第二話 没落というか、これはもう廃墟では
翌朝、マルコの荷馬車に揺られて北へ向かった。
マルコの奥さん……ロザさんという恰幅のいい女性は、僕を見るなり「まあまあまあ!」と三回言って山盛りの朝食を出してくれた。
パンとチーズと薄いスープ。素朴だが丁寧に作られた味だった。
ロザさんがもっと食べなさいと言うのを三回断り、四回目で諦めて追加のパンを受け取った。
善良な人間の押しの強さに、ハイエルフの精神は無力だった。
街道を外れ未舗装の脇道を北へ二十分ほど。
木立の向こうにそれは現れた。
「あれが、クラウティア家のお屋敷?」
「ああ。まあ、昔はもうちょっとましだったんだがな」
マルコが気まずそうに頬を掻いた。その気持ちはよくわかる。
屋敷と呼ぶには相当な好意が必要だった。
石造りの二階建て。それ自体は立派なのだが壁の漆喰は半分以上が剥がれ落ち、下地の石積みが剥き出しになっている。
屋根瓦はあちこちが欠けている。正面玄関に続く石畳は雑草に侵食され、どこが道でどこが庭なのか判然としない。
門柱は片方が傾いており、鉄製の門扉は錆びついて半開きのまま固まっていた。
かろうじてかつては立派だったのだろうと推測できる程度の威厳が建物の骨格に残っている。
逆に言えば……骨格以外には何も残っていなかった。
「没落っていうか……これ、人住んでるの?」
「住んでる。フィレーネ様が一人でな」
「一人……」
「最後の一人が半年前に辞めたって話だ。給金が払えなくなってな」
荷馬車が門の前で停まった。マルコが荷台から木箱を一つ下ろし始める。
「月に一度、最低限の食料と日用品を届けてるんだ。代金は……まあ、クラウティア家に残った土地の収益から細々とな。それもいつまで持つかわからんが」
マルコの声のトーンが少し沈んだ。単なる配達人以上の感情が滲んでいた。
「マルコさん、前からこの家と付き合いがあるの?」
「俺のじいさんの代からな。クラウティア家が栄えてた頃は、うちはここの御用商人だった。今じゃこうして月一の配達くらいしかできんが」
義理堅い人だ。
商売としてはとっくに割に合わないだろうに、三代に渡る縁を律儀に守っている。こういう人間は嫌いじゃない。
マルコが木箱を担いで門をくぐる。僕もその後に続いた。
庭を横切る間に、さらに屋敷の状態が把握できた。
東側の壁に蔦が絡みついている。西側の窓は三つのうち二つが板で塞がれている。ガラスが割れたのだろう。
排水溝は落ち葉で詰まっており、直近の雨で溜まったらしい水が軒下に水溜まりを作っていた。
──僕の中の社畜精神が、ざわざわと騒ぎ始めていた。
修繕箇所のリストが脳内で自動生成されていく。
壁の漆喰の補修、屋根瓦の交換、蔦の除去、排水溝の清掃、門扉の錆び落とし、石畳の雑草除去、窓ガラスの修復──外観だけでこれだ。
内部はどうなっているのか。想像するのも怖い。
(やめろ。僕は今日、就職活動に来たんだ。職場の改善提案をしに来たわけじゃない)
マルコが玄関の扉を叩いた。これだけは頑丈なまま残っている。
「フィレーネ様! ベルデのマルコです! 今月の届け物を持ってきやした!」
沈黙。
もう一度叩く。
「フィレーネ様ー?」
……沈黙。
マルコが困った顔で僕を見下ろした。
「寝てんのかね。いつもはすぐ出てくるんだが」
マルコが扉を押し開けた。鍵はかかっていなかった。貴族の屋敷だというのに、不用心だ。
蝶番が盛大に軋む。油を差していないのだろう。これも修繕リストに追加──だから、やめろ。
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、僕は立ち止まった。
埃だ。
空気中に漂う微細な粒子が差し込む朝日に照らされて、きらきらと舞っている。幻想的と言えなくもないが衛生的には最悪だ。
床は大理石。かつては白かったのだろうの上に、数ヶ月分と思しき埃が均一に積もっている。
壁には先代、先々代のものらしき肖像画が掛かっているが額縁の金箔はくすみ、絵の表面も埃で曇っていた。
広い。立派。だが、すべてが過去形だ……。
「フィレーネ様ー」
マルコが声を張り上げた。ホールに反響した声が、屋敷の奥へ吸い込まれていく。
コツ、コツ。
微かな足音。二階の廊下からゆっくりと降りてくる気配。
