第十二話 それは僕の領分だ
異変は三日後の朝に起きた。
「リアンくん!森が……!」
ミーナが息を切らして駆け込んできた。普段は穏やかな彼女の顔が蒼白だった。
嫌な予感がして僕は走った。フィレーネも後を追ってくる。
森の入口に着いて立ち尽くした。
焼けていた。
森の入口付近、木々が黒く焦げている。幹は炭化し、下草は灰になり、地面には焼け焦げた獣の死骸が転がっていた。
ただし奥までは燃えていない。入口付近だけだ。意図的に範囲を絞っている。
警告だ。
「そんな……」
フィレーネが口元を手で覆った。焦げた木の匂いが鼻を刺す。
「星露草は……?」
「群生地はもっと奥だから、たぶん無事です。確認してきます」
「わたしも——」
「フィレーネ様は屋敷に戻ってください。ミーナさんと一緒に」
強い口調で言った。フィレーネが一瞬怯んだが、頷いてくれた。今は素直に従ってくれるほうが助かる。
二人を屋敷に返してから、僕は一人で森の奥に入った。
人目がない。魔力感知を全開にする。
群生地は無事だった。
偶然か、それとも犯人が群生地の正確な位置を知らなかったか。
おそらく後者だ。
焼け跡を調べる。火の出所は三箇所。油を撒いた痕跡。人間の足跡が複数。
間違いない。傭兵たちだ。
僕は足跡の前にしゃがみ込んで土に触れた。残留する微かな体温、靴底の磨耗パターン、歩幅から推定される体格。
三人。全員成人男性。一人は右足を少し引きずっている。
覚えた。
屋敷に戻ると、フィレーネが玄関で待っていた。
「どうだった?」
「群生地は無事でした。入口だけですね」
「よかった……。でも、これって」
「うん。意図的な放火です」
フィレーネの拳が震えた。怒りだ。恐怖ではなく。
「伯爵家が……」
「証拠はありません。伯爵家が直接やったとは限らないし、仮にそうだとしても証明するのは難しい。向こうもそれをわかってやってます」
「じゃあ、泣き寝入りするしかないの?」
「いいえ。ただ、正面からぶつかっても不利なだけです。別の方法を考えましょう」
僕は書斎に入り、紙を広げた。
状況を整理する。
伯爵家は書面での交渉が通じないと判断し、物理的な圧力に切り替えてきた。
ただし、あくまで証拠の残らない嫌がらせの段階だ。直接的な暴力には至っていない。まだ、こちらが折れることを期待しているフェーズ。
次に来るのは何だ。
嫌がらせのエスカレート。商会への圧力。取引先の切り崩し──。
「リアンくん、マルコさんが来てくれた」
フィレーネの声で顔を上げると、マルコが大股で書斎に入ってきた。顔が険しい。
「坊主、聞いたか。森のこと」
「はい、見てきました」
「それだけじゃねぇ。今朝、商会の主人から聞いたんだが——星露草の取引、来月から中断したいってよ」
来た。予想通りだ。
「理由は?」
「諸般の事情だとさ。察しろってことだろう。伯爵家から何か言われたんだ、あの商会」
商会の主人も所詮は小さな街の商人だ。伯爵家に睨まれたら、一介の商会が逆らえるはずがない。
フィレーネの顔から血の気が引いた。収入源を絶たれることの意味を、この三ヶ月で嫌というほど理解しているからだ。
「……振り出しに戻っちゃう」
「戻らせませんよ」
僕は立ち上がった。
「ベルデの商会がだめなら、別の売り先を探します。エリーゼさんが元王都の薬師組合でしたよね。そのツテを辿れば、伯爵家の手が届かない取引先に繋がるかもしれない」
「王都……?」
「遠いけど、星露草の品質なら十分に商談になります。むしろ王都のほうが単価は高いと思われます」
マルコが腕を組んだ。
「坊主の言う通りだ。だが、王都との取引となると、輸送の問題がある。この辺りの街道は……」
「伯爵家の領地を通る、でしょう?」
「……ああ」
陸路は伯爵家に押さえられている。だけど……水路は大丈夫だ。これは使える。だが、船がない。
一手ずつ塞がれている。伯爵家のやり方は粗暴だが確実だ。地方の小貴族を締め上げるのに慣れている。
「マルコさん、一つ聞いていいですか?伯爵家に逆らった人間は、今までどうなったんです?」
マルコの表情が沈んだ。
「……この辺りの小領主で、三年前に一家。伯爵家との取引を断ったら半年で商売が干上がって、最後は領地を二束三文で売るはめになった」
「暴力は?」
「表向きはない。裏では知らんが。少なくとも証拠が残るようなことはしねぇ。頭がいいんだよ、あの伯爵は」
なるほど。経済的な締め付けで合法的に追い詰める手法か。真綿で首を絞めるタイプ。前世のブラック企業の取引先にもいたな、こういうの。
「マルコさん、ありがとう。助かりました」
「礼なんざいらねぇ。気をつけろよ、坊主。フィレーネ様も」
マルコが帰った後、僕は一人で屋根に上がった。
冬の空は低く曇っている。森の方角に、まだ薄い煙が残っていた。
正直に言えば、苛立っていた。
前世の記憶が言っている。こういうやり方は知っている。
権力を持った人間が、持たない人間を圧し潰す構図。合法という皮を被った暴力。
理不尽で、卑怯で、でも巧妙で。
前世ではどうしようもなかった。社畜の僕にはただ耐えるしかなかった。
でも今は違う。
この体には力がある。
指を鳴らせば嵐を呼べる。空間を歪めれば伯爵の城を丸ごと消し飛ばせる。ハイエルフの魔術はこの世界の理の外にある。人間の魔術師が束になっても、僕の指先一つに及ばない。
それは傲慢な思考だ。でも事実だ。
──使うか?
使えば全てが解決する。伯爵家など吹けば飛ぶ。
だが、そうしたらフィレーネはどうなる。謎の力で守られた令嬢として生きることになる。自分の力で立ち上がる機会を、永遠に奪うことになる。
それは、僕が一番やりたくないことだ。
……でも。
森を焼かれた。商売を潰された。次は何だ。屋敷への直接的な攻撃か。フィレーネへの危害か。
それだけは許さない。
僕にとっての一線はそこだ。経済的な戦いはフィレーネの領分だ。
交渉も、商売も、政治も。僕はそれを後ろから支える。
だが、フィレーネの身に危険が及ぶなら──
それは僕の領分だ。
使用人として。それ以上の何かとして。
屋根の上で、僕は右手を開いた。小さな子供の掌。ここに、国ひとつ滅ぼせる力が眠っている。
馬鹿げた話だ。
でも、必要なら使う。躊躇しない。
この子の、たった一度きりの人生を守るためなら。
「リアンくーん、屋根の上にいるの? ごはんだよー」
下からフィレーネの声が聞こえた。
「今行きます」
立ち上がり、屋根から軽く飛び降りる。着地の衝撃を魔力で吸収して音もなく地面に降り立つ。
玄関先でフィレーネが待っていた。エプロン姿で、おたまを片手に。
「今日はシチュー。新しいレシピ試してみたの」
「へぇ。楽しみですね」
「ちょっと焦がしたかもしれないけど」
「フィレーネ様の料理で焦げてないことのほうが珍しいので大丈夫ですよ」
「ひどい!」
フィレーネが膨れた顔でおたまを振り上げた。僕は笑いながら屋敷に入る。
台所に漂うシチューの匂い。少し焦げた、不完全な匂い。
完璧じゃないから、温かい。
この温かさを、誰にも壊させない。




