第三話 社畜の血じゃない。もっと厄介なものが騒いでいる。
「マルコさん、その荷物重くない?僕が運ぼうか」
「お前が持てる重さじゃねぇだろ」
マルコが木箱を担ぎ上げながら、呆れたように笑った。
実はハイエルフの筋力は人間とは比べものにならない。
こんな小さな子供の僕でも、恐らく素手でこの屋敷を解体出来るパワーがある。
どこの怪物だ。でも、よく考えたら僕みたいな子供が木箱を軽々持ったらドン引きされるのが目に見えてるので何もしない方がいいな。
「屋敷、案内するね」
僕はフィレーネの後について、屋敷の奥へと歩き始めた。
廊下もホールと同様に埃が積もっていた。壁にはところどころ雨染みがあり、天井の梁が一ヶ所わずかに歪んでいるのが見える。
窓の外には手入れされていない庭が広がり、花壇は雑草の海に沈んでいた。
脳内の修繕リストが止めどなく項目を追加していく。
蝶番の注油。廊下の埃の除去。雨染みの原因調査と屋根の補修。梁の歪みの点検。窓枠の隙間の充填。庭の雑草除去。花壇の土壌改良。排水路の整備。
(やることが多すぎる……)
前世の新規プロジェクト立ち上げ初日を思い出す。何もかもがゼロで、何から手をつけていいかわからなくて、でも締め切りだけは確実に迫ってくる悍ましい感覚。
違うのは今回は締め切りがないこと。僕には無限の時間がある。急ぐ必要はどこにもない。
……ないのだけれど。
「フィレーネ様、台所はこの先ですか?」
「うん。突き当たりを右に……あ、左の扉は開けないでね。床が抜けてるから」
この屋敷、想像以上に重症だ。
台所に辿り着いた。
広い。貴族の屋敷にふさわしい規模の厨房だ。
大きな竈が二つ、作業台が三つ、壁一面の棚には往時を偲ばせる銅鍋や陶器が並んでいる。
ただし、使われている形跡があるのは竈一つと作業台一つだけ。残りは埃を被っている。棚の食器も半分以上が曇っているか欠けていた。
フィレーネが竈の前に立った。
「いつもここで、自分でご飯を作ってるの。マルコさんが届けてくれた食材で」
「料理は得意ですか?」
「……」
フィレーネが目を逸らした。沈黙が答えだ。
「スープは作れるよ。……たぶん」
「たぶん」
「味は……その、あんまり保証できないけど」
十二、三歳の少女が、没落した屋敷で一人、覚束ない手つきでスープを作っている光景が脳裏に浮かんだ。
──ああ、だめだ。
社畜の血じゃない。もっと厄介なものが騒いでいる。
僕の中の何かお節介な部分。前世でも後輩が困っていると放っておけなくて、結局自分の仕事が倍に膨れ上がった悪癖。
「フィレーネ様。今日のお昼は、僕が作ってもいいですか」
「え?」
「腕試しをさせてほしくて」
マルコが届けてくれた食材を確認する。小麦粉、塩漬け肉、干し野菜、チーズ、卵、ハーブ類。質素だが、工夫の余地はある。
フィレーネは少し驚いた顔をしていた。この子は驚くと瞳がほんの少しだけ大きくなる。
それ以外の表情の変化が極端に乏しい。感情の表出に慣れていないのだ。長い間、感情を向ける相手がいなかったのだから無理もない。
「……うん。お願いしてもいい?」
「任せてください」
マルコが壁際に寄りかかって腕を組んだ。「見物だな」という顔をしている。
僕は袖を捲り上げ、竈に火を入れた。
さて。知識を総動員して……この設備と食材で何が作れるか。
前世の料理知識、アエテルヌムで暇つぶしに構築した食材学の理論体系、そしてこの身体に宿るハイエルフの感覚。
温度はマナで精密に制御できる。素材の状態は嗅覚と魔力感知で完璧に把握可能。
手が動き始めた。
塩漬け肉を薄く切り、干し野菜を戻す。小麦粉を篩にかけ、卵と合わせる。ハーブの葉を指先で揉み、香りを確認する。竈の火加減を──指先から放った微量のマナで、炎の温度を一度単位で調整した。
傍目には子供が普通に料理しているようにしか見えないはずだ。
二十分後。
皿が並んだ。