階段の上に人影が現れた。
「!」
最初に目に入ったのは、色あせた藤色のドレスだった。仕立ては上等だが袖口がほつれ、裾は少し擦り切れている。何年も同じ一着を着続けたのだろう。
次に顔。
儚い、と思った。
年の頃は十二、三。まだ大人と子供の境界にいる少女だった。
亜麻色の髪は手入れこそされているが艶がなく、白い肌は陽に当たっていないせいか透けるように青白い。
痩せすぎではないが、明らかに栄養が足りていない線の細さ。
そして、大きな灰青色の瞳は──
怯えていた。
マルコの隣にいる見知らぬ僕を見て、少女は階段の途中で足を止めた。細い指が手すりを握りしめる。
「マルコ、さん。その子は……?」
声も細かった。消え入りそうな、というのはこういう声を指すのだろう。
「ああ、フィレーネ様。こいつは昨日、街道で拾った……いや、出会ったエルフの坊主でして。行く当てがないっていうもんだから」
マルコが頭を掻きながら説明する。拾ったを言い直したのは律儀だと思ったが、実態としては拾ったで合っている。
少女……フィレーネの視線が僕に向いた。怯えの中にかすかな好奇心が混じっている。
ここだ。第一印象が大事。
僕は背筋を正し、右手を胸に当てて軽く頭を下げた。
前世のビジネスマナー研修で叩き込まれたお辞儀の角度を、この世界風にアレンジした所作だ。
「初めまして。リアンといいます。エルフの迷子……じゃなくて旅の者です。もしよければ、お屋敷のお手伝いをさせていただけませんか? お給金は、住む場所と食事だけで構いません」
フィレーネが目を瞬かせた。少女の視線が僕の顔から足元まで一往復する。
「手伝いって……あなた、まだ小さいのに?」
来た。予想通りの反応だ。
ていうかキミも小さいけどね。
「見た目はこうですけど、いろいろできます。掃除、洗濯、料理、庭仕事。それに」
僕は玄関ホールをぐるりと見回した。埃の積もった床、曇った窓、くすんだ肖像画。
「このお屋敷、手を入れればまだまだ綺麗になると思いますよ」
社交辞令ではなかった。建物の構造自体はしっかりしている。
石積みの質は高いし、間取りも合理的だ。百年、二百年と住み継がれてきた家の持つ本物の堅牢さがある。
今の荒廃は、ひとえに人手不足の結果だ。磨けば確実に光る。
……あ。だめだ。完全に仕事として見始めている。社畜の血が騒いでいる。
僕はスローライフがしたいんであって屋敷のリノベーション計画を立てに来たんじゃないのに……。
「……」
フィレーネは黙って僕を見つめていた。何か考え込むように、細い眉をかすかに寄せて。
それから小さく呟いた。
「エルフの男の子が、うちで働きたいって言うの初めて」
そりゃそうだろう。エルフが没落貴族の下働きに志願するなんて僕だってこの世界では前代未聞だと思う。
まぁ僕はエルフじゃなくてハイエルフだけど。
「変ですよね。ごめんなさい、急にこんなこと言って」
「ううん」
フィレーネが首を横に振った。瞳が少しだけ和らいだ気がした。
「変だけど……嬉しいかも」
それは彼女の偽りない本音のように聞こえた。
隣でマルコが腕を組んでいる。何か言いたそうだが口を挟まないでいてくれているのは、この場の空気を読んでのことだろう。
フィレーネが一歩、階段を降りた。
「お給金、本当に出せないの。この家にはもう、お金がほとんどなくて」
「大丈夫。住むところと、一日一食もらえれば」
「一食でいいの?」
「僕、少食なので」
少食というか、食べなくても死なないのだけれど。
「じゃあ……」
フィレーネが両手を胸の前で組んだ。何かを決心するように、ぎゅっと指を絡ませて。
「お願い、します。リアン、くん」
くん付け。悪い響きじゃなかった。
「よろしくお願いします、フィレーネ様」
こうして僕は、クラウティア家のおそらく史上最年少かつ、最古参になるであろう使用人として採用された。
給金は住居と食事のみ。雇用契約書なし。労働基準法なし。福利厚生なし。
前世のブラック企業と条件だけ見れば大差ない。いや、それより悪い。
だが、決定的に違うことがある。
(ここには、過労死するほどの仕事量はない。のんびりできそうだ)
──そう思っていた時期が、僕にもあった。
と、未来の僕ならきっとそう言うだろう。
でもそれは、もう少し先の話。




