第十一話 春が来る前に
書面を送って二週間。
伯爵家からの返答はなかった。
これは予想の範囲内だ。王家の署名入り証書の写しを突きつけられて、すぐに動けるわけがない。
向こうも法的な対策を練っているはずだ。嵐の前の静けさ、というやつだろう。
その間にもクラウティア家の日常は回っている。
星露草の取引は安定化し、商会との信頼関係も固まってきた。収入も増えて屋敷の修繕も進んでいる。
ベルデの街から通いの使用人を一人雇えるようになった。ミーナという二十代の女性でマルコの紹介だ。よく働く人で、僕の仕事が少し楽になった。
少しだけだが。
「リアンくん、エリーゼさんがきた!」
フィレーネの声で書斎から出ると、玄関にエリーゼが立っていた。
杖をつき、白い息を吐きながら。冬の寒さの中を歩いてきたらしい。
「エリーゼさん、わざわざ来なくても。僕が取りに行ったのに」
「いいんだよ。たまには外の空気を吸わないと骨が錆びる」
エリーゼを応接間に通し、フィレーネが淹れた紅茶を出した。
屋敷の主人が茶を淹れているのは勘弁してほしいが、彼女は自分でやりたいらしい。
温度の微調整は魔術なしでは敵わないが、茶葉の配合に関してはフィレーネ独自の感覚が冴えている。
「いい香りだね。お嬢さん、腕を上げたじゃないか」
「リアンくんに教わったんです」
「ふうん」
エリーゼの目が僕を見た。いつもの鋭い目。この老婆は観察力が並外れている。元王都の薬師は伊達じゃない。
「坊や、少し話がある。お嬢さんも一緒に聞いておくれ」
紅茶を一口飲んでから、エリーゼは声を落とした。
「ベルデの街に、よそ者が来てる」
「よそ者?」
「三人組。傭兵崩れだね。がらの悪い連中が酒場で飲み歩いてる。ここ一週間ほどだ」
僕の中の警戒が一段上がった。
「クラウティア家のことを聞いて回ってるよ。屋敷の場所、住んでる人数、使用人は何人いるか」
フィレーネの顔が強張った。
「伯爵家の……?」
「断定はできない。けど、時期が時期だろう。書面を送った後にこれだ」
エリーゼが紅茶のカップを置いた。
「あたしは薬師だから、政治のことはわからない。でも、胡散臭い連中が嗅ぎ回ってるのは事実だ。気をつけな」
エリーゼが帰った後、フィレーネが不安そうに僕を見た。
「どうしよう」
「どうもありません。今は」
「でも、傭兵って……」
「調べてるだけだです。こっちが騒いだら相手の思う壺です」
落ち着いた声で言ったが、僕の中では別の計算が走っていた。
傭兵三人。伯爵家が直接雇ったのか、仲介者を挟んでいるのか。目的は威嚇か、それとも実力行使の下準備か。
いずれにせよ僕がいる限り物理的な脅威はない。この体に宿る力は人間の傭兵など相手にもならない。
だが、大っぴらには使いたくない。
使えば目立つ。目立てば正体に近づかれる。ハイエルフの存在が知られたら面倒の次元が変わる。伯爵家どころの話ではなくなる。
「フィレーネ様、の辺りにエルフの集落はありますか?」
「エルフ?うーん……確か翠緑の森っていう大きな森があって、そこにエルフたちが住んでるって聞いたことはあるけど」
「この街にエルフが来ることは?」
「リアンくんが初めてだと思う。珍しがられてたし」
つまり僕の正体を見抜ける存在はこの近辺にはいない。多分エルフも僕を「ちょっと変わった同族の子供」としか認識しないだろうけど……万が一ハイエルフだと気づかれると厄介だ。
今の僕はただのエルフの使用人の少年。それが一番都合がいい。
「しばらくは森に入るのはやめましょう」
「うん、わかった」
その夜。
フィレーネが寝静まった後、僕は屋敷の屋根に上がった。
冬の夜空は澄み切っていて、星が痛いほど近い。息を吐くと白く凍る。この小さな体は寒さを感じるが死にはしない。不便と不死は両立する。
屋根の上から森の方角を見た。
「……」
魔力感知を広げる。普段は屋敷の周囲程度に抑えているが、今夜は少しだけ範囲を広げた。
──いた。
三つの生命反応。焚き火の熱源。人間の成人男性。武装あり。
野営している。この寒さの中で。余程の理由がなければ、こんな場所でわざわざ夜を明かしたりしない。
距離を測り、武装の規模を推定する。剣に弓……。軽装の斥候型だ。戦闘が目的というより監視か偵察。
僕は指先に灯したマナを消して、静かに息を吐いた。
仕掛けてくるなら、来ればいい。
子供の姿をした化け物に喧嘩を売るというのが、どういうことか。
「……」
そこまで考えて、自分の思考の温度が下がっていることに気づいた。
まずい。これはハイエルフの思考だ。人間を下位存在として計算する、冷たい合理性。転生前の僕にはなかったもの。
二百年の時間とこの体に宿った力が、少しずつ僕の感覚を変えている。
あの傭兵たちにも生活がある。誰かに雇われて、金のために働いている。前世の僕と同じ、ただの労働者だ。
殺す必要はない。必要なのは、この家とフィレーネを守ること。それだけだ。
「……寒いな」
誰に言うでもなく呟いて、屋根から降りた。
台所で湯を沸かし一人分の紅茶を淹れる。魔術で温度を完璧に調整した、誰にも出さない自分だけの一杯。
前世の深夜のカップラーメンに相当する、ささやかな慰め。
窓の外の闇を見つめた。
星露草の群生地を守らなければ。屋敷を守らなければ。フィレーネを守らなければ。
できる。僕の力を使えば伯爵家ごと消し飛ばすことだってできる。指を一本鳴らすだけで。
でも、それは最後の最後だ。
フィレーネが自分の力で立ち上がろうとしている。その過程を僕の力で台無しにしたくない。
彼女には彼女の戦い方がある。僕はその後ろに立って、本当に危険な時だけ手を出せばいい。
使用人とはそういうものだ……。
紅茶を飲み干して、カップを洗い自室に戻る。使用人部屋の小さなベッドに潜り込んだ。
ハイエルフに睡眠は不要だが、目を閉じて横になる時間は好きだ。
唯一、前世の「人間だった頃」に戻れる気がする時間だ。
明日も朝が来る。フィレーネがぎこちない手つきで朝食を作り、ミーナが庭を掃き、僕が屋敷の点検をする。ささやかで不完全で、有限の日常。
守るに値する日常だ。
目を閉じる。
森の方角に、まだ三つの炎が揺れていた。




