第四話 この屋敷、思ったより重症だった
フィレーネに案内された屋敷は外観から想像した以上に広かった。
そのすべてが、程度の差こそあれ荒れていた。
「この部屋は?」
「お父様の書斎だったところ。三年くらい開けてないかも」
フィレーネがドアノブに手をかけると、ノブごと外れた。彼女は慣れた手つきでそれを嵌め直す。日常的に起きている現象らしい。
書斎の中は埃というより砂塵に近い堆積物が家具を覆っていた。
机の上にはインク壷が倒れたまま放置されており、黒い染みが木の天板に深く沁み込んでいる。
「お父様が亡くなったのはもうずいぶん前。お母様はその前に」
フィレーネは淡々と言った。感情を押し殺しているのではなく何度も口にして、すでに言葉が擦り切れてしまったような平坦さだ。
「それからは?」
「使用人が少しずつ辞めていって。最後にベティおばさんが残ってくれてたんだけど、半年前に腰を悪くして」
十二歳の少女が半年間この屋敷で一人。
僕は黙って次の部屋に進んだ。感傷に浸っている場合じゃない。まずは現状把握だ。
一階の廊下を端から端まで歩き、二階も同様に確認した。
脳内で屋敷の見取り図が完成していく。ハイエルフの完全記憶が部屋ごとの損傷状況を正確に記録していく。
結果。
すぐに対処が必要な箇所──三十七。
早めに手を入れるべき箇所──八十四。
長期的に修繕が必要な箇所──数えるのをやめた。
「はぁ」
「だ、だめ……かな」
僕のため息を聞いて、フィレーネが不安そうに眉を下げた。見捨てられると思ったのかもしれない。
「だめじゃないですよ。ため息は、段取りを考えてただけですから」
「段取り?」
「やることが多い時は、優先順位をつけるんです。前の職場で学んだので」
「職場……?」
前の職場。ブラック企業。地獄のようなプロジェクト管理の日々が、異世界の没落貴族の屋敷で役に立つ。
人生何が起きるかわからない。
「まず、今日中にやること」
僕は指を折った。
「台所の清掃。フィレーネ様の寝室の換気と掃除。玄関ホールの埃の除去。この三つ」
「今日中に全部?」
「生活の基盤になる場所からやらないと。汚い台所で作った料理は美味しくないし、埃っぽい部屋で寝たら体に悪い」
フィレーネがぱちぱちと瞬きをした。
「リアンくん、本当に子供?」
「子供ですよ。ちょっとしっかりしてるだけ」
子供でもないし、ちょっとどころではないが、そこは流す。
「僕が掃除してる間、フィレーネ様はお庭にいてください。屋敷中の埃を叩き出すから、中にいると咳が止まらなくなる」
「手伝わなくていいの?」
「今日は見学で大丈夫です」
本音を言えば一人のほうが魔術を使いやすい。人目がなければ効率が段違いだ。
フィレーネを庭に送り出し、僕は台所に戻った。
扉を閉め、周囲に人の気配がないことを確認する。
「……さて」
右手の指を、軽く鳴らした。
パチンという小さな音と共に空気が変わった。
台所全体にマナが薄く広がる。
埃の粒子一つ一つを魔力で捕捉し、空気中から除去。油汚れは分子レベルで分解。
曇った銅鍋は表面の酸化被膜だけを精密に剥離。作業台の木目に染み込んだ汚れは、繊維を傷めないぎりぎりの強度で洗浄。
台所が生まれ変わった。
銅鍋は鏡のように光り、作業台は新品同然の木肌を取り戻している。竈の煤は完全に消え、床の石材は本来の色を取り戻してほのかに艶めいている。
「うん、いい感じ」
天候を操ったり空間を歪めたりできる力を台所の掃除に使う背徳感。
嫌いじゃない。むしろこういう地味な用途にこそ、真価が発揮される気がする。
続いて玄関ホール。
ここは少し面積が広いので指を二回鳴らした。埃が渦を巻いて窓の隙間から外へ排出される。
大理石の床が白い輝きを取り戻し、シャンデリアの硝子が朝日を受けてきらきらと虹を散らした。肖像画の額縁は金箔の光沢が甦り、絵の具の色彩が鮮やかに浮かび上がる。
最後にフィレーネの寝室。
ここは少し丁寧にやった。寝具の繊維に入り込んだ塵を一粒残らず除去し、マットレスの湿気を飛ばし窓を開け放って新鮮な空気を通す。
窓枠の隙間はマナで充填し、隙間風を遮断。カーテンの褪色は……少し迷ったが、不自然にならない程度に色味を補正した。
全作業、約十分。
もちろんフィレーネにはもっと時間がかかったように見せなければならない。子供が十分で完璧に清掃したらさすがに怪しまれる。
僕は適度な時間を潰すために、庭に面した窓辺に腰掛けて外を眺めた。
フィレーネが庭にいた。
雑草だらけの庭の隅、かつて花壇だったらしい区画のそばに立って一本の花を見つめている。
雑草の中から健気に咲いた、名も知らぬ小さな青い花。
彼女はしゃがみこんで、そっと花に触れた。横顔にほんのかすかな微笑みが浮かんでいた。
(あの子、あんな風に笑えるんだ)
当たり前のことだ。
あの花壇、直すか。
……いや。効率的に怠けるための清掃計画から逸脱している。花壇は優先度で言えば最下位だ。生活に直結しない。後回しでいい。
後回しで、いいんだけど。
(昼食の準備をしよう)
あの子にちゃんとしたものを食べさせないと。
これは別に、情が湧いたわけじゃない。使用人として当然の業務だ。雇い主の健康管理、職務の範囲内。
そう自分に言い聞かせながら、僕はエプロンを手に取った。
「……」
前世でも思ったけれど、僕は自分に嘘をつくのが下手かも。