干し野菜と塩漬け肉のポタージュ。卵とチーズのガレット。ハーブを練り込んだ焼きたてのパン。
どれも素朴な田舎料理だ。食材が食材なので宮廷料理のような華やかさは望むべくもない。
だが素材の旨味を最大限に引き出し、香りと食感のバランスを緻密に設計した理論上は完璧な一皿。
フィレーネが目を丸くしていた。マルコも口を半開きにしている。
「これ、本当にあの食材で作ったの?」
「はい」
「俺の分まで作ってくれたのか」
マルコがそう言った。まぁ、彼だけ除け者にするのは可哀そうだし。
「いい匂い……」
フィレーネがスプーンを手に取った。ポタージュをひと掬い、おそるおそる口に運ぶ。
少女の灰青色の瞳が、大きく見開かれた。
「おい、しい……」
その声は、先ほどまでの消え入りそうな響きとは違っていた。小さいけれど確かな感情が乗っていた。
驚きと、喜びと、そして──ほんの少しの悲しみ。
美味しいものを食べて悲しくなる。その感覚を僕は知っている。
一人で過ごす時間が長すぎると、誰かの優しさに触れたとき、嬉しさと同時にこれまでの孤独が一気に押し寄せてくることがある。
前世の僕も、風邪で寝込んだ時に同僚が差し入れてくれたコンビニのゼリーで危うく泣きかけたことがあった。
フィレーネの目の縁がうっすらと赤くなっている。
でも彼女は泣かなかった。唇を引き結んで黙々とスプーンを動かし続けた。一口一口を大切そうに。
マルコがガレットを齧り、無言で何度も頷いている。
「坊主。お前、何者だ」
「ただのエルフの子供だよ」
「子供がこんな飯作るかよ……」
そう言いながらパンをちぎり、ポタージュに浸して頬張っている。批判と食欲が矛盾しているが、まあいい。
フィレーネが最後の一滴まで綺麗に食べ終わった。空になった皿を見つめ、それから僕を見て。
「リアンくん」
「はい」
「ここに、いてくれるの?」
信じられないことを確認するような声音だった。
こういう聞き方をする子は何度も裏切られてきた子だ。
僕にはわかる。期待して、失望して、また期待して──その繰り返しに疲れ果てた人間の目だ。十二歳の子供がする目じゃない。
僕は答えた。
「いますよ。少なくとも、この屋敷が綺麗になるまでは」
嘘はつかない。永遠にいるとは約束できない。約束すべきでもない。
でも……今は、ここにいる。
フィレーネが小さく頷いた。
「……よろしくね、リアンくん」
「はい。よろしくお願いします、フィレーネ様」
マルコが満足そうに立ち上がった。
「よし。俺はそろそろ戻るよ。フィレーネ様、この坊主は当たりだと思いますぜ」
「マルコさん、自分で拾っておいてその言い方はどうなの」
「はは、確かに。じゃあな、坊主。何かあったらベルデに来い」
マルコの荷馬車が去って行く。
残されたのは、ぼろぼろの屋敷と一人の少女と一人のハイエルフ。
僕は改めて屋敷を見渡した。
やることは山ほどある。本当に山ほど。
前世のブラック企業で叩き込まれたプロジェクト管理の知識が、ここにきてまさかの活躍を見せようとしている。
過労死した経験すら無駄にはならないとは、人生……いや、ハイエルフ生は何があるかわからないものだ。
「フィレーネ様」
「なに?」
「まず最初に、この屋敷の全部屋を見せてもらってもいいですか。状態を把握したいので」
「全部屋? 結構多いけど……」
「大丈夫。覚えるのは得意なので」
得意というか、ハイエルフの記憶力は完全記憶に近い。一度見たものは忘れない。
忘れないからこそ、知識を溜め込めるのだ。便利ではあるが、忘れたいことも忘れられないという副作用がある。
まあ、今はまだ忘れたいことなんてないけれど。いや、故郷の退屈さは忘れたいけど。
「じゃあ、こっち。一階から案内するね」
フィレーネが前を歩き始めた。
さて。効率的に怠けるための第一歩は、徹底的に現状を把握することだ。
僕は密かにため息をついた。
スローライフ。
うん。始める前から、なんだか遠のいていく気がする。




