふうふうと冷ましてから口に運ぶ。
「……おいしい」
「ほら。煮込めば変わるででしょう」
「すごい。わたしにも作れた」
大したスープじゃない。塩と野菜を煮ただけだ。
でもフィレーネの顔は王宮の晩餐会で最高の一皿を出されたみたいに輝いていた。
「明日はパンも焼いてみますか?」
「焼けるかな」
「教えますよ。こねるのは少し力がいるけど」
「やってみたい!」
即答だった。三日前の少し怯えた様子とは違う。
人間の変化は早い。三日でこれだ。三ヶ月後、三年後には、どうなっているのか。
楽しみだと思う自分と、それを少し怖いと思う自分がいる。変化が早いということは、終わりも早いということだから。
(──やめよう。百年先のことを今考えても仕方ない)
それはハイエルフの悪癖だ。アエテルヌムの同胞たちと同じ、結論のでない思索に溺れる愚行。僕はあれが嫌で出てきたんだ。
今は目の前の一日を生きればいい。
人間のように。
「フィレーネ様、食べ終わったら庭に出ましょう」
「庭?」
「花壇。少し手を入れたいなって」
優先度最下位のはずだった花壇。初日に窓から見た、雑草の中の小さな青い花に微笑むフィレーネの横顔がどうしても頭から消えなかった。
「手を入れるって……お花、植えるの?」
「まずは雑草を抜くところからです。土が生きてれば、花はそのうち咲くので」
「……やりたい!」
食事を済ませ、庭に出た。
秋の朝の空気は少し冷たくて、肌に心地いい。アエテルヌムにはなかった季節というもの。
温度の変化、光の角度、風の匂い。全部が毎日少しずつ違う。
永遠に同じ空の下で過ごした二百年に比べれば、なんて贅沢な世界なんだろう。
花壇の前にしゃがみ込み、雑草を一本抜いた。フィレーネも隣に屈んで、見よう見まねで草を引っ張る。
「根っこごと抜かないと、またすぐ生えてきますよ」
「こう?」
「もうちょっと深く掴んで……そうそう」
ぶちっ、と小気味よい音がして、雑草が根ごと抜けた。
「抜けた!」
フィレーネが草を掲げて笑った。
泥だらけの手でドレスの裾も土がついて、お世辞にも貴族の令嬢らしい姿ではなかったけれど。
でも、今の笑顔は三日間で一番明るかった。
僕も手を動かしながら、ふと思った。
この花壇が綺麗になったら、次は何を植えようか。
季節の花がいい。春に咲いて、夏に茂って、秋に色づいて、冬に眠るような花。
永遠に咲き続ける花じゃなくて、ちゃんと終わりがある花。
だってそのほうが──
「リアンくん、この草は抜いていい?」
「それは雑草じゃないですよ。ラベンダーの若芽です」
「え、これお花なの?」
「来年の春には紫の花が咲くと思います。多分」
「楽しみ」
来年の春。
人間にとっては少し先の未来。僕にとっては瞬きの間。
でもフィレーネが楽しみと言うなら、その瞬きを大事にしよう。
雑草の山が少しずつ大きくなっていく。花壇の土が、黒々とした素顔を見せ始める。
土は生きていた。まだ栄養が残っている。この分なら手を入れれば十分に再生する。
「疲れてませんか?」
「平気。こういうの、初めてだけど楽しい」
「泥だらけですけどね」
「いいの。ドレスはどうせこれしかないし」
さらりと放たれた言葉に、少し胸が詰まった。
一着しかないドレスを泥だらけにして、花壇の雑草を抜いて楽しいと笑える子だ。
この子は強い。
本人はたぶん気づいていないけれど。
「フィレーネ様」
「なに?」
「……いや、なんでもありません。そっちの隅の草も抜いちゃいましょう」
言いかけてやめた。
「強いですね」なんて今言う言葉じゃない。
この子に必要なのは評価じゃなくて、隣で一緒に草を抜いてくれる誰かだ。
太陽が中天に昇る頃、花壇の半分が綺麗になった。残りは明日。
「ふぅ……明日もやろうね」
「お望みとあれば」
明日。
人間にとっての明日は、必ず来るとは限らない。でも、だからこそ明日という約束には重みがある。
僕の明日は無限にある。でもフィレーネとの明日は有限だ。
その有限を、一日ずつ大事に使おう。
なんて殊勝なことを考えていたら、西の空から急速に雲が広がってきた。
「雨が……」
「うそ、洗濯物!」
フィレーネが慌てて裏庭に駆けていく。今朝干したばかりのシーツだ。
僕はこっそり指先にマナを灯して、雨雲の進行速度を計算した。あと四分で降り出す。
フィレーネの足なら裏庭まで一分、シーツを取り込むのに二分、戻るのに一分。ぎりぎりだ。
「フィレーネ様、走って!」
「走ってるー!」
藤色のドレスの裾を両手で掴んで走る少女の後ろ姿は、最初に抱いた儚い令嬢のイメージからはかけ離れていた。
……うん。僕の見立て通りだ。この子は、きっと強くなる。
ぽつり、と頬に一滴落ちた。
見上げると灰色の雲が空を覆い始めていた。
雨。
季節が動いている。
「リアンくーん! 手伝ってー!」
「はいはい」
僕は小走りに裏庭へ向かった。
永遠の時間を持つ身で、洗濯物を取り込むために走る。たぶんアエテルヌムの同胞が見たら理解できないだろう。
でも悪くない。
こういう忙しさは……悪くない。




